数ある古典・名著の中から、現代に生きる私たちの課題解決に役立つだろう本を選び、論じた「日経BOOKプラス」の連載「滝田洋一の古典に学ぶ現代世界」。このたび大幅加筆のうえ、『 古典に学ぶ現代世界 』(日経プレミアシリーズ)として刊行された。双日総合研究所チーフエコノミストで、ニューズレター「溜池通信」の筆者かんべえとしても知られる吉崎達彦氏が本書を解説する。

 名著と呼ばれる古典は、およそ3通りに分類することができる。まず、若いときに読んだけれども、中身をほとんど忘れてしまっているもの。次に評判だけを聞いて、「読んだつもり」になっているもの。最後に「自分には縁がない」と、最初から敬して遠ざけてしまっているもの、である。

 上は評者だけに当てはまることではあるまい。古典をわが身の血肉にすることは、そう簡単なことではない。そして、今からでもそれができれば…と思っている人は、けっして少なくはないはずだ。古典はいわば人類が共有する財産である。このまま「縁なき衆生」で終わるのはもったいない。せめて接するきっかけくらいは作ってみたいものである。

 そこでぜひ、本書『古典に学ぶ現代世界』を手に取っていただきたい。国内外のさまざまな古典への距離が、一気に近づくこと請け合いだ。

 書き手は、日本経済新聞社の客員編集委員である滝田洋一氏。しばしば「滝田の記事は出だしで分かる」と言われる。金融危機の話が、なぜかギリシャ悲劇から始まったりする。凡百の書き手がよくするところではない。ご当人が無類の読書家であり、半端ない知識量があるからこそ可能な業(わざ)である。

 本書の中で、滝田氏はさまざまな古典を取り上げる。ジョージ・オーウェルの『 動物農場 』(山形浩生訳/ハヤカワepi文庫)から今日的課題としての全体主義を論じ、有吉佐和子『 恍惚の人 』(新潮文庫)から半世紀前に予言されていた高齢化社会への視座を得る。アレクシ・ド・トクヴィルの『 アメリカのデモクラシー 』(松本礼二訳/岩波文庫)から米国社会の分裂の起源を探るかと思えば、カール・ポパーの『 開かれた社会とその敵 』(小河原誠訳/岩波文庫)から、今日の諸問題への道具立てを得る。まことに緩急自在であり、頭脳派投手が繰り出す変化球の球筋と配球の妙を見る思いがする。

 今日の人間が思い悩むほとんど全てのことは、かつて先人の誰かが考えてくれたことである。だからこそ古典には価値がある。ギュスターヴ・ル・ボンの『 群衆心理 』(櫻井成夫訳/講談社学術文庫)は、1895年の時点で「群衆を操る手段は『断言』『反復』『感染』である」と喝破していたそうだ。あるいは中江兆民の『 三酔人経綸問答 』(桑原武夫、島田虔次訳・校注)においては、外交をめぐる「洋学紳士」の理想論と、「東洋豪傑」の現実論の交錯にはほとんど古さがない。そして「南海先生」が示す回答は、意外性がなく地味に響くけれども、時代を超えて今日に通じるものがある。

 本書は「日経BOOKプラス」に、2022年から25年にかけて連載されたもの。単に名著を紹介するにとどまらず、そのときどきの社会情勢に対する寸評も加わる。それぞれに短いコラムが加筆されていて、披瀝(ひれき)される蘊蓄(うんちく)が楽しい。古典と名著の世界がどんどん身近な存在になるはずである。

 本書の白眉は、第6章「経済学の巨人の教え」であろう。

 アダム・スミスの『 国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究 』(山岡洋一訳/日経ビジネス人文庫)には、有名な「見えざる手」というフレーズは1回しか登場しない。「自由放任」や「夜警国家」などはゼロ回である。中学や高校の授業で「アダム・スミス」を学んでそれっきり、という読者にとっては「あれれれ?」であろう。

 スミスは、単純に自由な市場競争を良しとしたわけではない。むしろ「市場の失敗以上に、非市場の失敗の方がはるかに大きい」と、人間社会の本質を正しく洞察した点に真骨頂がある。「自由主義」というイデオロギーを発明したのではない。当時の英国社会における高度な常識を一冊にまとめ上げたのだ。

 自由貿易主義にしても、スミスは輸入規制への反対に2つの例外を認めている。ひとつは国防で、「国防は豊かさよりもはるかに重要」だという。もうひとつは「国内生産物に税金がかかっているとき」だという。意外と現実的ではないか。今のトランプ関税を見たら、果たしてなんと評したことだろう?

 ジョン・メイナード・ケインズについては、主著の『 雇用、金利、通貨の一般理論 』(大野一訳/日経BPクラシックス)のみならず、雑誌や新聞に掲載された解説・提言集である『 ケインズ説得論集 』(山岡洋一訳/日経ビジネス人文庫)を取り上げている。経済学者は「パンフレット」(時評)を書くべし、と言ったご当人は、大恐慌時代にどんなジャーナルを記していたのだろうか。

 当時の世界経済は、21世紀にわれわれが体験した「リーマン・ショック」と近い状態にあった。株や土地などの資産価格の下落に伴い、銀行がマージン(担保価値と貸付金の差額)を失った。そして経営難に陥ったが、これは銀行業にとって未体験の出来事であった。今の言葉で言えば金融システムの破綻である。

 ゆえにインフレよりもデフレの方が悪い、とケインズは結論する。このことは長いデフレのトンネルを抜けて、ようやく物価が上がる経済に突入した時代を生きているわれわれが、日々、実感していることではあるまいか。

 やはり古典は使うべきである。経済に関することであればなおさらだ。

 幸いなことに、「出版不況」などと言われつつも、わが国の活字文化はまだまだ健在である。特に近年の文庫や新書の充実ぶりは目覚ましい。古典をわが物とするためのコストは、昔日に比べれば確実に低下している。

 しかも昔とは違って、翻訳がどんどんこなれたものになっている。本書でも山岡洋一氏の努力が描かれているが、名著に親しむためのハードルは確実に低くなっている。

 後はどうやってきっかけをつかむか。滝田氏の手に導かれて、多くの読者が名著へといざなわれることを祈りたい。

<評者>吉崎達彦(よしざき・たつひこ)  双日総合研究所チーフエコノミスト
1960(昭和35)年富山県生まれ。一橋大学社会学部を卒業後、日商岩井(現・双日)に入社。ブルッキングス研究所客員研究員、経済同友会代表幹事秘書などを経て現職。ニューズレター「溜池通信」の筆者かんべえとしても知られる。著書に『アメリカの論理』『1985年』『溜池通信発 いかにもこれが経済』『気づいたら先頭に立っていた日本経済』など。