『 世界を解き明かす地政学 』の著者で国際政治記者の田中孝幸さんと、漫画『 紛争でしたら八田まで 』の作者・田素弘さん。地政学という共通のテーマを、フィクションとジャーナリズムという異なるフィールドから発信してきた2人が初めて語り合いました。今回は、その前編です。
「なぜ隣人同士が殺し合うのか」地政学的視点に興味を持った原点
田素弘さん(以下、田) 田中さんの『世界を解き明かす地政学』には書かれていませんでしたが、地政学的な俯瞰(ふかん)の視点に興味を持たれたきっかけは何だったんですか?

田中孝幸さん(以下、田中) 高校時代、サラエボに住んでいたセルビア人の親友がいたんです。何度か遊びにも行っていたんですが、その地域は1992年から始まったボスニア内戦で、ある日を境に隣人同士が殺し合うような戦場に変わってしまいました。ユーゴスラビアという大きな国が7つくらいの国に分かれ、親友も大変な目に遭っていました。なんでこんなことが起きるんだろう? と思って私は現地に行ったんですね。そこで、報道からは分からない複雑な背景を実感したんです。
田 友人、知人がいると感じ方が違いますよね。報道だと、どうしても「殺したほうが悪、殺されたほうが正義」という構図になりがちなんですけど、それは一部分でしかないですもんね。
田中 若いときにセルビア人やクロアチア人の家に招かれて、腹がパンパンになるくらいオカンの飯を食わされました(笑)。バルカン半島のホスピタリティってすごいんですよ。そのセルビア人とクロアチア人が民族として対立して、衝突している。でも、それぞれの人の顔が見えてしまうと、簡単に善悪を語ることがいかに危ないかを実感します。
その点、私が『
紛争でしたら八田まで
』を読んで共感したのは、簡単な善悪という基準で人を裁く視点がまったく出てこないこと。それがすごいと思いました。
田 僕は若い頃に半年だけロンドンで暮らしたことがあって、地政学的なものには2000年代から触れるようになったんですけど、当時はイデオロギーとか善悪とか二元論的な言説がすごく多かった。でも、本当にそんな単純なのかなとずっと疑問に思っていたんですね。
そんなとき地政学的思考というものに出合いましたが、そこには合理性がありました。資本主義がいい、社会主義が悪いではなく、なぜそれが出てきたのかという原理をたどって考えていき、その構造を分析すると腑(ふ)に落ちるし、第三の考えが出きます。何か広い視点を持たせてくれる学問なのかなと書籍を読み込んでいくようになりました。
田中 今もロシアのウクライナ侵略が続いていますが、私にはロシア人、ウクライナ人、両方の友人がいます。すると、紛争当事者のすべての側に人の顔が見えるものです。侵略は許されないことですが、ロシア人がみんな悪魔かというとそうではない。簡単には語り尽くせない背景があるのは分かります。
田 これは『紛争でしたら八田まで』の中でも割とストレートに言っているんですが、大切なのは、白黒じゃなくてグラデーションなんです。題材は舞台となる国ごとに違うんですけど、その見方は作品を通底するテーマになっています。
ストーリーを伝える分には白黒のほうが分かりやすいんですけどね。スパッと敵味方に分けたほうが、読者も爽快ですし。でも、世の中はもっと複雑で、グレーで、ぐちゃぐちゃの中でおもしろく動いています。その上グラデーションにすると物語は一気に複雑になってしまいますしね。そこは描いていて一番難しいところでもあります。
かつて感じたヨーロッパの女性の強さから生まれた、キャラクターの性格

田中 『紛争でしたら八田まで』では、登場するキャラクターがとても魅力的です。主人公の八田百合は“地政学リスクコンサルタント”として、世界各地で起こる問題をその土地の歴史や文化、宗教や民族といった視点から解決していきますね。
田 百合については「どの場所にいても浮くような存在」にしたかったんです。性格的は人の輪に溶け込みやすく、何でも食べて、周囲を観察し、貪欲に情報を取り込む。その一方で、どんな場所でも目立つ派手な格好をしているのは、全体を俯瞰(ふかん)して見る人間なので、どこか超然としているイメージが欲しかったからです。
田中 また、百合の旧友のオクサナというウクライナ人のキャラクターの描写もいいですよね。本当にいるんですよ、ああいう人。すごく優秀で、美人で、めっちゃ気が強くて、でもちょっと弱さもある女性で、海外で暮らしているけど、愛国心も強い人です。
田 オクサナに具体的なモデルがいるわけではないんですけど、イギリスにいたときに、日本と違うヨーロッパの女性の強さみたいなものを感じました。絶対に謝らない、譲ったら負け、という意志を強く感じるんです。
もちろん、みんながみんなそうだったわけではないですけど、強く印象に残っています。弱みを見せられない国から来ているから、そうなるのかなと思ったりもしていました。そういう実体験が自然と出たのかなと思います。
田中 母国が「弱い国」の人は、国外に出ていろいろなところで生き抜いていかなければいけないですからね。弱みを見せない強さが生存戦略になっていくんでしょうね。
「忘れられないプロフの味」、食を通じて国を知る
田中 それから作品の食事の描写もすごく豊かですよね。漫画の中で、百合が地元のものをおいしそうに食べていくのがとても印象的です。
田 僕はもともと、観光客向けの食事にほとんど興味がないんです。日本を考えても、すしと天ぷら、すき焼きだけじゃないですよね。
僕は、取材代わりにYouTubeで現地の人が近所で食事しているような動画を見ているんですが、必ずといっていいくらい全然知らないドロドロした煮込み料理が出てきます。そういう知らないものって、まずそうなほどちょっと手を出してみたくなるし、実際に食べると記憶にも残ります。百合が現地に飛び込んでいくスタイルの人間である以上、まずはそこで暮らす人たちが日常的に食べているハイカロリー低コストな料理を食べるはずですから。それを見せるようにしています。
田中 分かります。その国の料理をおいしく食べた時点で、相手が心を開いてくれるんですよね。私が忘れられないのは、2014年にロシアのクリミア侵攻があったときにずっと現地にいて、食べた料理です。クリミア・タタール料理のプローヴというピラフがあります。油をたくさん使って、不思議な香辛料と謎の野菜が入ってます。中央アジアではプロフとも呼ばれますが、これがおいしくてね、もう忘れられないんですよ。

田 おいしいですよね。プロフっていう名前の料理って、中東から中央アジア、あちこちにありますよね。独特の味わいがします。
田中 同じプロフという名前だけど、それぞれ微妙に異なるのがおもしろいんですよね。カザフスタンでもウズベキスタンでもちょっとずつ違います。「うちが元祖だ」とみんな言うんですけど(笑)。
田 どこが元祖かさっぱりわからないですよね。大陸は特にあちこちに伝わって変わっていきますね。麺にしても同じですよね。
田中 こうした食の分布と伝播(でんぱ)もすごく地政学的ですよね。民族そのものだなって感じがします。
取材・文/佐口賢作、構成/中野亜海(日経BOOKSユニット編集部)、市川史樹(日経BOOKプラス編集) 写真/稲垣純也
台湾問題やロシアのウクライナ侵攻、グリーンランド問題など、地政学の視点が必要となるニュースが年々増え続けています。戦後80年で世界は再び、大国が勢力圏拡大にしのぎを削る時代に入ったようです。これからさらに紛争が増える時代になるのでしょうか? すべてのニュースには、背景や理由があります。この本は国際情勢のポイントを網羅する1冊です。ぜひ手に取って知識を深めてください!
田中孝幸著、日本経済新聞出版、1980円(税込み)


