日本の平均賃金はこの20年、横ばいを続け、欧米はもとより隣国・韓国にも抜かれる状態だ。さらに昨今の急激な物価高が追い打ちをかけ、家計のみならず、日本経済全体を苦しめている。どうすれば光明を見いだせるのか。経済学者の野口悠紀雄氏は、新刊『 どうすれば日本人の賃金は上がるのか 』で、独自データを用い、長期的な賃金停滞の原因を分析している。野口氏に聞いた。
「中国の工業化」が各国の明暗を分けた
編集部(以下、――) 前回「 野口悠紀雄『賃金は上がらない』日本を覆う“諦めムード”の危険 」のお話にあった通り、新刊『 どうすれば日本人の賃金は上がるのか 』では、企業の「稼ぐ力」=付加価値が賃金を決めるとしています。日米のトップ企業の「稼ぐ力」に圧倒的な差が生まれている事実もデータで示されていますが、この大きな差が生まれる転換点はどこにあったのでしょうか?
野口悠紀雄氏(以下、野口氏) 日本は1960~70年代、鉄鋼業や自動車産業を中心に高度成長を遂げました。これらはすべて「垂直統合型」、つまり製品の設計から開発、製造、販売までを1企業(グループ)で手掛けるビジネスモデルを採用しており、それで成功を収めていました。
しかし、80年代になると大きな変革が起こります。中国の工業化です。中国が安い労働力で製品を作って世界中に輸出するようになり、先進国は大きな打撃を受けたわけです。そして、これにどう対処したかによって、各国の明暗が分かれることになりました。
米国は製造業中心の経済構造から情報産業へと重心を移し、この大きな変化にうまく対応できた国です。なかでもアップルは、ビジネスモデルの変革を成功させた典型と言えます。同社はそれまで自社工場でパソコンを作っていましたが、製造工程を海外の工場に任せ、本社は商品開発と販売に徹するようにしました。「垂直統合型」から「世界的な分業体制」へとシフトしたのです。
伝統的な製造業には工場が欠かせませんが、分業化して工場を抱える必要がなくなったことで、アップルの収益率は著しく上昇しました。このように海外では、ファブレス(fabless:工場を持たない)を実現した企業がIT革命とともに登場し、高い収益と高い賃金を実現しています。
一方で、日本企業は「垂直統合型」から脱却できていません。中国が工業化したとき、それに合わせて日本も産業構造を変えるべきだったのですが、そうはせず、高度成長期の構造を温存しようとしました。
それまで作っていたものを安く作るために賃金を抑え、さらに為替レートを円安に導く政策をとったのです。円安にすれば、輸出企業の利益は自動的に増えます。新たなビジネスモデルや技術を生み出さなくても利益が出るので、それらの企業は努力を怠ってしまった。
本当は産業構造を変えなければならなかった時期、30~40年にわたって円安という麻薬を飲み続けてしまった。その結果、日本経済は足腰が立たなくなったわけです。
なぜ政策で賃金が上がらなかったのか
野口氏 前回「 野口悠紀雄『賃金は上がらない』日本を覆う“諦めムード”の危険 」でも申し上げましたが、こうした状況を打破して「賃金の上がる国」にするには、適切な政策をとることが重要です。
日本はこれまで円安政策をとってきましたが、そのために日本は衰退してしまったと私は考えています。また、政策として企業に過剰な補助金を出したために、製造業は補助金漬けになっています。
同一労働同一賃金も効果の薄い政策の1つです。もちろんこれまで低かった賃金を引き上げることで、全体水準が上がるケースはありますが、半面、これまで高かった賃金を引き下げるという側面もあり、むしろそうなる恐れのほうが大きいでしょう。最低賃金の引き上げにしても同様で、それで平均賃金が上がる保障はありません。
雇用のあり方についても考え直す必要があります。「同じ会社が同じ人を雇い続ける雇用」ではなく、「経済全体での雇用」を重視すべきです。
米国では古い会社が潰れても、新しい会社が登場して雇用を生み、社会全体の雇用が維持される仕組みになっています。日本も「今までの雇用形態を続けよう」「ずっと同じ会社に勤めよう」という考えから抜け出し、「もっと高い生産性を実現するために、雇用を見直そう」「もっと高い賃金を得るために、新しい会社へ行ってみよう」と思える世界をつくらなければなりません。
硬直した日本の給与体系を変える突破口
そのための雇用形態として、「ジョブ型雇用」について新刊『どうすれば日本人の賃金は上がるのか』でも触れられていますね。
野口氏 ええ。これまでの日本では、一定の能力を持つ人を採用し、企業側が配属を決める仕組みが中心でした。採用された人が専門的な技術や能力を持っていても、配属先の仕事の内容は、それと関連の薄いものであることが多かったということです。企業は特定の分野の専門家よりも、様々な領域に通じたジェネラリストの育成を重視していて、実際、そういうジェネラリストになれた人が高い地位を得るようになっていきました。
ジョブ型雇用は、こういう仕事を担当させるために、どんな人が必要か(求職者側から言えば、「こういう仕事をするために、どの会社に入るべきか」)という考えの下で採用を行い、その仕事に応じて報酬を決めるという方法です。
能力が認められれば、若くても高い賃金を得られるようになります。逆に成果を上げられなければ解雇されることもあるので、従業員は他の人に仕事を取って代わられないよう、自分で能力を高めなければなりません。
すでにジョブ型雇用に取り組んでいる国内企業もありますが、これがさらに広がっていけば、「何もしなくても雇用が続き、年功序列で賃金が上がっていく」という従業員の意識や、日本の硬直した雇用・給与体系を変える1つの突破口になるかもしれないと思っています。
日本の賃金を上げ、経済の再生を実現するには、政府や企業だけでなく、日本で働く人全員が産業構造・社会構造の変革に向き合う必要があるということですね。ありがとうございました。
取材・文/暮論子 写真/有光浩治
『 どうすれば日本人の賃金は上がるのか 』
今や、他の先進国と比べて、賃金の安い国となった日本。どうすればこの状況から脱することができるのか? 独自のデータ分析によって長期的な賃金停滞の根本原因を明らかにし、日本経済の再活性化のために今、本当に必要な施策は何かを考える。
野口悠紀雄(著)/日本経済新聞出版/990円(税込み)