その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は橘高 聡さんの『 ツーリズムの世紀 日本再興の最後のチャンス 』です。

【はじめに】

 東南アジアの経済の中心であり、交通の要衝であるシンガポール。南国情緒あふれるこの都市国家は、年間1600万人の外国人が訪れる人気の観光地でもある。きょうも多くの観光客がビジネス街にほど近いマーライオンパークを訪れ、マリーナベイサンズホテルを背景に同国のシンボルであるマーライオン像に向けてスマートフォンをかざしていることだろう。3つのタワーに船を載せたような独特の形状のホテルと、口から水を噴き出すマーライオン像のツーショットの光景は多くのメディアでおなじみだ。

 筆者は新聞社の記者として1996年~1999年にシンガポールに駐在した。30年近く前のことだ。当時も、豊かで清潔で、南国情緒あふれる人気の観光地だった。当時の外国人訪問者は年間700万人前後だった。参考にと、日本の統計を見て驚いた。外国人は年間400万人前後しか訪れていないのだ。

 シンガポールの国土面積は東京23区ほど。当時の人口は300万人の都市国家にすぎない。カジノはまだなく、観光名所といってもセントーサ島という小さな島の小さな遊園地や動物園、マーライオン像、東京の銀座通りには質も規模も及ばないオーチャード通りぐらいしかない。中華料理は確かにおいしい。だが、観光客が行く店は限られる。当時は建国から30年ほどしかたっておらず、名所となる歴史的遺産も少ない。

 日本の国土面積はシンガポールの520倍で、豊かな自然や四季に恵まれている。東京、大阪、京都といった大都市が個性を競い合っている。長い歴史が育んだ独自の文化や食、歴史的建造物もある。観光資源の豊富さは世界随一といってよく、シンガポールの比ではない。それなのに外国人の来訪者がシンガポールの半分程度とはにわかに信じられなかった。

 アジアのハブ空港として人の往来が活発なうえ、陸路で行き来できる隣国マレーシアの存在があるとしても、「この程度の観光資源でよくこれだけの人を呼び込めるな」とシンガポール政府のマーケティング戦略に感心する一方、「こんなに売れる観光資源があるのに、何ともったいない」と日本政府の無策ぶりが歯がゆかった。

 30年近い年月が流れ、状況は一変した。日本を訪れる外国人旅行者(インバウンド)は2024年、3686万人に達し過去最高を更新した。米旅行雑誌「コンデナスト・トラベラー」が2024年10月に発表した、読者による投票「世界最高の国(Best Country in the World)」で日本は2年連続で1位に輝いた。ようやく日本の魅力が世界に認められるようになった。京都や鎌倉など一部の有名観光地には観光客が集中して住民の日常生活が脅かされたり、環境が破壊されたりするオーバーツーリズム(観光公害)と呼ばれる現象まで起きている。

 日本政府が観光立国を宣言したのは2003年。それから20年が過ぎ、観光に対する注目は各方面で高まっている。インバウンド増加による国内経済の活性化、観光による地域・町おこしなどの議論が活発だ。冷戦が終結してグローバル競争が激化する20世紀末以降、日本の産業は次々と競争力を失った。観光はバブル経済崩壊以降の日本経済の低迷を脱する切り札との期待もある。

 しかし、外国人旅行者が増えているのは日本だけではない。外国人旅行者の受け入れに力を入れているのも日本だけではない。国連の専門機関である国連世界観光機関(UNWTO、本部マドリード)は毎年、世界の旅行者数を推計している。その数はコロナ禍(2020~22年)を除けばここ数十年、一貫して右肩上がりで増え続けている。UNWTOによれば、2024年の世界の海外旅行者は14億人に達した。シンガポールのマーライオンパークでも、京都の清水坂でも、様々な国や人種の人に出会う。海外旅行はもはや一部の裕福な国の人だけのものではない。地球規模で大衆化が進んでいる。

 アメリカのエネルギー問題専門家ダニエル・ヤーギンが1991年に著し、1992年にピューリッツァー賞を受賞した『石油の世紀――支配者たちの興亡』は、石油という資源を軸に現代史を紐解いた。その石油をめぐり世界戦争が起きた。20世紀は「石油の世紀」であり、「戦争の世紀」だった。

 世紀が改まって20年以上が過ぎた。先進国から新興国、発展途上国まで世界各国が石油と並んで奪い合っているのは、観光需要だ。国を挙げて巨大な観光需要を経済成長の起爆剤にしようというのだ。

