ミステリの名手であり、ホラーや純文学なども手掛ける芦沢央(よう)さんのエッセイ連載。前回(参照:「失言が怖い」のに小説家がSNSをやめられない理由)は、芦沢さんが悩んでいるというSNSの使い方についての話でした。今回は、突発的な出来事への対応が苦手で、その場でどう返せばいいかわからないという話です。(編集部より)

(イラスト=くぼ あやこ)
(イラスト=くぼ あやこ)

突発的な出来事への対応が苦手

 親譲りの対応力のなさで、子どもの頃から損ばかりしている。

 〈突発的な出来事への対応が苦手なたちで、子どもの頃から~〉と書こうとしたところで、何か『坊ちゃん』の冒頭に似ているな、と連想したため出来心でもじってみたが、もじってからもじるのに適した文章ではなかったと気づき、もじるために「損ばかりしている」としたことで、そういえば損しているのかもしれないと気づいた。何事に対しても気づくのが遅い。

 たとえば、並んでいる列に横入りされてもボーッとしていて、後ろの人に舌打ちされてはじめて「あ」となる。久しぶりに会った人の名前がすぐには出てこず、曖昧な笑顔のままやり取りして別れてから思い出す。新刊インタビューなどで想定外の質問をされるとろくに答えられず、帰宅後に「こう言えばよかったのでは」と思いつくこともしょっちゅうだ。

 そもそもこの「ひとり反省会」自体、リアルタイムでは対応できず、後になって反省することがあまりに多いから続いている連載である。

 これは昨年の話だが、WOWOWで連続ドラマ化した『夜の道標』の撮影現場に原作者としてお邪魔させてもらう機会があった。

 刑事課のシーンの撮影ということもあり、緊迫感が漂う現場で、私はとにかく邪魔になりたくない一心で息を潜めて見学していたのだが、休憩中、監督やプロデューサー、俳優さんたちが気さくに話しかけてくださり、とても楽しい時間を過ごした。

 それでも緊張していることが伝わったのだろう。主演で刑事役の吉岡秀隆さんが「確保!」と私を逮捕する真似をして、場を和らげてくださった――のだが、私は咄嗟(とっさ)の切り返しがわからず、「あ、はい」と返してしまった。

 「あ、はい」って……!

 後日、同業者にこの話をしたところ「世界一つまんない返しだね」と言われたが、私もそう思う。とんだボケ殺しである。本当に逮捕された方がいい。

 こういうとき、私は一拍遅れて「しまった」と思う。けれど、失敗したことに気づいてもすぐにはリカバリーできない。慌てれば慌てるほど頭の回転が遅くなってしまうからだ。

「反省しているだけのエッセイ?」

 これは反省会のテーマになりそうだと思ってこの原稿を書き始め、〈親譲り〉と書くからには一応事前に了解を取っておいた方がいいかもしれないと考えて母に電話した。

 「芦沢央のひとり反省会っていう、私がただひたすら反省しているだけのエッセイ連載があって、その中で私が突発的な出来事に弱いって話を書こうと思うんだけど」

 いきなり切り出した私に、母は「反省しているだけのエッセイ?」と怪訝(けげん)そうな声を出した。

 「えーと、それはまあ、そういうものがあるんだなってことで受け流してほしいんだけど、冒頭を夏目漱石の『坊っちゃん』のもじりっぽくしようと思ってて」

 「『坊っちゃん』のもじり?」

 これは母の対応力の問題ではなく、単に私の説明が下手なせいだろう。それから数分かけて、どういう趣旨の文章かを説明し、何とか悪意がないことを伝えた上で「親譲り」という表現を使っていいか確認すると、母は「お父さんよりはお母さん譲りかもしれないわねえ」と言って了承してくれた。

 「でも、横入りしてきた人に注意したりしたらケンカになるかもしれないし、反応が遅いのも悪いことばかりではないんじゃないの?」

 「それはそうなんだけど、相手に失礼なことをしちゃう場合もあるじゃない?」

 私は恥を忍んで、ドラマの撮影現場でのエピソードを話す。母は爆笑し、「たしかにそれはひどい」とコメントした。はい、おっしゃる通りです……。

 我ながら情けなくなりながら、私は「問題は、咄嗟に対応できないことよりも、すぐにリカバリーできないことの方な気がするんだよね」と続けた。

 「頭の回転の問題というか……ただでさえ遅いのに、慌てるとさらに遅くなるっていう」

 「頭の回転は、歳を取るにつれてもっと遅くなるわよ」

 何ということだ。これ以上遅くなる、だと……?

