薪を背負って本を読む勤勉な少年。多くの人が抱く二宮尊徳のイメージは、彼の一面にすぎない——。そう語るのは、北康利氏と井上裕氏だ。くしくも同時期に二宮尊徳にまつわる本を刊行した2人は、尊徳の真の姿は「投資家」「経営者」、そして「再建請負人」だと語る。補助金に頼らず、荒廃した村を次々とよみがえらせたその手法は、現代の地方創生やSDGsを先取りしているという。稲盛和夫をはじめ、多くの経営者が継承する尊徳の思想の核心に迫る。
補助金ゼロで地方再生。凄腕の「再建請負人」だった尊徳
北 康利氏(以下、北):二宮尊徳というと、多くの人が思い浮かべるのは「薪を背負って本を読む勤勉な少年の姿」ですよね。小学校の銅像のイメージです。でも、あれは尊徳の本質を表していない。実は、尊徳は「投資家」であり「経営者」だったんです。金を遊ばせない人で、金が入ったら田んぼを買ってそれを貸す。こうした尊徳のすごさを本に書いてほしいと背中を押してくれたのは、レオス・キャピタルワークスの藤野英人さんでした。

尊徳がいま生きていたら、宇沢弘文さんの言う「社会的共通資本」(※1)に近い発想、投資で言えばインパクト投資のような、社会貢献に取り組む企業を応援するファンドを作るんじゃないか。つい、そんなことも想像してしまいます。
井上 裕氏(以下、井上):本質的なお話ですね。尊徳には2つの顔がある。1つは農村復興のリーダー。荒廃する村の再建に携わった農地改革者です。もう1つはインベスター、つまり投資家としての顔。いろいろな資料をひもといても、尊徳は農村の経営者であったことがよくわかりますよね。

北:農政者としては、「荒れ地を開くは荒れ地の力で」という考え方を重視していましたね。尊徳が仕えていた小田原藩が「補助金を出すから村を立て直してくれ」と頼んだとき、尊徳は「補助金は要りません」と断った。「補助金なしでどうするんだ?」と問われた尊徳は、こう返します。日本という国ができたとき、隣の国から補助金をもらったのですか。違う。日本は日本の力で形作られてきた。それぞれの土地の力で復興していくのが当たり前だ、と。
SDGsなんていまさら言われなくても、尊徳はもうやっていた。僕に尊徳の本を書くことを後押ししてくれたもう1人の人物、木下斉さんは地方創生のために全国を回っているまちづくりの専門家ですが、彼がよりどころにしているのも、二宮尊徳の考え方や方法論、つまり「報徳(ほうとく)思想」なんです。
「至誠・勤労・分度・推譲」——継承される報徳思想
北:「報徳」の価値は、徹底した実践にあります。尊徳の高弟、富田高慶(とみた・こうけい)とのやりとりも有名ですね。高慶は儒学を十数年も修めたインテリだった。尊徳は彼に「『豆』という字を書いてみろ」と言い、紙に書かせる。そして、こう諭したといいます。「お前が書いた豆は馬は食べないが、俺の作った豆は馬が食べる」。理屈だけではなく、実践で結果を出せ、と。
報徳思想は「至誠(しせい)・勤労(きんろう)・分度(ぶんど)・推譲(すいじょう)」の4つが原則です。「至誠」はまごころ、利他の心が行動の原点になる。これは稲盛さんも尊徳から学んだところです。「勤労」は一生懸命働くこと。「分度」は身の丈に合った生活、持続可能な経営。収入に応じた支出計画を立てる。「推譲」は余剰を社会に還元すること。自分だけ儲けるんじゃなくて、余った分は社会に還元していく。こうした報徳思想を実践したのが、松下幸之助さんであり、稲盛和夫さんだった。
井上:トヨタもわかりやすいですよね。トヨタグループの創業者は豊田佐吉さんですが、そのお父さんの伊吉さんが、遠州における報徳運動の中核にいた。だから「豊田綱領」も、報徳思想の根幹をなす「至誠・勤労・分度・推譲」に基づくものになっている。
一、研究と創造に心を致し、常に時流に先んずべし
一、華美を戒め、質実剛健たるべし
一、温情友愛の精神を発揮し、家庭的美風を作興すべし
一、神仏を尊崇し、報恩感謝の生活を為すべし
——「 TOYOTA トヨタ自動車75年史 」より
井上:さらに、尊徳の思想には「一円融合(いちえんゆうごう)」もあります。解釈にはいろいろあると思うのですが、たとえば、稲盛さんはどこまでも、「人間の良心は実在する」と信じた人でした。一方で尊徳は「幕府や領主には良いやつもいれば悪いやつもいる、それが世の中なんだ」と考えた。良い人が悪い方に傾いたり、悪い人が良い方に振れたりもする。だから「決めつけてはいけない」と。これが一円融合なのかと私は思って、感動したんです。
つまり、何かを言うときに断言するべきではないし、「断言する人には気をつけろ」と言っている。絶対的な良心、絶対的な善なんてない。善人もいれば悪人もいる。良い時もあれば悪い時もある。天気だって、晴れている日もあれば雨の日もある。何事にも両面がある。どう動くかはわからないから、まあがんばって働いてやっていこう、というような感じでしょうか。
北:いまの時代だと、SNSで政府を批判しながら酒を飲んでいる人も多いかもしれない。でも、尊徳は「領主の気持ち、将軍の気持ち、皇室の気持ちも考えること」も諭しているんですよね。
洪水で田畑が流されても、どん底から這い上がる
井上:興味深いのは、尊徳が生きてきた時代背景です。尊徳が生まれた1787年は天明の大飢饉の直後で、寛政の改革が始まる時期でした。どの藩も財政が破綻しかけていた。尊徳はまさにその時代の申し子として、農地改革と藩政改革の両方を具現化していく。いまは金融資本主義が全盛の時代ですが、農地問題は形を変えて残っています。それもあって、尊徳の視点が必要なんじゃないかと思うわけです。
北:井上さんがおっしゃった天明の大飢饉に関連して言うと、僕が尊徳の本を書いたとき、まず地球的な視点から入りました。江戸時代の北半球の気温を調べたてみたんです。推定値ですが、当時はいまよりずっと寒かった。つまり、尊徳が生きた時代は、慢性的な寒冷化のなかで、飢饉や洪水が重なる、非常に過酷な環境だったということです。1707年に起こった宝永大噴火の火山灰が、尊徳が暮らしていた地域を流れる酒匂川(さかわがわ)の流れを変え、幼い頃から洪水が頻発するようにもなった。寒さ、飢饉、火山灰、洪水——。尊徳は、そうした条件が重なった土地で生きていた。
井上:尊徳は4歳のときに、家も田畑もすべて流されています。その後、家族で懸命に開墾を始めるものの、志半ばでお父さんが倒れてしまう。11歳頃には堤防工事に参加して、小さな体でとにかく働きました。堤防で働く人たちのために夜なべして作った草履を「落ちていたことにしよう」と、そっと工事現場に置いておくエピソードもありますよね。そうした愚直な働きぶりが、少しずつ村人に受け入れられていく。けれど、無情にも再び酒匂川が氾濫し、ようやく整えた田んぼはすべて流されてしまいます。もう、お父さんもいない。
北:極貧、どん底ですよね。そんな厳しい環境でも、農民から幕臣へ這い上がった。恐ろしい人ですよ、尊徳は。

