スウェーデンの新時代の知性クリスティアン・ロン氏による新刊『 ダーウィンの罠 私たちはなぜ重要な選択を間違い続けるのか? 』(夏目大訳、日経BP)から、ウォール街の金融詐欺を事例に、不道徳なサイクルが生まれる背景を読み解きます。本文から再構成して紹介する第1回。

ウォール街の詐欺

 アンジー・ペイデンは2011年、金融機関ウェルズ・ファーゴのウィスコンシン州ハドソンの支店で働き始めたが、その時はまさか自分が3年後に失業し、依存症に苦しむようになるとは思いもしなかった。ペイデンが転落していく過程を知れば誰もが驚くだろう。この悲しい出来事は、人間を利己的な行動に走らせる選択圧「ダーウィンの悪魔」が現代の職場にどう影響しているかを知るのに最適な事例でもある。働く人たちの多くは自分の職場を、ストレスやフラストレーションが多く、やる気を失わせることだらけの場所だと感じている。実際、頭を使う仕事があまりなく、充実感を味わう機会がほとんどない、という職場もある。また、働く人が、倫理にもとる行動を取ることでしか成功ができない、という「不道徳なサイクル」にとらわれてしまう職場も存在する。

 ペイデンがウェルズ・ファーゴで働き始めたときに置かれた状況がまさにそれだった。2年後にロサンゼルス・タイムズ紙が行った大規模調査によれば、この巨大銀行では、地位の低い行員には上からの強い圧力がかけられており、皆が厳しい販売ノルマに追われていたという。多くの社員が何をしてでもノルマを達成せねばという思いにとらわれていた。2016年、ペイデンはニューヨーク・タイムズ紙の取材に応え、ウェルズ・ファーゴ在籍時の自分についてこう語っている。

 「当座預金口座の残高を維持するのに苦労しているような顧客に、破綻の先送りのため無理やりに新たなクレジットカード口座を開設させたりしていました……上からの圧力に負け、口座防衛のため顧客に知らせず勝手に新たなクレジットカードを作らせていた行員もいました。それによって顧客には余分な月額手数料が請求されるのに……。既存の口座に対し不正が行われたと嘘をついて、顧客にその口座を閉鎖させ、新口座の開設をさせる、ということも行われていました」

 ウェルズ・ファーゴの行員たちは、顧客に黙って勝手な取引をさせていたのだ。そうでもしないとノルマの達成ができなかったからだ。

ウェルズ・ファーゴの行員たちは厳しいノルマ達成のために、次第に倫理観のない行動を取るようになり、長い目で見たら企業の信用を失うようなことをしてしまった(写真:oben901/stock.adobe.com)
ウェルズ・ファーゴの行員たちは厳しいノルマ達成のために、次第に倫理観のない行動を取るようになり、長い目で見たら企業の信用を失うようなことをしてしまった(写真:oben901/stock.adobe.com)

 行員に厳しいノルマを課すという戦略は、短期的にはウェルズ・ファーゴに利益をもたらした。株価は上昇し、同行は、顧客を獲得し維持する秘訣をつかんだと言われた。全米で、ペイデンをはじめとするウェルズ・ファーゴの多数の行員が一斉にともかく短期的利益を高めることだけを目的として行動した。だが、ウェルズ・ファーゴの歪んだ成功基準に合わせて動いていると大きなストレスがかかる。ペイデンはストレスのせいでパニック発作を起こすようになり、手指消毒剤を飲むようにもなってしまった。2012年11月には完全に依存症になって、毎日ボトル1本の消毒剤を飲んでいた。

善悪の基準があいまいになる構造

 ペイデンは結局、依存症の治療のために職場を去ることになる。ウェルズ・ファーゴという企業自体も無事では済まなかった。ロサンゼルス・タイムズ紙が、同社の詐欺的行為の実態を暴いたことで、連邦政府による捜査を受けることになったのだ。その結果、FRBはウェルズ・ファーゴの資産のうち2兆ドルを差し押さえた。また銀行と多くの幹部たちは巨額の罰金を科されることになった。CEOは銀行業界から永久追放された。銀行の名前は不祥事の代名詞のようになり、信用は失墜してしまった。詐欺や不正の被害者となった顧客はウェルズ・ファーゴを信用しなくなり、資金を引き上げることとなった。アンジー・ペイデンのような無数の一般の行員の人生を台無しにした結果がそれである。

 ウェルズ・ファーゴほど露骨ではないにせよ、金融業界には似たような事例が他にも数多くある。高すぎる目標を掲げた結果、倫理にもとる行動が横行した事例は珍しくないのだ。2008年の金融危機へとつながったサブプライムローン市場における住宅ローン・ブローカーのふるまいなどは顕著な例だと言えるだろう。厳しいノルマを課せられたブローカーたちは、返済能力に欠ける人たちにまで貸し出しをするようになってしまった。債務不履行になる危険性が高いことを知りながら、審査に通るよう、申し込みの際に顧客情報を改竄することまでした。ノルマ達成のためにそうした無謀な行動を続けたことが住宅バブルの崩壊につながったのだ。

 企業はどこも基本的には株主の利益が最大になるよう行動するよう促される。株主の利益が強い選択圧になるわけだ――やはりグッドハートの法則が成り立つ状況に置かれていると言えるだろう。その選択圧により、善悪の境が曖昧になることも多い。ルールを曲げるような行為が受け入れられるばかりか、むしろ曲げて当然、という意識が広がることもあり得る。

 そのような文化が醸成されると、本来は倫理にもとるはずの行動を婉曲的な言葉で表現して「消毒」するようなその企業独自の言語が生まれることもある。複雑な会計操作を「戦略的財務エンジニアリング」、積極的な脱税を「税務対策」、大量解雇を「リストラ」、価格の大幅引き上げを「収益最適化」などと呼ぶのはその例である。仮にルールを破ったことで罰金を支払うことになっても、それを単なるビジネス上のコストとみなすことさえある。当局が傍観している限り、また競争力の向上につながる限り、倫理上問題のある行動が止まることはないだろう。

 ダーウィンの悪魔との戦いに勝つには、選択圧そのものをなくすか、弱めるしかない。ウェルズ・ファーゴとその幹部が厳しく罰せられたことも、環境を変えるのに役立ったはずだ。

 ダーウィンの悪魔に勝つのは不可能なことではない。実際に勝った事例は存在する。対策の結果、皆が行動を変え、協調し合うようになり、全体の環境が良い方向に変化した事例は多いのだ。では、どうすれば勝てるのか。その悪魔に勝つには、正反対の選択圧がかかるようにすればいい。人々が長期的な視野を持ち、全体の環境が良くなるような協力的な行動を取るような選択圧だ。それを私は「ダーウィンの天使」と呼んでいる。

*グッドハートの法則とは、社会、経済のどのような指標も、それが目標になった途端、良い指標ではなくなるという法則のこと。その目標達成のために不正をすること、あるいは他を犠牲にすることを皆が厭わなくなる。
斎藤幸平氏推薦!「短期的な成功を競うほど、社会は破滅へと近づく――それが『ダーウィンの罠』だ。本書は、進化の力と資本主義が結託する危うさを暴き、私たちに協調にもとづく新たな社会像を迫っている。絶滅の回避はまだ可能だ」。私たちはなぜ、短期的な成果にすがり、長期的な展望を見失ってしまうのか。企業の不正から、核兵器やAIの進化まで、経済学の理論などを用いて、スウェーデンの気鋭の知性が、よりよい選択をするための方法を探る。

クリスティアン・ロン(著)、夏目大(訳)、日経BP、2530円(税込み)