その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は辻原登さんの『 陥穽 陸奥宗光の青春 』。本文の冒頭を抜粋してお届けします。

 現在、外務省には陸奥宗光(むつむねみつ)の銅像が二つある。

 一つは、霞が関の本省東口玄関横に建つ、像本体と台座を合わせ五メートル近い高さの立像で、第二次世界大戦後の昭和四十一年(一九六六)に、陸奥没後七十年を記念して建立された。

 もう一つは胸像で、神奈川県相模原市にある外務省研修所の玄関ホールに設置されている。本来は立像で、明治四十年(一九〇七)、陸奥の十周忌を記念して、外務省本館(旧)正面玄関前に設けられ、戦前は東京名所「帝都十大銅像」の一つに数えられて、絵葉書の絵柄にも取り上げられた。当時東京の市街は銅像だらけで、どこの公園、街角でも一つは見受けられた。

 しかし、これらの銅像の殆どは、太平洋戦争が始まると、軍需金属供出のため撤去の憂き目に遭う。陸奥の銅像も例外ではなかったが、関係者は将来の再建を期して頭部を切断、これを栃木県某処に疎開させた。終戦後は占領軍の接収を逃れるため、当時、東京都文京区大塚にあった外務省研修所の床下に秘匿された。

 旧像の制作者は藤田文蔵(ぶんぞう 東京美術学校教授)、戦後の新像は山本豊市(とよいち 東京芸術大学教授)。共に明治・昭和期を代表する彫刻家である。山本豊市は、フランス人彫刻家アリスティド・マイヨールの日本人唯一の直弟子として知られる。秘匿されていた頭部は、新像建立に合わせて、山本豊市によって補修が加えられ胸像として甦った。

 陸奥宗光は、イギリスを筆頭とする欧米列強との不平等条約の改正に取り組み、日清戦争に際しては、外相・全権大使として開戦外交を指揮し、下関条約の締結と、ロシア、フランス、ドイツの「三国干渉」による遼東半島還付に至る、言わゆる“陸奥外交”を展開した。

 戦勝に熱狂した国民は、いったん獲得した領土の放棄に激昂した。しかし、放棄の裏には、返還勧告を拒否した場合、列強による更なる干渉を招く恐れがあるとする陸奥の冷徹な状況判断があった。干渉即ち新たな戦争である。

 当時、東京・本郷の尋常小学校に通っていた平塚らいてう(後に女性解放運動家として活躍)は、担任の教師が、「戦勝国である日本が、当然、清国から頒(わ)けて貰うべき遼東半島を、露、独、仏の三国干渉のため、涙をのんで還付しなければならなかったことの次第を、子供にもわかりやすく諄々(じゅんじゅん)と説き、『臥薪嘗胆(がしんしょうたん)』と黒板に大きく書いた」、その四文字を小さな胸に深く刻み込んだ。

 「三国干渉」を止むなく受け入れたあと、持病の肺疾(はいしつ)が悪化して病床に伏した陸奥は、執念で、外務大臣在職中の外交記録を詳細に記した『蹇蹇録(けんけんろく)』を執筆、その翌年の明治三十年(一八九七)、五十四歳で死去した。在職中は「カミソリ大臣」の異名を取り、死後は「日本外交の父」と称されるに至った。

 二つの銅像は、彼の栄光と名誉のシンボルとして建てられたことを疑う人はいないだろう。

 しかし、私の主要な関心はここにではなく、彼の前半生にある。そのクライマックスは、彼の「明治政府転覆計画」への加担と挫折である。

 この時点で、彼は当の政府の立法府である元老院幹事・副議長(仮)の地位にあった。穏やかならぬ陰謀を内に秘めて、「大日本帝国憲法」のたたき台となる「国憲按(こっけんあん)」の試案作りに、外国人法律顧問と共に何食わぬ顔をして取り組んでいた。

 明治十年(一八七七)一月、天皇睦仁(むつひと)は、孝明天皇十年式年祭挙行と京都・神戸間鉄道開業式典臨幸のため、大久保利通ら政府首脳を従えて京都に滞在していた。行在所(あんざいしょ)には仮太政官(だじょうかん 内閣)が置かれた。

