日本の平均賃金はこの20年、横ばいを続け、欧米はもとより隣国・韓国にも抜かれる状態だ。さらに昨今の急激な物価高が追い打ちをかけ、家計のみならず、日本経済全体を苦しめている。どうすれば光明を見いだせるのか。経済学者の野口悠紀雄氏は、新刊『 どうすれば日本人の賃金は上がるのか 』で、様々なデータを示しながらその疑問に答え、「賃金を高める道はただ1つ」と断言している。野口氏に聞いた。

「賃金が上がらなくていい」は間違っている

編集部(以下、――) 今年に入ってから「物価は上がるのに、賃金は変わらないまま」という状況が続いていますね。

野口悠紀雄氏(以下、野口氏) おっしゃる通り、ここ数カ月は顕著な円安が続いており、また資源価格が上昇したこともあって物価が上がっています。一方、賃金が上がらないのは、中期的に見て日本経済が成長していない状況が続いているからです。回復の兆しは見えず、問題はどんどん深刻化していく可能性が高い。

 これまでは国内の物価が安かったため、賃金が上がらなくても海外に行かない限りは大きな問題にはならないと考えられていました。

 しかしそれは間違っています。例えば、iPhoneの価格が数年前に比べて「非常に高くなった」と感じる人も多いと思いますが、他国ではそれだけ物価も賃金も上がっているということでもあります。iPhoneに限らず、半導体や原材料にしても、外国のものを買おうとすれば高い価格を払わなければならないわけで、日本企業が製品を作れなくなる恐れがあります。

 また、将来を考えたとき、特に深刻なのは人材の問題でしょう。日本の賃金が上がらなければ、例えば介護に必要な人材や、高度な専門家が日本には来てくれず、むしろ日本から海外へ人材が流出してしまいます。

 今まで買えたものが買えなくなっていき、人材も集まらない、そんな貧しい国にしないために、賃金について考えることは重要なのです。

 OECD(経済協力開発機構)が加盟国の平均賃金を公表していますが、2020年の数字を見ると、日本の水準は先進国の5~8割程度で20年間ほぼ横ばい、韓国にも抜かれているのが実情です。

「停滞から逆転した国」は珍しくない

新刊『 どうすれば日本人の賃金は上がるのか 』では、「米国と同じように豊かになることなど、できるはずがない」という、現代の日本を覆う“諦めムード”のまん延に警鐘を鳴らされています。

野口氏 「賃金を高めるために政府もいろいろと政策を実施してきた。それでもこの状況なら、もう仕方がない」と諦めるのは間違いです。政策が適切ではなかったために、賃金が上がってこなかったのです。

 これまで政府が何をやったかと言えば、「春闘への介入」や「賃上げ税制の導入」などですが、こうした政策は「企業はカネをたくさん持っているが、ケチだから労働者の賃金を上げない」という考えに基づくもの、つまり、企業が生み出す付加価値のうち労働者にどれだけが分配されているかという「分配率」を問題視したものです。

 しかし分配率は基本的に大きく変動しないものです。だから有効な政策にはならなかった。“諦める”必要はなく、適切な政策をとれば、この状況は変えられます。

「諦めるのは間違い。適切な政策をとれば、状況は変えることができます」と話す野口氏
「諦めるのは間違い。適切な政策をとれば、状況は変えることができます」と話す野口氏
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 実際に、世界には、難局からの脱却に成功している国があります。

 その1つが米国です。1970~80年代に経済力を落とした米国では当時、「我々の子供たちの世代は、我々と同じように豊かな生活は送れない」と言われていたほどでした。しかし、その後、IT革命を実現して経済構造を大きく変え、状況を逆転させました。そして今ではどんどん世界各国との差を広げています。

 アイルランドも典型的な例です。アイルランドは欧州の非常に貧しい国でしたが、やはりIT革命を成功させ、今では欧州で最も豊かな国の1つとなっています。このように逆転した国はあるわけですから、決して諦めムードに陥ってはなりません。

年収1億円エンジニアはなぜ生まれるか

賃金を上げ、逆転へと向かうためには、まず何が必要なのでしょうか?

野口氏 それは企業が「稼ぐ力」を高め、付加価値を大きくすることです。

 ここで言う付加価値を会計学的に説明すると、「売り上げから原価を引いた粗(あら)利益」のことです。その中から賃金や税金などが支払われ、残りが企業の利益になります。つまり賃金や利益の元になるのが付加価値(粗利益)なのです。

 先ほど分配率の話をしましたが、付加価値に占める賃金や利益の比率は、多少の変動こそあれ、それほど大きくは変わりません。したがって賃金を上げようと思ったら、付加価値を増やすしか方法はありません。政府が行った春闘介入や賃上げ税制は、付加価値に何の影響も与えませんから、間違った方法だったということです。

 「『稼ぐ力』が賃金を高める」、この考えが正しいことはいろいろな数字が証明しています。例えば米国では1980~90年代に産業構造が大きく変わって、グーグルやアップルなどIT関連の先進企業が台頭してきましたが、そういう「稼ぐ力」が大きな企業は付加価値も著しく大きいので、賃金も非常に高くなっています。シリコンバレーの企業では、エンジニアの年収が1億円ということもあります。

 日本も賃金を高めるには、産業構造やビジネスモデルを変える必要があるのです。

なぜ日本は今のような窮地に陥ってしまったのか、そしてどのような変革を遂げるべきなのか、次回はそれを中心に話を伺っていきたいと思います。

取材・文/暮論子 写真/有光浩治

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