その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は小倉将志郎さんの『 金融化する世界 資本主義の構造変化と現代企業行動の本質 』です。

【はじめに】

 前著『ファイナンシャリゼーション』を上梓したのが2016年春であり、それから間もなく10年を迎えようとしている。この10年、世界の経済・社会は劇的な変化を経験した。それらを列挙すれば、たとえば情報通信技術(Information and Communication Technology:ICT)分野と金融分野を中心としたイノベーションの急進展、特にソーシャルメディアと人工知能(Artificial Intelligence:AI)技術の急激な普及、気候変動と貧困・格差拡大・富の集中に代表されるグローバルイシューの噴出と国連の持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals:SDGs)に代表されるそれらへの諸対応、COVID-19パンデミックの発生とその後の生活様式・思考法の激変、米中による政治・経済・軍事的な覇権争い、直近における必需品を含む物価や不動産価格の急騰と為替市場の乱高下、政治体制面での権威主義的国家の世界的隆盛とポピュリズム・ネオファシズムの世界的伸長、ロシア・イスラエルなどによる直接的な軍事力行使、といったことが挙げられよう。こうした事象は人類社会にとってポジティブな要素とも、ネガティブな要素とも捉えられ、具体的な影響がどう出るかは、現時点では予測困難である。

 ところで前著刊行時の2016年は、2007-09年に米国を震源に発生した世界金融危機(Global Financial Crisis:GFC)の熱がいまだ冷めやらぬ中、まさに上述の諸事象が噴出し始めるタイミングでもあった。当時、筆者は在外研究中で英国ロンドンに滞在していたが、直近数年間にテロ事件が多数発生しており、欧米での治安悪化意識とゼノフォビア(外国人嫌悪)の高まりを、身をもって実感していた。そうした流れの中で、6月にはBrexit(英国のEU離脱)を巡る国民投票が実施された。Brexitについては知人たちとの会話の話題にもよく挙がったが、大都市ロンドンのセントラルエリアに居住する知人たち(ほとんどが外国にルーツを持つ人たちであった)に、Brexitを望んだり、その現実化を予想していた人は1人もいなかった。しかしプレートのひずみは地方にたまっていた。「忘れられた人々」のルサンチマン(強者に対する弱者の復讐心)がもたらしたともされる、意外な投票結果に非常に驚き、涙を流す知人もいたことを、いまでも鮮明に記憶している。いま思い返せば「世界の中心」で生じたその1つの出来事は、現在進行中の劇的な諸変化とも密接な関連を有する、「パンドラの箱」だったのかもしれない。同年11月には、米国の大統領選挙で、政治経験のないビジネスマンでテレビ出演もする「人気者」の共和党ドナルド・トランプ候補が、グローバル化(特にモノとヒトの自由な移動)とエスタブリッシュメント(既得権層。特に既存政党とオールドメディア)に対する声高な批判とともに、やはり大方の予想を覆して勝利を得た。同時期にはフランスやドイツなど大陸欧州諸国でも類似の政治的事象が発生している。そしてそれから遅れること10年、ついにわが国も第2次安倍晋三政権以来、「失われた30年」の下で形成された「ロストジェネレーション」の鬱憤を重要なエネルギーとする同様の兆候を、2025年夏の参議院議員選挙と秋の自維「連立」政権の誕生ではっきりと体感することになった。

 2016年前後以降のおよそ10年間が、世界の経済・社会にとっての、そして資本主義にとっての、決定的な分水嶺であった、と将来思い返される可能性は十分にあるだろう。


 そうした現在の経済・社会の劇的変化の重大な契機がGFCであったことは間違いない。そのGFCを巡っては、英国女王で、権威の象徴でもある、いまは亡きエリザベス2世が、当時の経済学界のきら星たちを前に、「この事態をなぜ誰も予測できなかったのですか(Why did nobody notice it?)」という致命的な問いを投げかけたエピソードがあまりに有名である。女王の、そしておそらく経済学界以外のすべての人々が思っているであろう素朴な疑問を受け、世界中の研究者や当局者たちは、社会に悪影響を及ぼしうる大規模な金融危機を繰り返さぬよう、それぞれの立場で問題に真剣に向き合い、様々な分析結果を提示し、具体的な施策も行ってきた……はずであった。

