2025年12月4日、弁護士ドットコムは東京証券取引所の東証グロース市場から東証プライム市場へと上場市場区分を変更した。弁護士の資格を持つ創業社長として初めて自分の起業した会社を上場させた元榮太一郎氏をはじめ、20数人のキーパーソンの貴重な証言で綴るベンチャーストーリー、『世界は法律でできている』(日経BP)から一部を抜粋してお届けする。
電子署名法の電子署名ではなかった?
2017年10月、一人の人物が弁護士ドットコムにジョインした。電気通信業、人材サービス業、ウェブサービス業ベンチャー、スマホエンターテインメントサービス業で法務・知財の経験を積み、責任者も務めてきた橋詰卓司だ。
企業法務のスペシャリストである一方、個人ブログ「企業法務マンサバイバル」の書き手としても知られ、著書も出しており、法務の世界における著名人だった。「クラウドサイン」を当時率いていた事業部長、弁護士の橘大地と昔から知り合いで、この事業のことを知った。
「リーガルテックという言葉が日本で広まり始めたのが、2016年の終わり頃だったでしょうか。それまで企業法務を16年やっていましたが、いろいろ非効率なところもあるので、エンジニアリングでガラガラッと変わっていきそうだな、変えないといけないな、という思いは持っていましたね」
このサービスで企業法務を変えていきたいという橘のビジョンに共感し、橋詰は入社することになる。自身、前職の上場企業では法務部長を務めており、「ハンコ文化」の歪さには気づいていた。
「注文書だったり、製本されて契約・割印をしないといけない本格的な契約書だったり、捺印しないといけない書類は、1日だいたい30通はあるんです。しかも皆さん急ぐので、毎日、朝30分と夕方30分取って、印鑑を押す時間にあてていました。カレンダーには帯で『押印タイム』と記されていて。本当の話です」
毎日1時間、印鑑を押すだけの時間。馬鹿馬鹿しいと思っていた。こうした体験があっただけに、変えないといけないという思いに共感できたのだ。
一方で、長く法務マンを続けてきた身としては、弁護士ドットコムへの転職は一つの挑戦でもあった。法務のキャリアに甘えることなく、別の仕事もやりたいと考えてもいたのだ。キャリアチェンジは難しいと思ったが、弁護士ドットコムなら、これまでのキャリアを活かしつつ、違う仕事もできるチャンスがあるということだった。
実際、マーケティングの仕事から始めている。そして、「クラウドサイン」をめぐる、意外な事実に気づく。
「思っていたより売れていなかった、ということです。たしかに導入実績は入社時には1万社近くあり、1年後には1万社を超えましたが、もっと多くなると思っていたんです。利用頻度の高い大手クライアントも、もっとたくさんあると思っていました」
やがてマーケティングの仕事を通じてわかったのは、プロダクトに問題があるわけではまったくないということだった。それよりも、電子契約というものに対する、企業法務のアレルギーが強かったのだ。
「例えば、先進的な会社が1社、『うちはクラウドサインでやりたい』となったとしても、もし同意しない取引先がいれば、できないわけですね。大手ともなれば、取引先は数百社もある。同意しないという、その一社一社を口説いていくなんてことは、まず無理です。ほんの一部だったとしても、簡単なことではない」
手間やコスト面で大きなメリットがあったとしても、相手のあること。そうそう簡単に電子署名にできるものではないのだ。しかも、取引先が顧問弁護士に相談したりすると、さらにややこしいことになった。
「電子署名で本当に大丈夫なのか、と疑う顧問弁護士もいたからです。電子署名法という法律があったためでした」
電子署名法で定義されている電子署名、つまりは法律用語としての電子署名というものがすでにあった。そこに書かれているのは、極めて面倒で使い勝手の悪いものだった。

お互いの署名者が法務局でアカウントを発行してもらい、カードリーダーのようなものに読み込ませて署名しなければならなかった。大変な手間がかかることもあって、ほとんど広がらなかった。
一方、契約というのは口頭でも成立するという基本概念を考えれば、クラウド型電子署名でも十分に有効だったし、エビデンスが取れた。「クラウドサイン」はメールアドレスさえあればワンクリックで署名ができ、多くの賛同者が出ていたのだ。弁護士が社長を務める弁護士ドットコムがサービスとして提供しても問題なかった。
