その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は水無田気流さんの 『多様な社会はなぜ難しいか 日本の「ダイバーシティ進化論」』 です。

【はじめに 日本社会にある異物】

 本書は、2015年から「日本経済新聞」で連載した「女・男 ギャップを斬る」と「ダイバーシティ進化論」を所収している。くしくも7年8か月の長期にわたった安倍政権が打ち出した「女性活躍」の実態を、リアルタイムで併走し検証するかたちにもなった。当時指摘した問題は、残念ながら現在も残存しているものが多く、改めてこの国でダイバーシティが根づかない問題の宿痾(しゅくあ)を思う。

 そう。日本で「ダイバーシティ」は、難しい。何が難しいといって、このカタカナ語が邦訳の「多様性」と温度差がある点が、まず難しい。

 私見では、類似のカタカナ語に「コンプライアンス」や、「ワークライフバランス」などがあると思うのだが、これらに共通するのは何だろうか。「法令順守(コンプライアンス)」、「多様性(ダイバーシティ)」などと訳すと少々ゴツゴツして耳障りな点も、似ているように思うのはなぜだろうか。

 実はこの問いは、本書の中軸を担う大きな問題と同根である。この問題はとてつもなくシンプル(ああ、「シンプル」は「日本語」として遜色ない)で、かつ巨大である。

 なぜ日本に「ダイバーシティ」は根づきにくいのか。

 私はこの問いを、たぶん手変え品変え領域変えして、20年以上は問い続けている。だが、依然問いの道は困難を極めている。

 言葉というのは不思議なもので、カタカナ語であってもカタカナのまま日常性を帯び、日本語で思考する私たちに「日本語として」抵触するならば、それは日本的な文化風土に根づいたとはいえない。

 私見では、同じような「お仕事語」であっても、「マネージメント」「リスク」「セクハラ」「パワハラ」等は、すでに「日本語」である。「ペイする」とか、「コスパがいい」などの外来語との混成語も「日本語」である。なぜなら、これらは日本語で思考するときに、多くの人にとって邪魔にならない(はずだ)からである。

 一方、「ワークライフバランス」はかなり浸透したものの、少しだけ引っかかるように思う。以前、日本家族社会学会の全国大会に出席したとき、報告者がワークライフバランスという言葉が長すぎるせいか、「ワクバラ」と略して言っており、「なるほど、このように四音言葉の略語を使えば、『日本語』として浸透するかもしれないな……」などと感心したが、結局今のところワークライフバランスを「ワクバラ」と言う慣行は広まってはいないようである。この語の浸透を狙って、一度ラジオ番組で試しに使ってみたことがあるが、「なんだか、『脇腹』みたいですね……」と言われてしまって、使用を断念した。

 それでも、まだワークライフバランスはいい。働き方改革の追い風もあり、昨今では大分響きがマイルドになったように思う。問題は、日本語化して使うとまだ少々ゴツゴツ、ガタガタした異物感を示す「コンプライアンス」と「ダイバーシティ」である。

 読者諸氏に、お尋ねしたい。

 この二つの言葉が使用されるのは、どんな場面だろうか。おそらく「コンプライアンス違反」のようなかたちで「旧来はそれほど問題視されて来なかったことがらが、改善の余地有りと指摘されるようになったとき」に使用される言葉というイメージではないのだろうか。

 あえて言えば、これら「コンプライアンス」も「ダイバーシティ」も、まだまだ半分くらいは「黒船語」のように思える。黒船語とは、「ガイアツないしはそれに準ずるかたちで日本社会に導入され、適応が望ましいとされているものの、多くの一般庶民には日本語の身体感覚的にまだ馴染んでいない言葉」を意味する水無田の造語である。

 先に結論を言っておくと、私は「ダイバーシティ」が「脱・黒船語」化するための方途を考えたいと思っている。言葉というのは、それが指し示す内実がその言葉を共有する人たちの身体感覚まで浸透し、文字通り「身につく」ところまで行かなければ、結局は一時の流行として時代を上滑りし、やがては大海の泡のように消えてしまうからだ。

 「ダイバーシティ」は、今なお日本では「異文化」だ。おそらく、この国の多くの人が、「取り入れるのが望ましいけれども、日常的には馴染まない」と、思っている。

 たとえば、みなさんの会社の正規雇用者の男女比はどれくらいだろうか? 管理職者に占める女性割合は? 第一言語が日本語ではない人たちは? 障害のある人たちは? 社員食堂に「ハラール*」のメニューはある?

 そんなこと、考えたこともない?

 おそらく、そう答える人が多数派であろうと思う。私たちは日常の風景に馴染み、そしてそれを基準に世界観を創り上げていく。それらはその場を共有する人たちの暗黙の了解になり、問われることもなくなっていく。いや、多くの人が問わない「問い」をもつことは、そのコミュニティの異物となる。この国で異物は、目に見えないが強固な同化圧力により、日々排除されていく。おそらく排除されていることすら、気づかれずに。

 遠藤周作の名作『沈黙』には、日本にはキリスト教が根づかない、「沼」だと語られるくだりがある。キリスト教禁止令が発令された17世紀の日本で、かつてキリスト教徒であった国司が、布教に来日した宣教師を棄教させた際言った台詞である。外来の宗教も、思想も、結局は日本の「職場風土」には根づかず、「草木も生えない」のだろうか。

 沼地のように、あらゆる「異文化」を受容するかに見えて、その実「根づかせない」不定型で底が見えない頑迷さは、この国の文化気風のあらゆる側面を支配しているように見える。

 私見では、ダイバーシティとは「達成すべき目標」というよりも、「多くの人たちのより良い協業を可能とする土台」である。崇高な目標として、高みに登るべきと言うのではない。整えるべき条件であり、これまで問題化されてこなかった問題を可視化し、検証する基盤といえる。

 昨今では、「強い組織づくり」のために「ダイバーシティマネジメント」が目指されているが、このような使われ方はこの語のほんの表層にすぎないと私は考える。

 さて、これらの問題を検証するため、本書の第1章では改めて安倍政権の「女性活躍」の背景にある問題を書き下ろしで検証する。第2章以下では、既出の日経新聞連載コラムを振り返る。内容は、ざっと次の通り。

 第2章はこの国でダイバーシティが進まない理由について、第3章では日本社会の頑迷な「かわらなさ」について、第4章では日本の女性、とりわけ重い「母親役割」規範について、第5章では日本の結婚観の内包する問題について、第6章では拙書『「居場所」のない男、「時間」がない女』で指摘した「男性問題」をそれぞれ検証する。

 新聞コラム原稿については、それらが書かれたときの空気感ごと所収することを目指し、基本的にそのまま収録し末尾に新聞掲載年月日を付記した。読者のみなさまには、「ああ、あんなことあったっけ! 今はずいぶん改善されたな」と思うか「ああ、何年も経つのに何も変わっていないな」と思うか。これらを通じて、日本社会が多様な背景をもつ人々との協業可能性を広げる方途について検証できたら幸いである。

* ハラール:イスラム法で許容された項目のこと。端的には、イスラム教徒が食べていい食材や料理のこと。

【目次】

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