 前著も、そうした一連の試みと大きな問題意識を共有するものであった。そこでは先行研究に対し、GFCの原因や対策を考える際に、より長期的な視点に立つことの重要性を訴え、GFCには「金融化(financialization)」という資本主義の長期傾向的・漸進的な構造変化が何らかの影響を及ぼしている、という仮説を展開した。ここでの金融化とは、端的に言えば、資本主義の下で、広義の金融が、経済・社会に対して直接・間接に有する影響・役割が、徐々に高まっていくプロセスを指す。そしてその仮説を論証するため、金融化のメカニズムを、米国を対象に詳しく分析した。具体的には、金融化を巡る諸研究(金融化アプローチ)の成果を踏まえ、先行研究ではさほど重点が置かれてこなかった「金融それ自体(finance itself)」、特に大手金融機関に焦点を当て、大手金融機関の行動と金融化の展開との関連性を詳細に分析することで、同アプローチのアップデートを行った。

 前著はそのことには部分的に成功したと自負する一方、金融化という事象自体があまりに複雑な構造を有し、常に変化・進化していることから、分析に不十分さが残ったことも否めない。また翻って現実を見ると、主流・非主流の立場を超えた、多くの学術的・政策的努力にもかかわらず、GFC後も大規模な対応が必要な局所的な金融危機は度々生じてきたし、より大きな世界的な金融危機が再び生じる懸念もますます高まっている。そして、おそらく上述の現在進行中の経済・社会の劇的諸変化も、濃淡はあれ、そうした金融化へと向かう資本主義の漸進的変化の副反応と位置づけることが可能なのではないか、と考える。十年一昔とも言うが、2016年の前著刊行以降、大規模な金融危機とその救済の繰り返しを避けるためにも、資本主義の現状と行く末を見極めるうえでも、「金融化それ自体」のさらなる深掘りの学術的価値は、陳腐化するどころか、いっそう高まっている。

 以上の文脈から本書の第1の目的は、前著で分析不十分に終わった、金融化という巨大なパズルのピースの穴埋め作業を行うことである。金融化を構成する諸要素を「再発掘」したうえで、それらの中でも特に重要な個別的要素に、前著とはまた異なる視角から光を当て、その事象を多面的に掘り下げ、その分析結果を提示する。そして分析を施されたその個別的事象を、金融化という大きな構造に再び「埋め戻す」ことで、金融化アプローチがさらに補強されることが期待される。


 前著がもう1つ目指したのは、わが国の金融化研究の普及の「起爆装置」の役割を果たすことであった。世界では先進国・新興国・途上国を問わず、金融化研究は学際的に、日進月歩で進展している。一方、わが国研究者の金融化への関心は、ごく一部の非主流派経済学者を除き、残念ながら一向に高まってこなかった。その理由は様々に考えられるが、資本主義の長期傾向的・漸進的な構造変化であり、定量・定性両面を含む複雑な存在としての金融化の研究には、非常に広い視野が求められるという事情が大きい、と考える。

 わが国のアカデミズムには、そのような広い視野に立った総合的研究には、研究人生の集大成としてようやくたどり着ける、といった固定観念があるように思われる。確かにそうした研究は、アプローチの仕方を間違えると、研究自体が総花的内容となってしまうリスクがあり、業績としても学術的に評価されにくい。特にテニュア(任期のない在職権)を得るために、限られた期間で博士学位の取得と「インパクトファクター」(学術雑誌の重要度ポイント)の高い海外ジャーナルへの掲載本数を強く求められる若手研究者にとって、関心はあっても参入しにくい、といったことがあるのかもしれない。研究者を志すわが国の社会科学系大学院生の置かれた競争環境は、筆者の在籍していた20年前とは様変わりしており、研究テーマ選択の際に効率性重視とリスクヘッジ的考えが他国と比べて顕著に現れたとしても、よく理解できるところではある。

 もちろん、金融化は個別的な諸要素によってその全体が構成されるため、より焦点を絞った定量分析を行うことも可能である。実際、海外の先行研究では、そうした定量的な実証分析も、若手研究者を中心に多数行われている。しかし、そちらにばかり目を向けると「木を見て森を見ず」の結果に陥ってしまうため、全体と個別の「対話」が重要であることは前著でも強調した。一方、わが国では、そうした学術的にも比較的評価されやすい個別的な定量分析でさえ、ごく少数しか行われていない現状にある。研究者がそのような状況であれば、いわんやそれ以外の人々においてをや、である。