だが、厳密に法律に照らし合わせてみると疑問がある、という見解を持つ弁護士や法務関係者がいたことは確かだった。まだグレーゾーンだ、というのだ。そのことについては、もちろん元榮も知っていた。
そこに予想もしていなかった事態がやってくる。世界を震撼させた新型コロナウイルス感染症の騒動だった。
「ハンコを押すために出社」をなくす
電子署名法は2001年に施行されていた。イノベーションが次々に巻き起こるデジタルの世界で、実情に即しているとは、とても言えなかった。だから、電子署名は日本では広がらなかったのだ。
そして2015年、「クラウドサイン」がローンチしたときには、弁護士ドットコムは会社としてある意味、開き直っていた、と橋詰は言う。
「日本の電子署名法は古い。たしかに2001年の電子署名の定義には当てはまらないが、クラウドサインは実務的にまったく問題ない。証拠として使える。だから大丈夫。言ってみれば、そういう割り切った提案の仕方をしていたわけです」
一方で、これでは本当の意味での理解は進まないのではないか、「いやこれは電子署名法にも適合している」という解釈にきちんと持っていったほうがいいのではないか、という問題意識が、会社としてはずっとあった。やがてそれをはっきりと意識するようになるのである。
マーケティング担当だった橋詰の仕事は、やがて少しずつ変化していく。政策企画的な仕事に向かうようになったのだ。いわゆるロビーイングである。政府の政策に影響を与えることを目的として行う活動だ。法務の分野でキャリアを積んできた橋詰の経験が活かせる、新しい仕事だった。
折しも2020年、日本にも新型コロナウイルス感染症が上陸。緊急事態宣言で街からもオフィス街からも人が消えた。会社への出社はできなくなり、リモートワークが当たり前となった。ところが例外が、「ハンコを押す業務」だった。
契約書に印鑑を押すためだけに、わざわざ感染のリスクの中で会社に行かなければならない。橋詰も感じていた「馬鹿馬鹿しさ」に、多くのビジネスパーソンが気づくことになる。と言うより、それが世に広く知られることになったのだ。社会全体としても「このデジタル時代に何をやっているのか」と呆れる対象になった。
「それで、もう押印なんてしている場合じゃない、と当時のデジタル担当大臣が騒ぎ出し、電子契約が一気に浸透していくことになるわけです」
法律の条文を変えずに「解釈」を変える
だが、ここで問題になったのが、2001年施行の電子署名法だった。「クラウドサイン」は電子署名法のもとで、電子署名に該当するのかどうか。どうすれば、電子署名法の電子署名に当てはまると言えるのか。
納得してもらえるように理屈を整え、法務省、総務省、経済産業省の三つの省庁に働きかけることが、橋詰の役割となった。
「実は、電子署名法の法律の条文自体は、一言一句、今も変わっていないんです。では、どうすれば、その電子署名法の定義に当てはまり、世の中でちゃんと通用する電子署名として扱えるのか、それを法務省と一緒に討議しました」
世の中からは間違いなく求められている。実務的にもまったく問題がない。でも、法律は簡単には変えられない。実は変えたくても変えられない、ということもあるのだ。
それなら、方法を考える必要がある。ただ法律を変えてもらおうと動くことがロビーイングではない。どうすればそれが達成できるのかを一緒に考えるのもロビーイングなのだ。このときが、まさにそうだった。
2020年7月と9月に「電子契約サービスに関するQ&A」という文書が法務省をはじめとした所管省庁から出た。電子署名法第二条・第三条に関する新たな解釈が示されたこの二つの文書によって、「クラウドサイン」は法律的なお墨付きを得ることができたのだ。
「ここに、クラウド型も電子署名法の電子署名に当てはまるよ、と明文化されたんです。電子契約で検索すると当時、トップになるニュースでした。つまりは、それを実現させることが、私のミッションだったわけですが」
晴れて「クラウドサイン」は法律の上でも電子署名として認められることになったのだ。これが、営業活動を後押ししなかったはずがない。
ウェブブラウザだけで契約が完結してしまえるという簡潔さ、さらには新型コロナ禍も手伝って「クラウドサイン」は爆発的な成長を遂げることになる。その後の2年ほどで一気に導入10万社を突破するのだ。
そして橋詰は今、ロビーイングのスペシャリストとして政策企画室に所属している。法務マンからのキャリアチェンジに、見事に成功した。
[日経ビジネス電子版 2026年2月19日付の記事を転載]
元榮太一郎、上阪徹(著)/日経BP/2090円(税込み)
