その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は池田新介さんの『 行動経済学が解き明かす 自滅する選択(日経ビジネス人文庫) 』です。
【はじめに】
本書は、2012年刊行の単行本『自滅する選択──先延ばしで後悔しないための新しい経済学』(東洋経済新報社)を改訂し、文庫化したものです。幸いなことに旧著は第55回日経・経済図書文化賞をいただくなどして、多くの方にお読みいただきました。そして出版後14年という歳月が流れるなかで、私たちが「自滅する選択」に陥るリスクは、当時よりもはるかに高まっていると感じています。
実際に、この間、スマートフォンやSNSの普及、個人の好みを狙い撃ちするアルゴリズム、そして手軽な後払い決済(BNPL)に見られるように、私たちの「目先の利益を優先する自分」を誘惑する罠は劇的に高度化し、日常のあらゆる場面に溶け込むようになってきています。誘惑が巧妙化する現代において、これからを生きる新しい世代のみなさんに、自分自身の意思決定のクセを知り、豊かな人生を守るための「知的な武器」として本書を手に取っていただく機会を得たことを、大変うれしく、また意義深く感じています。
さて、つい食べ過ぎてしまったり、仕事を先延ばしにして締め切り間近にあわてたり、喫煙やギャンブルの習慣からいつまでも抜けられなかったり……。だれにでもあるこうした経験は、よく考えると腑に落ちません。長期的な視点からは自分の利益にならないからです。本書の目的は、そうした不利益をもたらす「自滅する選択」の心理的なメカニズムを解き明かし、改善策と対応策を皆さんと一緒に考えることにあります。
もし私たちが、よくできた意思決定の機械であれば、自分の幸せや利益を最大にするような最適な選択を迷いなく行うはずですが、実際はそうなっていません。私たちには、目先の利益にウエイトを置く自分と先の利益にウエイトを置く自分という2つの顔があり、選択はそのつらい葛藤のもとで行われます。「仕事を先延ばしにして遊びたい自分」と「先に仕事を済ませたい自分」、「好きなものを好きなだけ食べたい自分」と「健康でスマートな自分を作りたい自分」、「愉快に太く短く生きたい自分」と「平凡でもつつがない人生を全うしたい自分」、という具合です。日常は、今を考える自分と明日を考える自分の葛藤の連続だといえるでしょう。
この本では、心理学の影響を強く受けた行動経済学の知見にもとづいて、こうしたジキル博士とハイド氏の分裂症的な意思決定のメカニズムを説き明かし、それが具体的にどのような自滅的な選択や行動を私たちにとらせるのかを明らかにしていきます。その中でキーワードとなるのが、意思決定に歪みをもたらす「双曲割引」という評価バイアスです。数学的な表現で難しい印象を与えてしまいますが、要は、いつも目先の利益が遠い先の利益よりも大きく見えてしまう傾向のことです。ここで「いつも」「目先の」と断っているのがミソです。1年後のことであれば、先の利益を優先した辛抱強い選択ができていても、1年経ってそれが「目先の」選択になるとにわかに衝動的な選択になってしまいます。その結果、前もって立派な長期計画を立てていても、そのときどきの自分によってそれは目先優先の緩い計画に書き換えられ、自滅的な行動が実行されていきます。
そうしたやっかいな傾向が私たちに備わっているとすれば、どのように「先」の自分をコントロールし、「明日」や「10年後」の利益を確保していくのか、という「自制」(セルフコントロール)の問題が重要になります。この自制という言葉が本書のもう1つのキーワードです。
自分をコントロールするという意味のこのコンセプトは、本来矛盾のない統一した主体が前提であれば意味をなさない当たり前の概念ですが、「今」の自分と「先」の自分の間に利害対立を生じさせる双曲割引のもとでは、それが実質的な意味をもってきます。そして、その自制の問題を考えその対応策を見いだしていくことは、私たちが自分の選択や行動を改善して生活の質を高めるうえで重要であることはもちろんですが、家族から社会全体を含む、広い意味での社会の仕組みやありようを設計していくうえでも大きなヒントを提供してくれます。
自滅と自制の問題をみなさんに考えていただくために、本書を書くにあたってとくに4つの点を心がけました。
第一に、選択や行動のメカニズムをできるだけ理屈づけて説明しています。私たちが最適化の機械のように合理的に振る舞わないことは確かですが、かといってまったくのデタラメな選択をしているわけではありません。選択の背後には理屈で説明できるような──これを「合理的な」といいますが──なんらかのメカニズムが働いていると考えられます。双曲割引などの判断上のバイアスのもとで、どのような選択が行われるのかをできるだけ日常の言葉で理屈づけ、記述することを心がけました。いわば合理的でない私たちの行動を合理的に理解していくわけです。行動経済学を含めて経済学では通常数学的なツールを用いて厳密な論理展開を行います。本書のベースにも、そのような数学的分析があるのですが、説明にあたってはそれを表に出さずに日常の言葉遣いで直感に訴える記述に努めています。
第二に、できるだけ多様なデータを示すことで、選択バイアスと自滅選択の関係を実証的に浮き彫りにしたつもりです。国全体のマクロの傾向を示すために政府などが公開する統計データを用いる一方で、個人の選択傾向を示すためにいくつかのミクロデータを利用しています。行動経済学にかかわる私自身の調査や大阪大学の大型プロジェクト(21世紀COEプログラムと大阪大学グローバルCOEプログラム)による全国規模の調査のデータです。私たちにどのような選択上のバイアスがあり、それが実際に過剰債務やギャンブル習慣のような具体的な自滅選択とどのように関連しているのかが、これらのデータから客観的に示されます。
