生成AI(人工知能)は、素早く情報収集して文章を作り上げる。しかし、それだけで優れた知的生産が実現するわけではない。重要なのは「統合」の力だ。AIが分析といったスキルを得意とする一方で、人間にしか担えない役割とは何か。経営学者の楠木建氏と独立研究者の山口周氏が語り合う。書籍『知的生産のセンス』(楠木建、山口周著/日本経済新聞出版)から抜粋・再構成。
生成AIは「アジェンダ設定」や「仮説構築」は不得意
山口周(以下、山口) 知的生産の領域でのボトルネックについて考えてみます。コンサルティングの仕事のプロセスで分解すると、「(1)アジェンダ設定」 → 「(2)仮説構築」 → 「(3)情報収集」 → 「(4)情報の分析・統合」 → 「(5)情報の出力(示唆出し)」という流れになります。
生成AI自身に「上記の(1)~(5)のどこが得意なの?」と尋ねてみると、「(3)情報収集は得意です」と答えてきます。まあ、それは確かにそうなんですが、あえて僕が「例えば街を歩いて感じるトレンドの変化のような、1次情報を集めることはできるのですか?」と突っ込むと、「失礼しました。それはまったくできません。私にできるのは、ネット上の公開情報の収集だけです」と返してきましたね。
楠木建氏(以下、楠木) 大規模言語モデルを基盤とする以上、その点は技術がどれだけ進歩しても制約として残りますね。
山口 そうですね。今のところほとんどの生成AIには身体と五感がありませんから、リアル空間で見聞きし、感じたことに基づいて知的生産をすることは原理的にできません。AIには「仮想空間内で記号化された2次情報しか扱えない」という根本的な弱点があります。
それ以外に生成AI自身が得意なことだと答えたのが「(5)情報の出力」に関してです。確かに、ここは実感値としても符合します。僕も自分の書く書籍のテキストをはじめとして、スピーチの内容やブログのドラフトなど、かなりのアウトプットを生成AIに作らせていますが、確かに構成の提案、文章の草稿、表現の改善、図表の生成などは得意ですね。
次に「(4)情報の分析・統合」に関しては、「分析」はある程度できるけれども、「統合」は苦手ですね。「分析」と「統合」は日本語で並べると分かりにくいのですが、英語では「分析=アナリシス」で「統合=シンセシス」で「対の関係」になっている。つまり頭の使い方としては真逆なんですね。例えば「新聞で読んだこと」「会食で聞いた話」「街を歩いて気づいたこと」という3つの種類の異なる情報を統合して、そこから言えそうなことを考える、というのはまだまだ苦手……というより、そもそもできないですね。
そして、まったく駄目だと言ったのが、「(1)アジェンダ設定」と「(2)仮説構築」です。「(1)アジェンダ設定」に関しては、生成AIは過去の議論やトレンドを参考にしか提案できないようです。本質的な問題の創出には、人間の価値観や直観が不可欠だからでしょう。
また、「(2)仮説構築」においても、類似事例や因果関係の推定は支援できるけれども、創造的な発想の飛躍には人間の経験・直観が必要で、やはり生成AIには難しいようです。この2つの領域は、やはりセンスというものが相当出るのではないかと思います。
独立研究者、著作家、パブリックスピーカー
要素分解が招く「ゲシュタルト崩壊」
楠木 スキルが分析(アナリシス)を志向するのに対して、センスの本領は統合なり綜合(シンセシス)にあります。AIが「統合」を苦手とする、という点が重要なポイントです。
スキルは本来的に「要素分解」へ向かうベクトルを持っています。近代社会の基盤にあるメカニズムの一つが「分業」です。スキルはこの分業や専門化という概念と相性が良かった。例えば会社の組織。会計、財務、人事といった専門分野に専門化されています。それぞれの機能分野ごとにそれに対応したスキルがある。分業の単位ごとに特定のスキルを持つ人々のための労働市場が生まれます。