 そこで本書の第2の目的は、前著では残念ながら成功したとは言えない、わが国における金融化に関する学術的・社会的関心の喚起を、改めて行うことである。本書を通じ、金融化が学術上の幅広い範疇を含む、アカデミズムの多様なアプローチの対象となる存在であることと、それが金融部面に留まらない、広く経済・社会・政治などに多様な影響を持ちうる事象であることを、わが国の幅広い人々に認識してもらい、この分野に関心を持ってもらうことを目指す。筆者が何より恐れるのは、多数の批判を受けることではなく、現に生じている社会的に重要な事象に対する無認識・無関心である。


 「金融化は資本主義の長期傾向的で漸進的な構造変化である」などと述べれば、読者の多くが、堅苦しく、小難しく、つかみどころのない印象を持たれるのは当然のことである。確かに金融化は、様々な要素(部分と部分、部分と全体)が変化しながら相互に影響し合う、非常に複雑な構造を伴ったシステム、一種の「複雑系」として展開している。複雑な対象に対し、その理解を容易にするために極端に単純化して説明しようとする試みには、いわゆる「切り抜きショート動画」に付随するバイアスのような、様々なリスクも伴う(単純化それ自体が金融化の重要なロジックでもある)。しかし金融化をより一般的な感覚に落とし込むために、ここではそのリスクをあえて取る。金融化には我々が極めて身近に実感できる側面がある。それは、金融化は、我々の多くが日常的に感じながら言語化することが難しい、人々の認識・価値観の変化を的確に捉えた「記号表現」(スイスの言語学者ソシュールの言う「シニフィアン」)でもある、ということである。そのことを示す個別的事象を、個人的な体験から恥を忍んで語ろうと思う。

 前著刊行からの10年の間に、筆者は俗に言う「婚活」なるものを経験し、その過程でいわゆるマッチングアプリも活用した。スマートフォンの画面と向き合い、毎日タイムリーに更新される無数の異性の、限定的で表層的な情報、特に年齢や年収、容姿といった即座に判断しやすい情報をチェックし、好みの相手を迅速に判断する。一方で、自分自身も異性から評価・判断される立場にあるため、どのようなプロフィールを提示すれば、更新され続ける検索リストの中で埋没することなく注目を維持し、より選ばれやすくなるかの助言を受け、可能な限り実行する。そのうえで、複数の候補の紹介(AIによる紹介を含む)も受け、あれやこれやと想像できる範囲の将来のことを考えながら、時にオファーを出し、時にオファーを受け、自分と相手の希望と妥協次第でマッチングが成立する場合も、しない場合もある。もちろん、これらのプロセスは無料で提供されるわけではなく、様々な場面で「課金」がなされる。課金額とマッチングのしやすさは、比例しているのかもしれない。

 そうしたプロセスを繰り返すうちに、参加者は「婚活市場」における自身の「市場価値」を徐々に認識していくとともに、少しずつ感覚が麻痺していき(対象が無機質化され、おそらくより「リスク」を取る方向と極端な「リスク回避」とに2極化する)、競争環境に置かれていることへの「疲れ」症状も徐々に出始める。ふと我に返って自分は一体何をやっているのだろう、という曖昧模糊とした意識も多少生まれるが、「音楽が鳴っているうちは踊り続けなければならない」という強迫意識からか、その行為自体を止めることは難しい。人によっては「成婚」というゴールに行きついた後も……(以上の内容は、個人的な体験に加え、筆者のゼミの卒業生たちからの伝聞も含む)

 本書執筆に当たり、現在、若年層を中心に多くの人々が日常的に行っているであろうそうした一連のプロセスについて、改めてその意義を考えてみた。その結果、これはまるで金融市場における投資家、いや本書第Ⅰ部で詳しく見る合併・買収(mergers & acquisitions:M&A)市場における企業経営陣の姿勢と相似形ではないか、と考えるに至った。すなわち、対象に対する標準的・画一的な条件の受容要求と定量情報中心の値踏み、限定的情報に基づく近い将来の効果の予想とそれを最大化するための冷徹・迅速な判断、持続的で競争的な自らの市場価値と市場注目度の維持・向上の必要性、専門仲介主体の存在と助言、ICTを活用したマッチングの進展、各プロセスでの手数料支払い、市場の盛り上がりと「乗り遅れるな」という空気の外からの醸成など、両者には共通点が非常に多い。もちろん「婚活市場」では、相手の意に反した「公開買付」も「敵対的買収」も行えず、「デューデリジェンス(due diligence)」(綿密な調査を踏まえた評価)(いずれもM&A用語)にも限界がある。しかし、少なくとも「謙虚かつ強気の姿勢」と「お相手への積極的関心」は、経験上、成功のための必須条件である。