 二月十五日、西南戦争が勃発する。

 この危機と混乱に乗じて、自由民権運動を押し進めていた土佐立志社系の急進グループが大久保利通を中心とする藩閥(はんばつ)政権打倒を画策した。銃で武装した土佐兵数千人が、西南戦争に兵を割(さ)かれて手薄になった大阪鎮台(ちんだい)を占拠し、京都に攻め上(のぼ)って、内務卿(ないむきょう)大久保利通や参議伊藤博文ら政府首脳を暗殺し、天皇を人質に取って、新たな立憲民主政体を樹立するというクーデター計画である。

 陸奥は密かに、この計画に参謀役として加わっただけでなく、出身地和歌山で、自らがプロシア軍将校を招聘(しょうへい)して育てた精兵を率い、和歌山に上陸した土佐の一隊と合流して大阪鎮台攻略に向かうという作戦を実行に移すつもりでいた。

 しかし、このクーデター計画は、政府側が土佐立志社や陸奥の周辺に張りめぐらしたスパイ網によって早くから探知されていた。紀州和歌山からの募兵計画についても同様で、未然に封じられてしまった。募兵計画が水泡に帰したことを知った時、土佐立志社の主謀者の一人、大江卓(おおえたく)によれば、陸奥は「狂乱せんばかりに憤慨した」。

 同年六月末から事件の関係者たちは次々と検挙されていった。陸奥一人、その間も孤独と不安を嚙み締め、平静を装いながら元老院幹事の職にとどまって、刑法草案作成に携っていた。

 事件の発覚からおよそ一年後の明治十一年六月十日、彼は逮捕された。

 陸奥の足取りは捉えにくい。メビウスの帯のような曲線を描き、ある時捉えた筈の横顔が次のシーンでは別の側面にすりかわっている。変節と変幻自在ぶりは、僧侶という偽善の仮面の下で少年時代を送った三人の人物、小説『赤と黒』の主人公ジュリアン・ソレルや、フランス革命とナポレオンの時代、復古王政期を権謀術数で泳ぎ切ったジョセフ・フーシェやシャルル・タレイランの如くである。陸奥もまた少年時代、彼らに倣うかのように、高野山の寺男、学侶方(がくりょがた 真言密教の研究機関)の学僧から出発した。

 安政五年(一八五八)、十五歳の時、学侶方の参勤交代に従って、江戸・高輪の高野在番屋敷に派遣されることになり、江戸に出るチャンスを摑んだ。ペリーの来航、安政の大地震、安政の大獄と続く騒然とした江戸で、学僧の身分のまま儒学者安井息軒(そっけん)の三計塾に通い、昌平黌(しょうへいこう)に出入りし、吉原通いも覚えた。この頃、彼は中村小二郎を名乗っていた。

 彼の青春は十九歳の時、尊皇攘夷に沸き立つ京へ上(のぼ)った時に始まる。勝海舟が神戸で開いた「海軍塾(海軍操練所)」の訓練生となり、勝が軍艦奉行の職を解かれると、それを引き継いだ坂本龍馬の「海援隊」の一員として、龍馬と共に長崎へ移動した。

 長身瘦軀(そうく)、蒼白(そうはく)のこの青年は紀州出身、龍馬には愛されたものの、一部の仲間からは蛇蝎(だかつ)の如く嫌われた。

 元来、紀州人は都(みやこ)では評判が悪かった。日に焼けた長い顔、とんがった頰骨、抜け目のない面構えなどは紀州出身者の特徴だが、気短(みじか)でせっかちな者が多く、傲岸不遜(ごうがんふそん)、狷介(けんかい)の性などといった形容が並ぶ。『御伽草子(おとぎぞうし)』の中に、道中で、向こうから来るのが紀州の人間と分かれば、脇に寄って目を伏せて通り過ぎよ、とある。

 しかし、青年陸奥が仲間から嫌われたのは、紀州人だからというだけではない。

 彼は幾つもの名前を名乗った。本姓は伊達(だて)で、幼名は牛麿(うしまろ あるいは牛丸)だが、長じて伊達小二郎(小次郎)、中村小二郎(小次郎)、伊達源二郎、錦戸(にしきど)広樹、錦戸太郎、陸奥元二郎、陸奥元二郎宗光、陸奥陽之助、陸奥宗光と、変名、偽名を含め次々と名前を変えて行く。

【目次】

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