その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は宮城谷昌光さんの『 諸葛亮 』。「はじめに」「あとがき」に代えて「連載を終えて」をお届けします。

【連載を終えて(あとがきに代えて)】

 三国志の世界で、諸葛亮(孔明=こうめい)は絶大な人気がある。

 この人気を産みだしたのは、すでに明(みん)の時代に成立した通俗小説の『三国演義(さんごくえんぎ)』である。この小説は、史実にある良いところをことごとく諸葛亮の策略や行動として、かれを超人化してしまった。したがってその像は、実像とはずいぶんずれがある。

 私は実像から遠くないところで小説を展開することを好むので、いくつかの難問に直面せざるをえなくなった。

 正史『三国志』は、三国時代が終わって晋(しん)の時代となり、さほど経(た)たずに成立したので、ずいぶん信憑(しんぴょう)性が高い。その『三国志』のなかに「諸葛亮伝」がある。

 私が難問といったのは、諸葛亮の叔父(おじ)の行動である。それに関して、正史にはこうある。

 「諸葛亮は早くに父を喪(うしな)った。従父(おじ=叔父におなじ)の諸葛玄(げん)は、袁術(えんじゅつ)の任命によって豫章太守(よしょうたいしゅ)となり、亮と弟の均(きん)を連れて、任地におもむいた」

 歴史の記述とは、これほど簡略なものかとあきれる人もいるであろうが、正史とはそういうものなのである。

 十代の諸葛亮に、たしかに父はいないが、継母(けいぼ)と諸葛瑾(きん)という実兄がいる。さらにふたりの姉もいる。故郷である琅邪(ろうや)国陽都(ようと)県(徐[じょ]州)をでて、叔父に従って豫章の政府がある南昌(なんしょう)県へむかったのは、亮と均のほかにふたりの姉もであるが、継母と長兄は同行しなかった。

 なぜ、と問わざるをえない。

 徐州は曹操(そうそう)の侵寇(しんこう)にさらされ、軍事的に不安定となった。そこに残るのはかなり危険である。だが、叔父の任地が安全というわけではない。そこまで、他家の四人の子をかかえてゆく諸葛玄の財力と家族構成はどうなっているのか。

 さらに、最大の難問があった。

 正史にはいくつかの「注」が付属しており、そのなかのひとつである『献帝春秋(けんていしゅんじゅう)』には、南昌県をしりぞいた諸葛玄は、西(せい)城にとどまったが、やがて住民の叛乱(はんらん)によって殺された、とある。正史の本文では、荊(けい)州の劉表(りゅうひょう)にたよったとあるので、大いに矛盾する。

 なぜ、なぜ、と自問をくりかえしているうちに、小説の構想はふくらんでゆくもので、そういう、なぜ、がないと歴史小説はおもしろくない。どこを捜しても正解が得られないときでも、小説家は避けずに、小説的解答や解釈を示してゆくべきであろう。私はその覚悟で連載小説を書きはじめ、書き終えた。

 ところで、正月開始から半年以上がすぎたとき、小説に絵をつけてくださっていた村上豊さんが亡くなられた。村上さんは天才的な画家で、早い筆さばきで詩情を画(か)けた。その逝去(せいきょ)を悼惜(とうせき)するばかりである。なお、絵がとぎれなかったのは、原田維夫さんの手際のよさによる。ここで両氏に感謝をささげる。

 私は正史を二十年以上も読み続け、読みかえしては、あらたな年表を作っている。読むという作業に、書くという作業を加えると、新たな謎に遭遇したり、急に謎が解けたりする。この連載小説には、以前にはなかった新発見も付加したつもりだが、その成否については考えぬことにする。

 なお、新聞連載中には、掲載のために西原幹喜さんに懇切(こんせつ)につきそっていただき、出版にむかっては、苅山泰幸さんが丁寧な仕事をしてくださった。両氏には心から感謝を申します。

二〇二三年七月吉日  宮城谷昌光


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