目先を優先させる双曲割引という選択バイアスが、肥満や過食、借金、仕事の先延ばしのような不摂生や無節制(放縦)をもたらすことはわかりやすいのですが、双曲割引という自制問題をはっきりと自覚する人の場合、将来のルーズな自分を悲観するあまり、逆に将来の自分の行動を過度に封じ込めたり、教条的な節制を続けたりする可能性があります。本書の3つ目の特徴として、双曲割引の影響が自覚される場合に、その同じ選択バイアスが、拒食、吝嗇(けち)、仕事の前倒し、といった過度の節制につながる可能性があることをいくつかの形で説明しています。
そして第四に、行動経済学という学問の現在地を、是々非々の姿勢でありのままに伝えることです。旧著出版後の14年の間には、心理学や行動経済学における研究の「再現可能性」をめぐる議論が大きな注目を集めました。かつて定説とされた知見の一部が揺らぎ、学問としての厳密さが問い直されるという、いわば過渡期を迎えています。今回の改訂にあたって本書では、行動経済学を万能な正解として提示するのではなく、その限界や課題を含めて相対化し、科学としての誠実な姿を記述するよう努めました。
現在から将来にまたがった意思決定上の選択バイアスに焦点を合わせた一級の読み物がすでに海外で出版され、すばらしい翻訳が日本でも広く読まれています。ひとつは、精神分析医で経済学者であるジョージ・エインズリーによる古典的名著『誘惑される意志』であり、今ひとつは「ナッジ」を世に広め、今なお改訂を重ねているリチャード・セイラーとキャス・サンスティーンによる『実践行動経済学』です。また日本でも関連するテーマの良書が出版されています(大竹文雄『行動経済学の使い方』、室岡健志『行動経済学』など)。行動経済学のリーダーたちの深い洞察にもとづいたこれらの成書があるなかで、本書を文庫本の形で再出版する意味があるとすれば、右の4つの特徴によるのではないかと僭越ながら期待する次第です。
本書の構成は以下のとおりです。
まず第1章で、私たちの身辺にある自滅選択を思い出すことから始めて、そのメカニズムを説き明かすポイントを簡単に説明します。この章は、簡単に全体を総括しているので、ここをお読みいただけば全体の議論の流れがわかる仕組みになっています。
第2章は、時間を通じた選択に際して私たちがもっているさまざまなバイアスについて説明しています。必ずしも本書の中心テーマである自滅選択と結びつくわけではありませんが、行動経済学の知見の数々が整理されているので、一読すればその成果を一通り学習することができるでしょう。
第3章で、本書のキーワードである双曲割引とは何かについて、心理学や脳科学からの知見を紹介しながら詳しく見ていきます。
第4章では、双曲割引という自分の中の葛藤の問題を自覚しているかどうかで、私たちの行動がどのように変わってくるかを考えていきます。
第5章では、消費行動、借金、肥満、ギャンブル・喫煙習慣を例にとり、双曲割引という選択バイアスの有無と、それを自覚しているかいないかの違いで、自滅的な行動をとる傾向が実際にどのように変わってくるかを実証的に明らかにしていきます。
第6章では、どのように選択を改善し、社会制度を設計していけばよいかという問題について考えています。
本書は、ビジネスに携わる方や一般の読者を念頭において書かれています。
各章末にある「コラム」では、行動経済学「あるある話」など読者のみなさんの関心をそそるようなトピックを取り上げて余談風にまとめています。
本文中の専門用語やキーワードは太字にし、巻末の「用語解説」に各語の意味をまとめているので、考えを整理したいときや、理解に詰まったときに利用してください。
本書を社会人研修や大学での教科書や教材として利用することも可能でしょう。狭い意味での自滅選択だけに関心のある読者は、第2章をとばして読み進んでいただいても結構です。行動経済学や研修の教材として使う場合には、第1章、第2章、第5章、および第6章が有用でしょう。第4章は、多少理論的な色合いが強くなっているので、もっぱら現象面に関心をもたれる読者はここをスキップするか、章末のまとめをお読みいただくだけでも全体の理解を損なうことにはなりません。逆に理屈の部分に興味のある人は、第4章をお読みください。本文を構成するにあたって参照した文献は、巻末注の形で引用するように心がけました。
今回、文庫化を進めるにあたって、ビジネススクール(関西学院大学経営戦略研究科)においての教育経験が大きな動機づけとなりました。とりわけ「行動経済学」や「行動ファイナンス」の授業では、さまざまな背景や問題意識をお持ちのビジネスパーソンや社会人と本書の問題について活発に議論する機会を得ました。そのことを通じて、「自滅する選択」の問題がなお今日性をもっていること、さらには新たな読者のために、EC(電子商取引)市場の拡大などの社会背景と行動経済学の新展開を反映したバージョンアップが必要であることを痛感した次第です。一人ひとりのお名前をここに挙げることはできませんが、独自の視点から問題提起をしてくださった受講生の皆さんには心からお礼申し上げます。
本書の出版では、日経BP日経BOOKSユニットの田口恒雄氏に大変お世話になりました。前著(池田新介・岡田克彦『金融市場の行動経済学』)に引き続き、頂戴しました変わりのないご支援と激励に深謝いたします。なお、本書のベースとなる調査・研究は、文部科学省科学研究費の助成(26K04999)を受けています。
最後に私事で恐縮ですが、妻惠子に本書を捧げたいと思います。
2026年6月末日
池田 新介
【目次】



