日経BOOKプラス編集部会議では、毎回、さまざまなテーマで「あの本が、この本が、面白かった」という議論が飛び交います。最近、盛り上がったのは漫画。そこで、それぞれがおすすめしたい漫画を、またもや自由気ままに語ってみました。 (前回は、 「本を贈る日」に日経BOOKプラス編集部員が、贈りたい本
長編の漫画、今だからこそ読み返したい名作、ドラマ化・映画化された作品…とジャンルもさまざま。それでは、あみだくじで決めた順番でお届けします。手に持っている漫画は、編集部員それぞれの私物です。

木村やえがおすすめする

誰かと囲む食卓が仕事の疲れを癒やす『サプリ』と『かしましめし』

右/『サプリ』(おかざき真里作、祥伝社、全10巻)、左/『かしましめし』(おかざき真里作、祥伝社、現在1~5巻)
右/『サプリ』(おかざき真里作、祥伝社、全10巻)、左/『かしましめし』(おかざき真里作、祥伝社、現在1~5巻)

 『 サプリ 』(おかざき真里作、祥伝社)は、20代の頃に読み、日々仕事に追われて焦る自分を励ましてくれた作品です。

 働く女性が主人公で、彼女と、周囲の働く女性たちが、組織の都合やトラブルに巻き込まれながらも、自分の人生をいかに選択していくかが描かれています。当時は、主人公の最後の選択にこれもアリなんだ!と目を開かされたような思いがしました。今は多くの方にとって違和感がない(はず)と思いますので、『サプリ』がいかに先見性のある作品だったのかと思います。そして今でも、当時の自分のように働く女性たちを励まし続けていることだと思います。

 数年後、おかざき真里氏のインタビューを見て『 かしましめし 』(おかざき真理作、祥伝社)を手に取りました。インタビューの中で、『サプリ』で悲しい結末を迎えてしまった水原のことを想定して、『かしましめし』の主人公である千春を描いたとあったからです。

 千春は上司のパワハラで心が折れ、会社を辞めてしまうのですが、偶然、同級生2人と一緒に暮らすことになり、少しずつ自分と向き合えるようになっていきます。気の置けない友人と一緒に食卓を囲むことによって、凝り固まった気持ちがほぐれていくのです。その食卓に並ぶ料理の数々が、どれもおいしそうなんです。ホットプレートで作る包まないギョーザ、ラーメンスープのおそば、ロールキャベツならぬロールレタス…(作中にレシピあり)。温かくて、滋味にあふれています。「誰かとおいしいものを食べる」。仕事で疲れていても、おいしいものを食べると元気になれる、そんなシンプルなことが人を日々生かしているのだな、と気づかされます。

 『サプリ』の水原が、数年後に『かしましめし』で仲間と食卓を囲み「居場所」を手に入れている。そんなところにぐっときます。私自身、年を重ねて中堅と言われるくらいにはなりますが、今は『かしましめし』の千春たちに励まされています。

大人こそはまる悲しき少女の“復讐劇”『TISTA』

 どうしても絞ることができず、もう1作おすすめの漫画を紹介します。『 TISTA 』(集英社)は、大人気作『 SPY×FAMILY 』の遠藤達哉氏によるスナイパーの少女の物語です。

『TISTA』(遠藤達哉作、集英社、全2巻)
『TISTA』(遠藤達哉作、集英社、全2巻)

 『SPY×FAMILY』ではかわいらしいキャラクターのアーニャが注目されていますが、『TISTA』の主人公・ティスタは、まるで正反対の影のある少女です。周囲の大人や社会に翻弄されながらも、悩み、生きるために銃を取る姿に胸が苦しくなります。

 物語のテーマは重いものがあるのですが、ニューヨークのリトルイタリーの描写やライブ感のあるアクションシーンがスタイリッシュで、その世界観に引き込まれます。何より、ティスタが長身の銃を撃つシーンは倫理観を超えた説明不要の「かっこよさ」があります。白黒つけられないような現実に対して、ダークヒーローとして存在するティスタが活躍する本作は、大人こそはまるアクション作品だと思います。

 『SPY×FAMILY』で、主人公が「子供たちが泣かない世界」を作るためにスパイになったというシーンがあるのですが、『TISTA』にも同様のメッセージが感じられ、そんなところにもひかれます。

(木村やえ)

常陸佐矢佳がおすすめする

肩の力がすーっと抜ける『無能の鷹』

『無能の鷹』(はんざき朝未作、講談社、現在は6巻)
『無能の鷹』(はんざき朝未作、講談社、現在は6巻)

 『 無能の鷹 』(はんざき朝未作、講談社)は2020年から始まったお仕事漫画で、ITコンサルティング会社に勤める鷹野ツメ子さんが主人公です。スマートな振る舞いに自信と謙虚さを兼ね備えた「デキる」オーラをまとった女性なのですが、入社1年半後には社内ニートに! その理由は、仕事が全くできないから。

 「燃費」を「もえひ」と読み、コピー機もエクセルも使えません。志望理由を「オフィス街をバリッとした服でカツカツ歩いて、受付で社員証をピッしたかったの」と振り返って、同期入社の鶸田(ひわだ)くんを困惑させます。

 そんな鷹野さんですが、劣等感や競争心とは無縁で、堂々とした言動が時に周囲を動かします。「いざとなったら(鷹野は)クビかなぁ」という上司の言葉を耳にした際にも、心配する鶸田くんに「私がこの会社を必要としているから、会社に必要とされているかは考えないようにしている」と返して感心されます。とんちんかんな発言がピンチを招いても、相手の「善意の解釈」によってその都度切り抜ける展開に、笑いながらも引き込まれていきます。

