その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は大島三緒さんの『 「春秋」うちあけ話【改訂新版】(日経プレミアシリーズ) 』です。

SNSの嵐の中で―改訂新版のためのはしがき

 昭和の幕開けのころ―。
 ちょうど100年ほど昔のことです。
 作家の中野重治が、「新聞をつくる人びとに」という長い詩を書いています。
 新聞というメディアをめぐる、100年前の空気がそこには漂っています。ほんの一部を紹介しましょう。

君たち新聞記者たち
君たち新聞をつくる人たち
君たち記事を自分の手で書く人たち
それを組む人たち
それを刷(す)る人たち
それを配る人たち

 詩はこのように始まります。新聞へのストレートな呼びかけです。そして「報道」という言葉が繰り返し出てきます。この時期には、「報道」というのはずいぶん新鮮な響きを持つ言葉だったでしょう。

おれたちは待つている
正確な報道といつわりのない報道を
だれにも遠慮のない
何ものをも恐れない
事実そのままの報道を

 そして詩は、社会の底辺のありさまや、官憲の横暴をリアルに描写しながら延々と続きます。そうした生々しい報道を「おれたちは待っている」。

世界でいちばん足の速い君たち
いちばん速く書く君たち
どんな路地もはいり
夜のなかを通りぬけ
耳に無数の電線をつないでいる君たち

 なんとも情熱的な、エネルギッシュな、新聞と新聞記者への声援です。
 中野はプロレタリア文学の旗手でしたから、体制批判の強力な媒体として新聞に期待を寄せていたのでしょう。
 しかし、そんな事情を割り引いても、1世紀前に新聞というメディアに向けられていた社会的視線の強さがくっきりと浮かび上がります。そういう時代が、たしかにあったのです。大正デモクラシーの気風が世の中に残っていた時代です。
 それからの時代、日本の新聞はどんどん拡大を続けました。

 ただ、中野の思いとは裏腹に、満州事変、日中戦争、そして太平洋戦争を背景に、新聞は国策プロパガンダ、戦意高揚のツールと化しつつ、部数を大きく伸ばしていった歴史があります。戦後はそういう過去を拭い去り、ふたたびメディアの王者として高度成長を謳歌し、バブル期を駆け抜けました。
 それもこれも、遠い光景ではあります。
 いま、インターネットのめくるめく空間は、むき出しの言葉や荒々しい言論を果てしなく拡散させ、SNSには真偽不明のおびただしい数の情報が飛びかっています。中野の表現にならえば「世界でいちばん足の速い」のはネットの言説でしょう。
 新聞もテレビも雑誌も「オールドメディア」などと呼ばれ、ほんとうのことはSNSが教えてくれるとまで思いこむ風潮が世界を揺さぶっています。
 オールドメディアは真実を覆い隠しているという陰謀論が横行し、排外主義が増長し、フェイクであっても単純でわかりやすいストーリーが世代を超えて「バズる」昨今なのです。
 選挙への影響も、この夏の参院選ではいよいよ大きくなりました。

 さて、しかし。
 SNSの嵐が吹きすさぶこの時代にも、100年、いやそれ以上の歴史を持つ小さなコーナーが、ほとんどの新聞で命脈を保っています。1面の下に置かれている、だいたい500〜600字のやわらかいタッチのコラムです。そのひとつである日本経済新聞朝刊の「春秋」を、著者は20年にわたって書いてきました。
 「春秋」に限らず、この1面下のコラムが取り上げるテーマは森羅万象にわたります。政治、経済、国際情勢、社会問題から季節の移ろい、著名人の死、そして世の片隅の小さな出来事まで、およそ対象にならないものはない。
 その執筆の苦心やコラム書きの日常、心に留めていることなどをまとめた「『春秋』うちあけ話」を送り出したのは、ちょうど新型コロナウイルス禍が猛威を振るい始めた2020年の春でした。
 あっという間に感染者が増え、学校が休校になり、緊急事態宣言が出て社会が窒息しそうになった、あのころです。思えば5年半もたっています。
 「うちあけ話」ではたくさんの記事例を挙げ、執筆の背景を記しましたが、紹介したコラムの多くは、時間の経過とともにややわかりにくくなったようです。
 また、コロナ禍についての記事の紹介は書籍刊行に間に合わず、その後のロシアによるウクライナ侵略や中東の動乱、日本と世界の政治情勢の変化、さらにはトランプ米大統領の常軌を逸した専横ぶりなども、もちろん盛り込めていません。社会全般のデジタル化の進展や、SNS全盛の世相についても話がやや古くなりました。
 5年あまりで、世の中は驚くほど変わってしまったようです。
 そんな事情を考えて、こんど、装いも新たにこの本の改訂新版を出すことにしました。全体の流れは旧版と同じですが、記述を現在に合わせて修正し、記事例を適宜、差し替えています。第3章の「コラムの中の作家たち」の顔ぶれも一部を改めました。
 こうした改訂作業を進めるにつけ、つくづく考えさせられるのはネット社会、SNS旋風の中で、新聞1面コラムをどのように書き継いでいくかという問題です。
 第1章でも説明していますが、こういうコラムは見出しもなく、署名もなく、目印は小さなタイトルカットと罫線で囲まれたわずかな文字数の文章だけです。SNS的な、にぎにぎしさとは対極にあるといっていいでしょう。

 とはいえ、そうした時代だからこそ、視野の広い、かみ砕いた、味わいのある文章をめざした1面コラムの値打ちは増すはずだと思っています。
 このことは旧版でも強調していますが、その後のSNSの膨張による「1億総メディア化」と「バズり至上主義」の到来を体感していると、悩ましさは募るばかりです。旧版で「社会の中のコラム」としていた第5章は、そんな思いをこめて表題を変え、いま発信したいメッセージを盛り込みました。
 冒頭に挙げた中野重治の「新聞をつくる人びとに」は、1927年8月16日に東京・池袋で開かれた朗読会で読み上げられたという記録が、当時の雑誌に残っています(「プロレタリア芸術」27年10月号)。昭和が始まって8カ月後のことです。
 ほどなく、男子普通選挙法に基づく初の総選挙が行われて無産政党が議席を得る。一方で、共産主義や反体制運動のみならず自由主義的な思想も徹底的に弾圧するための根拠となる治安維持法も猛威を振るい始める。そういう、じつに微妙な時期です。この朗読会にも、官憲は厳しい目を光らせていたでしょう。
 このころの新聞紙面をひもとくと、それでも、なかなか批判精神旺盛です。辛口のコラムも随所に見られます。日経の前身である中外商業新報も例外ではありません。新聞をつくる人々と、それを読む人々とのあいだに、血の通った回路がめぐっていたというべきでしょう。
 そういう歴史を顧みながら、SNS時代のコラムのあり方を考えながら、2025年の混沌(こんとん)の中で稿を改めた「うちあけ話」です。

*本書における引用箇所は、文庫版など現在でも比較的入手しやすい文献に拠っています。表記が初出文献や全集などとは異なる箇所があります。

【目次】

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