その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日はマイケル・ルイス(著)、小林啓倫(訳)の『 1兆円を盗んだ男 仮想通貨帝国FTXの崩壊 』。その「序文」をお届けします。
【序文】
私がサム・バンクマン・フリードの名を初めて聞いたのは2021年の年末だった。ある友人がサムの素性を知りたがっており、なぜか私に連絡してきた。友人は、サムの会社と自分の会社との間に数億ドル規模の株式交換契約を結んで運命共同体になる寸前だが、まだ不安が残るという。サムが開設した暗号資産(仮想通貨)取引所「FTX」についてはよく理解しているつもりだが、サム自身のことがよくわからないのだ。周囲に聞いて回ったらしいが、サムの会社に数百万ドルを投資している人ですら彼をよく知らないという。一般的な知名度の低さはサムの状況に原因があるのかもしれないと友人は考えた。FTXは設立2年半だし、サムは29歳の風変わりな青年だし、過去3年間はほとんど米国外にいた。誰も彼のことを知らないのは、それが理由かもしれない。私は友人から、サムと面会して、その印象を確かめてくれと頼まれた。
数週間後、カリフォルニア州バークレーにある私の自宅の玄関先に、サムがウーバーで乗りつけた。カーゴの短パンにTシャツ、よれよれの白い靴下、ぼろぼろのニューバランスのスニーカー。すぐにわかったのだが、これが彼のお決まりの服装だった。私たちは散歩に出かけたが、いつもハイキング用の服を着ている彼が実際にハイキングらしきことをしたのは、そのあと2年間一度も見ていない。散歩は私の質問から始まったが、次第に私は聞く一方になった。彼の話はどれも信じられないような内容だったが、後にすべて本当だと判明した。まず彼が手にしたカネの額だ。過去2年間で数百億ドルを積み上げていただけでなく、シリコンバレーを代表するベンチャーキャピタリストたちから、数億ドルの投資を受けていた。その1人が後に私に語ってくれたが、ベンチャーキャピタリストたちはサムが人類初の「兆ドル単位」の資産を持つ人間になると踏んでいた。FTXの収益は驚くべきスピードで伸びていて、2019年には2000万ドル、2020年には1億ドル、2021年には10億ドルに達した。私は散歩の途中で、FTXを売ってカネ儲け以外の何かをするとしたら、どのくらいのカネがあれば満足かと尋ねてみた。彼はよく考えてから「1500億ドル」と答えたが、「無限(インフィニティ)のドル」でもその使い途はあると付け加えた。
彼はあらゆる面で風変わりだった。まず動機、あるいは彼がやる気の元だと思っているものからして風変わりだ。それを散歩中にすべて明かしてくれなかったのは、赤の他人にとって信じがたい内容だとわかっていたからだろう。「無限のドル」が必要な理由は、地球上のあらゆる生命の存亡にかかわるリスクを解決したいからだ──たとえば核戦争、新型コロナよりもはるかに致死的なパンデミック、人類を絶滅させようとするAI、など。最近このリストに「米国の民主主義に対する攻撃」が追加された。米国の民主主義が壊れれば、他の大問題の解決が遠のく。1500億ドルは、そうした大問題の少なくともひとつに手をつけるために必要な額だった。
他にもカネで解決できそうな小さい問題がいくつもあり、サムはそこにカネを使うべきか考えていた。たとえばバハマだ。サムは数カ月前、自社を香港からバハマに移転させていた。中国政府による暗号通貨(クリプトカレンシー)取り締まりへの対応らしい。サムから見たバハマのいい点は、暗号資産の先物取引所を合法化する法規制があること(米国にはない)、悪い点は新型コロナによってバハマの経済が破壊されたことだ。サムは世界的な金融帝国を狙っていたが、バハマにはそれを支えるインフラが不足しており、整備するカネもない。私と会ったころ、彼は40人ほどの従業員──多くは中国やその周辺国の出身者──を説得し、転勤させようとしていた。なにせバハマは香港から1万4000キロメートルも離れているし、子どもを通わせる学校もない。サムは自力でバハマの政府債務90億ドルを返済し、その見返りとしてバハマ政府に道路整備や学校建設などインフラ整備をさせる、という私案を実行すべきか悩んでいた。バハマの新首相とも直接話し合った。私が首相の側近から後日聞いた話では、2021年9月のバハマ総選挙後、首相の面会リストのトップがサムだったそうだ。
非常識に聞こえる話だが、サムのこれまでの成果と風変わりさを前にすると、非常識さが薄れる。彼はカネで人格を歪めていなかった。自慢話もしなかった。聞き手が自分の意見に同意しなくても気にしていなさそうだったし、明らかに興味がない私の話にも耳を傾けるそぶりを見せた。自分の風変わりな話にすら、夢中というわけでもなさそうだった。彼の両親はスタンフォード大学ロースクールの教授でカネに無関心、息子はどうしたのかと当惑している──その日、サムから聞けた身の上話はこのくらいで、そのあと数カ月間もこれ以上は何もわからなかった。一方、自分以外の話題については、彼は驚くほど無防備だった。暗号資産業界や彼のビジネスについて、どんな質問にも喜んで答えてくれそうだった。彼の野心は尊大とも言えたが、彼自身はそうではなかった。
散歩が終わるころには、私はすっかりその気になっていた。私は友人に電話して、こんなことを言った。いいよ! サム・バンクマン・フリードと株式交換しろよ! 彼がやりたいことは何でもやれ! どんな失敗が考えられるっていうんだ? あとになって、私は友人のそもそもの質問に答えていなかったことに気づいた──この男は一体何者か?
【目次】