20世紀に入るとスキルが市場で取引できる財になり、スキルの価値は高まりました。ところが、センスのベクトルは逆で、「統合」を向いています。例えば、「洋服のセンスがいいね」と普通に言いますが、その時「彼のネクタイの結び方が最高だ」といった個別のスキルを評価しているわけではありません。全体としてセンスが良いか悪いか、総体を見ている。
このスキルとセンスのベクトルの違いは生成AIの得意・不得意をよく説明すると思います。AIは要素分解されたスキルを代替できる。しかし、統合的なセンスは別問題です。両者は単に違うだけではありません。要素分解が行きすぎると、センスが阻害される。全体性を持った構造が個々の構成要素に分解されて認識される結果、総体としての意味が分からなくなるという「ゲシュタルト崩壊」が起きるからです。
経営学者、一橋大学PDS寄付講座・シグマクシス寄付講座特任教授
『 婚活したらすごかった 』(石神賢介著/新潮新書)という本を面白く読みました。マッチングや婚活パーティーといった人工的に設計されたシステムには極端なメリットとデメリットが併存していることがよく分かります。偶然の出会いと比べて知り合う相手が飛躍的に増える一方で、「相性」という全人格的にして極端に総合的な問題を、年齢や趣味や容姿や収入や住所などの要素に分解してしまう。個別の次元上で相手を評価するようになる。相手が不動産のような「物件」にしか見えなくなってくる。ここにマッチングシステムに不可避の問題があります。
婚活サイトにプロフィールを提出する。各人のプロフィールに異性からの申し込み状況が示される。自分の価値が定量化された気になる。相手によって好みがまちまちだというのがそもそも「マッチング」の本質です。1次元上で測定できる「優劣」などないのですが、システムのありようからして優劣が気になるのは仕方がありません。年収や容姿ばかりが前面に出て、他が捨象されてしまう。情報量が多いほど、実は情報が伝わらないというパラドックスです。
結婚は現実生活の現実的意思決定です。現実的であることは悪くないし、むしろ現実的であるべきです。ただし、問題は現実的になりすぎるところにあります。この辺、民主主義が機能しすぎるとポピュリズムになるという成り行きと近似しています。
「測定できるものは管理できる」──現代経営学の父であるピーター・ドラッカーの言葉として知られています。しばしば誤解されているのですが、実はドラッカーはこの言葉を警告の文脈で使っています。「測定できるものは管理できる。たとえ測定することに意味がなく、組織の目的を損なうことになろうとも」──婚活システムへの依存が引き起こすゲシュタルト崩壊の成り行きをよく示しています。
フィットネスアプリの普及で個人最適化(パーソナル・オプティマイゼーション)という考え方が幅を利かせるようになりました。自分に関するデータを集めれば、ある程度までは生活を改善できるかもしれません。しかし、指標はよく生きることの決定要因ではありませんし、最適化は人生の最終ゴールでもありません。情報を圧縮できるのが指標の強みですが、それは手段の目的化と隣り合わせです。BMI(ボディマス指数:体重と身長から算出される肥満度を表す体格指数)に固執すると、その指標の改善が本来の目的と入れ替わってしまいます。
学校での学習でいえば、自分の興味関心を犠牲にしてGPA(成績平均点)を追い求める。ソーシャルメディアを使っているうちに、友人との意味のある関係よりも「いいね」やコメントの数を重視するようになる。いずれも総体で見るべきものを要素分解したために、ゲシュタルト崩壊に陥るという例です。
山口 いわゆる「測りすぎの問題」ですね。本来の目的を達成するための補助的な指標が、本来の目的を疎外する状況ですね。GDP(国内総生産)なんかが典型ですが、それ以外にも、いろんなところで起きている問題だと思います。
写真/斎藤弥里
楠木建、山口周著/日本経済新聞出版/1980円(税込み)




