第15回 日経小説大賞(日本経済新聞社・日経BP共催)を2023年12月に受賞した『
紅珊瑚(べにさんご)の島に浜茄子(はまなす)が咲く
』(日本経済新聞出版)が刊行された。江戸時代後期、北前船が行きかう出羽(現在の秋田県と山形県の日本海側に該当)の幕府直轄の島を舞台にした時代ミステリーである受賞作への思いを、受賞者の山本貴之氏につづってもらった。
※本書の抜粋記事「
第15回 日経小説大賞『紅珊瑚の島に浜茄子が咲く』の一部を公開
」
企業買収のサポート経験が小説の下地に
日経小説大賞を受賞した『紅珊瑚の島に浜茄子が咲く』を執筆したのは、ビジネスパーソンとして企業経営の実務に携わるなかでさまざまに気づき心を尽くした事柄について、発想を変えて時代背景を江戸時代に移し替えて見つめ直してみたらどうだろうかと思ったことが一つのきっかけとなった。
かつて数年にわたり長期金融の立場から企業買収のサポートをしたことがあったが、とりわけPMI(ポスト・マージャー・インテグレーション)と呼ばれる承継後の実質的な企業統合の難しさを痛感した経験が今回の小説の下地になったと思う。
羽州新田藩という日本海に面する東北の小さな支藩がこの物語の舞台である。江戸後期になると北前船により東西の物資が流通するなど貨幣経済が進展し、一方で諸藩の財政は逼迫して幕藩体制の綻びが見えてくる。藩の財政改革を企図した新田開発が功を奏してできた支藩の藩主は、通常ならば本藩から派遣されるのが定法である。それが末期養子という異常事態の中で、幕府は他藩の四男をあえて継嗣として送り込んだ。ある隠された事情があって公権力が個藩の藩主人事に介入したわけである。
ところが跡継ぎとして未知の土地の新藩主となった響四郎は、何ら事情を知らずにこれを引き受けた。ただ、赴任する前に謎を解く鍵と仲間同士の符丁を教えられる。もちろん、これだけでは解決の糸口は見いだせない。
幕藩体制下のコンプライアンス違反
物語はこのように謎めいて始まるが、綿密なデューディリジェンス(査定)を経ないままわずかな部下を率いて藩の経営を引き継いだ新藩主は五里霧中で苦悩することになる。まず承継の前提となった前藩主の死因を探り、藩の資金繰りを確かめる。次に組織体制を調べ、人事を掌握し、実質的な経営権がどこにあるかを突き止める。
ところが、「ひと、もの、かね」を把握し藩政の中心に近づいたところで、部下が次々と不慮の死を遂げる。不気味な集団が暗躍し始め、本藩の介入が激しさを増す。やがて幕府がなぜ天領の島を預かる支藩をあえて部外者の自分に任せたかが、ある突発事件が起こったことによって明らかになる。「紅珊瑚」の島に「浜茄子」が咲く所以(ゆえん)である。
現代社会でも盛んに議論される親会社と子会社の関係などガバナンスが問われる事態が顕在化し、その根底には重大なコンプライアンス違反の事案が横たわっていたのである。
しかし、この物語は単純な経済ミステリー時代小説ではない。
もう一つの大きな柱としてメルヘン、ファンタジーとも評された恋愛小説の要素がある。そこで克明に描かれるのは、千代という江戸の紙問屋の若女房が一途に生きる姿である。町人文化が花開く中で紙の需要は増すが、これを独占しようとする大店(おおだな)連中の企(たくら)みが現れ、それに小店主たちは力及ばずながら対抗しようとするが、無残に打ち砕かれる。
それでも千代は、なんとか商売を続けようと苦闘する。そこに先の見えない道ならぬ恋に身を焦がしつつ商売を健気(けなげ)に守ろうとする千代のひた向きな姿が映し出される。その真摯な生きざまが「四年」という時を隔ててめくるめく大団円につながっていく。
時代背景は異なっても人間は変わらない
私は、戦国武将のような英傑や幕末の志士のような傑出した人物が活躍する物語を書こうとは思わない。封建体制下の江戸時代であっても、世の中を生きた圧倒的多数の人は、真面目に城勤めに励む中下級の武士であり、一日一日を懸命に暮らす市井の町人や農民であったはずである。そのような人々が日々過ごす中で喜びを見いだし、時には思わぬ幸せをつかむ。そんな姿を取り出して丁寧に描いていきたいと願う。
そういう視点に立つと、時代小説は意外に自由な創作領域であるように思う。時代考証をはじめ一定の守るべきルールは当然あるとしても、自由な発想で、さまざまな人物像を描き、豊かにストーリー展開を広げることができる。そこに映し出されるのは、時代背景は異なっても、今も昔も変わらぬ人間性であり、人々の一途に生きる姿である。
天災や人災が相次ぎ、国際情勢が緊迫し、物価が高騰し、格差が拡大する。自由貿易体制に揺らぎが見え、その一方で多くの企業は好業績を計上し、株価は順調に上昇している。もっとも、来るべき人口減少時代を前に人々は言い知れぬ不安を募らせている。加えて、記憶に新しいパンデミックの再到来や地球温暖化の影響にも警鐘が鳴らされている。
このような先の見えない現代社会において、読む人に楽しさとともに心に響くような共感と安らぎを差し伸べるような小説をこれからも世にきちんと送り届けていきたいと思う。
辻原登、髙樹のぶ子、角田光代の選考委員3氏の全会一致で選出された第15回日経小説大賞受賞作は、江戸時代後期の奥州を舞台に繰り広げられる極上の歴史ミステリー。
山本貴之著/日本経済新聞出版/1870円(税込み)


