その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は牧久さんの『 成田の乱 戸村一作の13年戦争 』。本書は「はじめに」がありませんので、代わって「あとがき」をお届けします。
【あとがき】
私(筆者)が「成田空港問題」の取材を命じられたのは、日本経済新聞に入社して三年目の昭和41(1966)年のことだった。今から半世紀以上も昔の話である。序章でも記したように、当時、私は国鉄(現・JR)総武線西千葉駅に近い公団住宅に住んでおり、社会部記者の中で成田市三里塚に駆けつけるのが一番早い、という単純な理由からだった。以来、十二年余。空港問題をめぐって、対立・紛争があるたびに三里塚の現場に駆けつけ、取材を続けた。昭和53年5月の暫定開港時には「成田担当キャップ」を命じられ、二人の後輩と一緒に半年間、成田に常駐した。
現役の記者時代、私は社会部以外を知らない。経済中心の日本経済新聞社としては多分、例外中の例外だろう。その社会部での現役記者生活の大半を、成田取材に費やしたのである。各社の記者は千葉支局や成田支局が「成田問題」を担当したが、社内の人事異動によって二、三年で交代していった。日経という新聞社の社内事情もあって、私はおそらく、各社の記者の中でも最も長期に、一貫して「成田問題」を取材し続けた一人、と言っても過言ではない。
現場から離れて新聞記者はあり得ない。空港公団と反対派の激突が繰り返される度に、私は現場に駆けつけ、戸村委員長をはじめとする反対同盟や空港公団幹部たちの間を駆け回り、悪戦苦闘しながら取材し、記事を書いた。ジャーナリズムの原点は「目撃者」であるということにある。私は現場で目撃した事実を、できる限り、現場目線で表現しようとした。私が十二年余にわたって書いた成田取材の記事のメモとスクラップは、狭いわが家の書斎の隅に山積みとなり、今では赤茶けた色に変色し、読むのにも一苦労する。私は今回、そうした「資料」を改めて読み返した。メモやスクラップの山は「成田闘争の歴史」の記録でもあった。
「成田闘争とは何だったのか」──私は長い取材体験を通じて、いずれはそれを書き残したい、と思い続けてきた。しかし、執筆に取り掛かろうとすると、いつもためらいを感じ、先送り、先送りを繰り返してきた。それは何故だったか? 最大の要因は、反対運動の先頭に立った戸村一作(反対同盟委員長)という人物をどう判断すればいいのか、私の理解が及ばなかったためである。戸村一作は敬虔なクリスチャンであり、自宅に取材に訪れた際、自宅脇にあった「三里塚教会」に何度か案内してもらったことがある。その度に彼はキリスト像の前で十字を切り、祈りを捧げた。
そんな戸村一作がある日、豹変したかのように過激セクトと手を結び、流血の惨事を繰り返す反対運動の先頭に立つようになったのである。以来、戸村は公式な記者会見には応じたが、夜、自宅を訪ねると家族に「留守です」と追い返されるようになった。
「成田闘争」の真実を書こうとすれば、クリスチャン・戸村一作という人物を理解するしかない。しかし、私の生家は代々、「臨済宗」の檀家であり、キリスト教とはまったく無縁の世界で育った。「キリスト教とはどんな宗教か」。私はキリスト教の入門書を集め、読み始めた。その結果、プロテスタントのクリスチャンが過激な闘争に走るのは歴史上、そう珍しいことではないことを知った。
私はかつて『安南王国の夢──ベトナム独立を支援した日本人』(ウェッジ社)というタイトルの本を出版した。熊本県・天草島の最西端、東シナ海に面した天草郡大江村(現・天草市天草町大江)から十五歳の時にベトナム(当時の仏印=フランス領インドシナ)に渡り、苦学力行して「大南公司」という東南アジア一帯に商圏を持つ商社を立ち上げた松下光廣という人物の物語である。彼は日本に亡命したグエン王朝の末裔、クオン・デ侯の“ベトナム探題”として、ベトナムのフランスからの独立戦争を支援した。
松下の幼少期を知ろうと私は彼の生地、大江村を訪れた。大江村は江戸時代から“隠れキリシタンの村”だった。今でも屋根裏などにキリスト像を飾った隠れキリシタンの家が数多く残り、墓地の多くには十字架が立っている。この村で今も語り継がれ、多くの遺品が残されているのが1637(寛永14)年10月に起きた「島原の乱」だった。村人の多くはこの乱に敗れ、落ちのびた“隠れキリシタン”だったのである。
「島原の乱」の盟主に担がれたのが、天草四郎時貞(本名・益田四郎時貞)。当時十五歳。松下光廣は同じ十五歳になった時、日本を遠く離れた仏印の地で、独立して生きようと決意したのである。天草四郎の父はキリシタン大名、小西行長の遺臣。天草四郎は幼少期からキリシタンの学問を修めるため長崎に行き、洗礼を受けたという。眉目秀麗、大変な秀才で、島原のキリシタン信仰のシンボルとなった。
当時、発足したばかりの徳川幕府によるキリシタン禁制によって、信者に対する迫害は過酷を極めていた。弾圧に苦しむ人々は天草四郎に「神の子」を見た。「島原の乱」は信仰を守る闘いであると同時に、政権を奪取したばかりで権力強化を図る徳川幕府の圧政に耐えかねた反乱でもあった。天草四郎の下で戦いに参加したのは、ほとんどが生活に苦しむ貧しい農民と徳川幕府に敗れ、落ちのびた浪人集団だったという。この乱での戦死者は数万人に及び、天草四郎も落城の際、討ち取られた。
「成田闘争」は、クリスチャン・戸村一作を闘争のシンボルとして担いで闘争に参加した農民たちと、農民たちへの支援に集結した中核派をはじめとする過激各派の、日本政府に対する戦後最大の「反乱」だったのではないか。
当時の日本は高度経済成長への移行期にあった。日本政府、空港公団は新空港の建設を“大義の旗”として、反対派農民の意向を無視し、空港建設を推し進めた。時代や状況は違うとはいえ若きクリスチャン・天草四郎を担いで徳川幕府に抵抗した「島原の乱」に通じるものがある。「中途半端な理解」と言われるかもしれないが、私はそう理解し、この書を書いた。
私が取材した時代の関係者は空港公団側も反対同盟側もほとんどすべての人がこの世を去り、遠い記憶の人となった。今、改めて彼らの冥福を祈り、お礼を申し上げたい。この間、日経社会部から取材応援に駆けつけてくれた記者は、延べ百人近くに及ぶだろう。引用した日経の記事は私一人で書いたものではなく、みんなの「共同執筆」である。特に今回、資料収集を手伝ってくれた日経の後輩記者、土田芳樹、鈴木純一両氏に心から感謝する。本文中にも記したが二人は、成田開港前後、六カ月間ともに成田に常駐し、取材に当たった。
また、キリスト教史について貴重な助言をいただいた友人・阿部重夫氏(元FACTA発行人)、資料収集を支援してくれた友人の井上定彦氏(島根県立大名誉教授)にもお礼を申し上げたい。「成田空港の歴史」の記録を快く提供してくれた成田国際空港会社の田村明比古社長、上席執行役員(共生・用地部門長)の平山儀幸氏をはじめとする同社の関係者にも心から感謝する。
最後になったが、私の個人的な“取材記”でもあるこの書の出版を、快く引き受けていただいた日経BPと適確な編集作業を行ってくれた堀口祐介編集委員に深くお礼申し上げたい。
2024年11月
牧 久
【目次】