 しかし、動揺する私に母は言った。

 「別に元々そこまで頭の回転が遅い方ではないと思うけどねえ」

自己認識と他己認識の間にあるズレ

 それは、母が私と同じくらいの頭の回転速度だからではないだろうか、と思ったが、少し気になる指摘だ。

 どうも、自己認識と他己認識の間にズレがあるらしい。

 そこで私は、「頭の回転が遅い」という自認を母以外の4人に話してみることにした。

 結果は、「ああ、そうだね」と肯定した人が1人、「いやいや、遅いわけがないでしょう」と否定した人が1人、「んー遅いですかね?」と首を傾(かし)げた人が1人、否定してから肯定するという器用なことをした人が1人。

 回答者の内訳は、肯定したのが息子、否定したのが世間話程度しかしたことがないものの私が小説家であることは知っている知人、首を傾げたのは編集者で、否定してから肯定したのが同業者である。

 なぜ、こんなにも自分と他者、そして相手によって認識の違いが生まれるのか。

 試しにそれぞれに対して「どうしてそう思うのか」と尋ねてみると、子どもは「算数の問題を解くのが遅いから」とばっさり答えた。知人の回答は「ミステリを書いている人の頭の回転が遅いわけがない」。編集者は「大丈夫ですよ。新刊インタビューとかトークイベントとかでもテンポ良く話されてるじゃないですか」と励ますように言い、同業者は「周りに速い人がいるからそう感じるだけで普通じゃない?」とフォローしてから、「あ、でもマダミス中には遅いと思ったことあるかも」とつけ加えた。

 (マダミスとはマーダーミステリのことで、ざっくり言えば殺人事件などのシナリオでプレイヤーが登場人物になりきり、会話と調査を通じて犯人を当てる推理ゲームである。ミステリ作家仲間でこのゲームをやると、大抵私が負ける。犯人役が回ってくれば必ず当てられるし、犯人役じゃなくても毎回吊られる(多数決で拘束される)。会話と調査を進める中で少しずつ明らかになっていく情報に合わせて頭の中でロジックを組み直し、不自然にならないように振る舞いながら自らの目的を達成しなければならないのだが、私は毎回ロジックの組み直しが間に合わないため、不自然な点を少しでも詰問されると慌てて挙動不審になってしまうからだ)

小説家は自分よりも頭が良い人間を書けるか

 さて、4人の回答の中で、まず興味深いのは、「ミステリを書いている人の頭の回転が遅いわけがない」という意見だ。

 これはもしかしたら、よく議論に上がる「小説家は自分よりも頭が良い人間を書くことができるか否か」問題と繋がっているかもしれない。

 ミステリに登場する探偵役は、普通ならば見逃しかねないような些細な断片情報を的確に拾い合わせてロジックを組み立て、推理を披露する。それも、しばしば常人には考えられないような速度で。

 要するに、「小説家は自分よりも頭が良い人間を書くことはできない」という立場で考えると、「頭が良さそうな探偵役を書けるからには作者もある程度賢いのだろう」ということになるようなのだ。

 だが、私は「小説家は自分より頭が良さそうな人間を書くことはできる」という見解を体感として持っている。

 小説においては、作者が様々なツールを駆使して調べうる限りの知識を、登場人物が脳内だけで保管していることにできる。作者が丸2日考えて組み立てたロジックに、登場人物が2秒で辿り着いてもいい。「頭が良さそう」と読者に思ってもらいたいならば、その登場人物が脳内にある豊富な情報に適切にアクセスし、すばやく論理的に組み立てて発信する様を描けばいいだけなのだ。

 (「頭が良い」ではなく、「頭が良さそう」なのがポイントである。知識の多寡に限らず物事の本質を見極める力がある人、結論を出すまでに時間はかかっても誠実に多角的な視野で思考を深めることができる思慮深い人も「頭が良い人」に違いないが、知識が豊富な人、頭の回転が速い人の方がキャラクターとしてわかりやすく「頭が良さそう」だと認識されやすいのだ)

 次に、他の回答者の意見をまとめて見てみよう。

 彼らによれば、私は「算数の問題を解くときやマダミス中には頭の回転が遅い印象になるものの、新刊インタビュー、トークイベントなどでは違和感のないテンポで話している」らしい。

 前半については私の認識と合致しているが、後半は個人的には何となく腑に落ちない。テンポはそれなりに良いのかもしれないとしても、自分の感覚としては不全感が残ることが多いからだ。

突発的な出来事は「新しい情報」を突きつけてくる

 では、この感覚はどこから来ているのだろう?