 2023年現在、観光大臣を置いている国は125カ国に上る。全体の6割に上り、2001年に比べて4割増えた。日米欧など先進7カ国で構成するG7は2024年11月、イタリアのフィレンツェで初めての観光大臣会合を開き、人材育成や中小企業支援、AI(人工知能)の活用などをめぐって意見を交換した。マクロ経済や国際政治の政策調整が目的のG7の場に観光が取り上げられたのは、それだけ観光が各国にとって大きなテーマになっていることの証しでもある。

 アメリカ・ハドソン研究所の創設者で未来学者のハーマン・カーンは名著『大転換期』(邦訳出版1980年)で、「観光業は今後ますます重要性を増し、ゆくゆくは金額の点で(石油をも凌駕して)世界最重要の輸出になり、多くの国で最重要国内産業になる」と予測した。今まさにカーンの予測は現実のものとなった。

 人々は美味しいもの、楽しい経験、自国で体験できないアクティビティー、美しい景色、現地の人々との交流を求め、好奇心の赴くままに旅に出る。人間の好奇心がなくならない限り、人々が心の豊かさを追い求める限り、観光需要は拡大し続ける。実際、世界の観光需要の伸びは、世界全体のGDP(国内総生産)の伸びを上回る。観光が経済成長の牽引役にと期待され、社会問題解決の手掛かりに活用される。観光というテーマがこれほど語られ、存在感をもったことはない。21世紀を「観光の世紀」「ツーリズムの世紀」と呼んでよいのではないか。

 観光の語源は中国「易経」の「国の光を観る、もって王に賓たるに利(よろ)し」に由来する。「国の威光を観察する、そうして見聞を増やせば、その知識が役立ち、国王から重用される立場になれる」と現代語には訳される。日本では明治期から使われ始め、大正時代以降tourismの訳として使われるようになった。先述した国連機関のWorld Tourism Organization(UNWTO)の日本語訳も世界観光機関である。ツーリズムには観光や旅行を含む広い概念が含まれる。本書では文脈によって観光、ツーリズム、旅行を使い分ける。

 世界的な旅行ブームを迎えるなか、観光の語源である「国の光」に恵まれた日本には好機到来である。日本政府は2023年5月、観光立国推進閣僚会議を開き、新時代のインバウンド拡大アクションプランを決定した。これまでの「外国人観光客を呼び込む」という観点からさらに視野を広げて、「インバウンド需要をより大きく効果的に根付かせる」方策を取りまとめた。約80の施策をつくり、インバウンドを増やすという。

 2024年の外国人訪日客による消費額は8兆円に上り、主要品目の輸出額と比べると、すでに自動車産業に次ぐ規模に達して日本経済を支える。政府はさらに2030年に訪日客数6000万人、消費額15兆円の目標を掲げる。この目標が達成されれば、インバウンドは自動車産業と肩を並べる基幹産業となる。

 本来、旅とは、旅行とは、好奇心の赴くままに体験を求めて行う人間の自発的な営みである。多くの人が国の内外を問わず旅に出て多くの体験をし、人生を豊かなものにする。旅の効用ははかり知れない。その結果、旅行や観光にかかわる産業が活性化し、地域や国が豊かになる――。人間の本能を起点にした、そんな好循環が生まれればすばらしい。日本がその先行事例になればなおさらだ。いったん火がついた人々の好奇心を抑え込むことはできない。オーバーツーリズムや環境への負荷といった課題は、知恵とテクノロジーで乗り越えるしかない。

 国連は1967年を国際観光年と定め、「観光は平和へのパスポート(Tourism;Passport to Peace)」とのスローガンのもと、国境を越えた観光往来の促進が国際的な相互理解を増進し、平和維持に貢献すると訴えた。戦闘がやまないウクライナや中東ガザ地区の惨状を目の当たりにすれば、観光の可能性を再認識せざるを得ない。

 本書は日本がツーリズムの世紀のフロントランナーとして、観光先進国に飛躍するための条件を探った。観光に携わる人はもちろん、観光に少しでも関心がある人が何らかのヒントを得てもらえれば幸いである。本書に触発され旅に出て、何らかの気づきを得てもらえればなおさらだ。

【目次】

画像のクリックで拡大表示
画像のクリックで拡大表示
画像のクリックで拡大表示
画像のクリックで拡大表示
画像のクリックで拡大表示
画像のクリックで拡大表示