 このように両者には多数の客観的な共通点が存在するが、中でも重要なのは、参加者の「認識」「思考法」の変化の側面である。金融化の定義や内容については後述する(詳細は表0を参照)が、多くの参加者、そこには金融化研究者としてそれを相対化しなければならない立場の筆者も含まれるが、彼らは、自発的か受け身かを問わずこのプロセスに参入し、一種の「バブル」に直接・間接に封じ込められることで、意識的にせよ無意識的にせよ、広い意味で金融化している可能性がある。すなわち、ここで参加者は、最良の満足が得られる成果(パフォーマンス)を、最も効率的に(「コスパ」「タイパ」良く)達成するために、おそらく気づかぬうちに、金融化の論理や仕組みを否応なしに受け入れている。筆者はこれを、金融化を構成する「家計の金融化」、特に「日常生活の金融化」の一環と捉える。

 主要な焦点を企業行動(第Ⅰ部)と金融機関行動(第Ⅱ部)に当てる本書は、それ自体を分析対象とはしない。だがそこに共通するエッセンスは、本書を通じて示されることになるだろう。それを先取り的に示せば、あらゆる主体による「最良を、最も効率的に」、言い方を変えると「より多く、より早く」、特に「より早く」成果を得ようとする姿勢の徹底と、関連する特定諸利害による、様々な手段を講じてそうした姿勢を利用し、取り込もうとする「利潤追求」動機に基づく諸運動こそが、金融化それ自体を理解するうえでのキー概念である、と筆者は認識する。この「より多く、より早く」と「利潤追求」というフレーズは、本書を通じて度々登場するはずである。

 ともあれ、ここで読者にお伝えしたいのは、金融化は、どこか遠くの世界で生じている他人事では決してなく、私たち1人ひとりに直接・間接に様々な影響を及ぼしつつある、ということである。その認識を胸に、金融化という現代資本主義の「深い森」に分け入っていくことにしよう。


 本書の構成は以下の通りである。本書はⅡ部構成を採用する。

 第Ⅰ部「企業の金融化はなぜ「必然」なのか?」(第1~5章)では、前著で十分に分析を行うことができなかった一方、金融化の個別事象でありながらもその最も本質的な事象とも捉えられる、「企業の金融化」に焦点を当てる。そして米国を対象に、企業の金融化の実態を詳細に分析・解明したうえで、資本主義の歴史的展開の中で、企業がほとんど必然的に金融化へと向かう理由を明確に示す。

 それを踏まえて、第Ⅱ部「金融化のアナトミー」(第6~8章)では、資本主義の長期傾向的・漸進的な構造変化としての金融化それ自体という、より大きな視点に立ち返り、その全体構図を、金融機関行動に焦点を当てた前著の問題意識を引き継ぎつつ、それ以上に、さらに細かく「解剖」していく。特に、金融化に関わる主要な「受益・権力諸主体」の存在とそれらが結ぶ諸関係=権力構造という視点から、一見するとカオスな世界の中で、個別行動を採りながら同方向を向いた一部主体が集合体、「エコシステム」を形成している事実をあぶり出す。そしてその集団的・協調的力学が、全体(単なる部分の総和ではない、複雑系理論で言う「創発」)としての金融化の長期継続的・安定的進展にどれほど重要な影響を与えているかを分析・提示する。

 以上の総合的な分析を通じ、現代企業行動、現代金融機関行動、そして現代資本主義システムの内実・メカニズム・本質の解明と、それらを踏まえた世界・わが国の経済・社会の現状把握と将来展望及びその改良・進歩・変革に向けた道筋の提示とが、同時に達成されることが期待される。

 2025年12月

小倉将志郎

【目次】

画像のクリックで拡大表示
画像のクリックで拡大表示