 私は、ここまで書いた文章を読み返し、自分に対して「頭の回転が遅い」と感じた出来事を改めて書き出していった。

 やはり、突発的な出来事に弱いことは間違いない。だが、それだけではない。特に慌てたり驚いたりするような状況でなくても、上手く対応できなかったと感じることはある。ただ、前者は思い返しても上手く対応できたビジョンが一切湧かないのに対し、後者はもっと集中していれば上手く対応できたはずなのに、というような「惜しさ」を感じる。

 私は「頭の中に既にある情報や思考にアクセスする速度」と「その場で新しい情報を処理して思考を組み立て、発信する速度」をごちゃまぜにして考えていたが、あるいはこの2つは、私にとっては大きく異なるものなのではないか。

 新しい情報を処理する際、頭の中に既にある過去の事例と照合してパターンのように認識するというのはよくあることだろうから、この2つを並列させるのは適切ではないかもしれない。ただ、私は、「新しい情報」を受け止めること自体にひどく時間がかかる人間である。

 つまり、私は突発的な出来事に直面した際、慌てるから頭の回転が遅くなるだけではなく、そもそも突発的な出来事が私に「新しい情報」を突きつけてくるから苦手だったのだ。

 新刊インタビューやトークイベントでは、近い過去にまとめた思考を引き出す機会が多いため、アクセスが比較的スムーズで、傍からはそれなりに「頭の回転が速そう」に見える(しかし、想定外の話題や質問を投げかけられると上手く対応できないため、自分の中に不全感が残る)。

 一方、算数の問題のように、かなり古い記憶を探らなければならない場面では初手からアクセスに手間取る。それで、自他共に頭の回転が遅いという認識で一致するわけだ。

 そして、マダミスのように、次々に与えられる新情報をその場で処理する必要がある――いわば突発的な出来事が続くような状況では、私の頭はいつにも増してポンコツになる。

 マダミスにおいては、まず自分の役に与えられた設定を正確に覚えた上で、他のプレイヤーが出してくる新情報を「嘘かもしれない」と保留した上で検討しなければならない。それぞれの情報が真実だった場合、偽りだった場合を分けながら、順列組み合わせのように検証して矛盾を見つけ出していかなければ正しい推理ができない。

 けれど私は頭の中で一時的に保持できる情報の容量が少ないため、脳内だけではとても情報を処理しきれず、頭がこんがらがってフリーズしてしまう。

 結果、中途半端な思考のまま、何となく場の流れに身を任せながらその場しのぎの切り返しをしているうちに、気づけば吊られているということになるのである(ゲームで勝ちたい人にとってはいいカモではあるものの、きちんとゲームのポテンシャルを引き出して遊びたい人にとってはノイズのような存在だろう)。

腰を据えて考えたいことを小説の中で考える

 紙と鉛筆があり、1つ情報が増えるたびに充分な時間が与えられればまた違うのかもしれないが……とここまで書いて、だから私は小説を書いているのかもしれない、と気づいた。

 私にとってこの世界は、すぐには処理しきれない情報が溢れすぎている。少しでも理解したい、自分なりの見解をまとめたいと思っても、脳内だけでは到底思考をまとめることができない。

 しかし、腰を据えて考えたいような新しい情報と出合ったとき、それを小説の中に放り込んでしまえば、延々と自分のペースで考え続けられる。しかも思考の痕跡が紙の上に残る。頭がこんがらがって何をどこまで考えたのかわからなくなっても、そのたびに読み返して思考を積み重ねられるのだ。

 小説は、私が書かない限り先に進まない。私が行き詰まってぐるぐるしたり、疲れ果ててぼんやりしたりしても、黙って静かに待っていてくれる。

 ……まあ、〆切前になると、どうして私が書かないと先に進んでくれないんだ、と思うこともあるのだが。