原発事故と、相馬に根づく報徳仕法
井上:報徳思想を「仕法」という形で体系化したことも、尊徳のすごいところです。具体的には桜町仕法、日光仕法、相馬仕法などがありますが、尊徳はこれらの“プロジェクト”をマニュアル化して、マネジメントするための再現性を確保しました。
北:しかも、幕府が驚くほどの詳細な設計書だったと言われていますよね。その後、尊徳は高弟の富田高慶や斎藤高行らに委任できる体制を作った。尊徳は死ぬとき、弟子たちに「我が日記を開け、我が手紙を読め」と言った。自分が死んだ後も、日記と手紙を読めば誰でも農村再興ができるようにしておいたんです。書き損じた反故まで全部保存していました。
井上:尊徳の仕法は、実際に多くの結果を出しているんですよね。
北:「相馬野馬追(そうまのまおい)」で知られる福島県・相馬のお殿様(35代当主・相馬言胤さん)と親交があるのですが、相馬というのは、ある意味で「藩の人たちみんなが二宮尊徳だった」と言ってもいいような土地なんです。報徳仕法の下に一致結束して、明治に入るまで大きな成果を出しているんですね。
相馬藩は関ヶ原の戦いのとき、北に伊達家があったせいで参戦できず、それを理由に徳川家康から一度取り潰されています。でも、その後、「伊達を監視する役割があるから必要だ」と知行(所領の支配権)を安堵されて復活する。いわば藩の存亡の危機を経験しているわけです。さらに、天明の飢饉で人口が3分の1ほどに減ってしまう。石高はあっても収入が落ち込み、まさに第2の危機という状況でした。そこで報徳仕法が入るんです。実際に動いたのは富田ですが、報徳仕法を実践することで、藩の財政は全盛期近くまで回復しました。
で、僕が言いたいのはその後です。2011年の東日本大震災で、相馬は原発事故という未曾有の危機に直面しました。旧相馬藩領は住むことさえ難しい状況になった。この危機からどう立ち上がろうとしているかというと、やっぱり二宮尊徳なんです。「この人の考えでやれば必ず復活できる」と、いまでも信じられている。報徳思想は、それだけの力を持った考え方なんです。

取材・文/金澤英恵 写真/稲垣純也
井上裕著、日経BP、2420円(税込み)