 読み進めるうちに、頭に浮かんだある主人公がいます。『釣りバカ日誌』のハマちゃんです。「出世には興味がなく趣味に全力投球」というスタンスは憧れを持って親しまれています。一方で、お仕事漫画に登場する女性は努力家が多く、「仕事ができなくて、成長への興味も欲もない」タイプをメインに据えたヒット作品は珍しいのではないでしょうか。男女雇用機会均等法が1986年に施行されて37年、今年度は均等法第1期生に当たる大卒の女性が60歳を迎えていますが、この設定には、時代の変遷を見ることができます。

 『無能の鷹』は「仕事ができるか/できないか」にフォーカスして、ジェンダー格差のない世界を描いています。鷹野さんはシンプルに「困った人」であって、「女性だから」「女性なのに」といった描写は一切ありません。冷静な(ように見える)対応から取引先に鶸田くんの上司だと勘違いされるシーンや、交渉相手の女性が実は代表取締役であることを明かすカットなどもさらっと織り込まれています。

 鷹野さんだけでなく、鶸田くんも含めた登場人物たちの欠点を欠点のままで終わらせず、1話ごとの読後感もよい作品です。プレッシャーを感じる時、職場の人間関係にちょっと疲れた時などにページをめくってみてください。

(常陸佐矢佳)

小谷雅俊がおすすめする

圧倒的なリアリティーで迫る『沈黙の艦隊』

 日本政府が米国と共同で極秘裏に開発した日本初の原子力潜水艦「シーバット」。海江田四郎艦長ら海上自衛隊員が乗船する「シーバット」は米海軍の指揮下に入るものの、試験航海中に突如、反乱逃亡し、独立国「やまと」を名乗る――。この導入部分だけでワクワクするのが『 沈黙の艦隊 』(かわぐちかいじ作、講談社)です。1989年から96年にかけて全32巻のコミックスが発売されました。

『沈黙の艦隊』(かわぐちかいじ作、講談社、全32巻)
『沈黙の艦隊』(かわぐちかいじ作、講談社、全32巻)

 「やまと」は、海江田艦長の悪魔的な操艦によって米海軍の原潜を翻弄し、米第3艦隊を壊滅させてしまいます。私は当時、とてもリアルな戦闘シーンと兵器の描写に夢中になり、「原潜にはこんなに高い戦闘能力があるのか」と驚愕(きょうがく)しました。

 日本政府は、「やまと」の反乱と米軍との戦闘で大混乱に陥ります。そもそも「やまと」はなぜ独立国家を宣言したのか? 海江田艦長が明かした目的は「政軍分離」でした。

 「政治」と「軍事」の分離? どういうこと? それでいったい何が起きるのか? 私にとってはあまりにも斬新で、フィクションとはいえ、現実の世界で実現可能なのか、夢想せずにはいられませんでした。

 その他にも、『沈黙の艦隊』にはさまざまなことを考えさせられました。日米安保とは何なのか? 自衛隊の専守防衛の意味は? 日本は国際社会でどのような役割を果たすべきか? そして、戦争のない世界はどうすれば実現できるのか?――。今でも現実の政治や安全保障の問題を考える上で、示唆に富むストーリーだと思います。

 『沈黙の艦隊』は、魅力的な政治家がたくさん登場するのも読みどころの1つ。「この人物はあの議員がモデルなんだろうか?」と想像するのも楽しかったですね。日米同盟堅持を主張する保守派の民自党幹事長・海渡一郎が放った格言、「呑舟の魚は支流に游(およ)がず」(舟をのむような大きな魚は小さな川にはすまない)が妙に格好よくて、職場で無意味に使っていました(笑)。

 さて、この原稿を書くために改めて『沈黙の艦隊』の情報を調べていたところ、なんと実写映画化されて、今年9月29日に公開されるというではないですか! もう楽しみで仕方がありません。

(小谷雅俊)

長野洋子がおすすめする

平凡な日々が味わい深くなる 『僕の姉ちゃん』

 イラストレーター・エッセイストの益田ミリさんの作品は、肩の力が抜けるイラストと不意に本質を突いてくる言葉が特徴の、緩いのにピリッと辛い独特の世界観があります。なかでも私が気に入っているのは、『 僕の姉ちゃん 』(幻冬舎)文庫シリーズ。

『僕の姉ちゃん』『続・僕の姉ちゃん』『やっぱり、僕の姉ちゃん』(益田ミリ作、幻冬舎文庫)
『僕の姉ちゃん』『続・僕の姉ちゃん』『やっぱり、僕の姉ちゃん』(益田ミリ作、幻冬舎文庫)

 2022年夏に黒木華さん主演でドラマ化され、キャストはもちろん、音楽や衣装などの世界観もマッチしていてとても心地がよく、ドラマも10周はしました。

 『僕の姉ちゃん』は、新社会人の弟・順平とアラサーの姉・ちはるの日常のやり取りを描いた漫画です。順平は、姉から「平凡中の平凡」と呼ばれていますが、素直さが取りえで、いい意味で分かりやすいタイプ。一方ちはるは、直感的にも戦略的にも生きられる器用さを持ち、発想が豊かで、順平のつぶやきに深みやとげがある表現で返す。2人はいつも、気を許せる姉弟の程よい距離感で本音のキャッチボールをします。

 例えば、順平が「男に一番必要なものって何だろう」と質問すると、ちはるは「男にとって必要なものは、女にも必要なのであるゾ」と返す。「失ったものを取り戻せるなら何を取り戻す? 20代の若さ?」と聞くと「自分が言って後悔した言葉たち」と言う。「生まれ変わるなら男? 女?」には、「わたし」と答え、「なんにでもなれるなら?」「今好きな人の好きな人」になりたいと言う。

 ちはるは、他者に影響されない自分の物差しを持ち、何事も自分で決めて、自分で自分を味わっている。それが、さっぱりしていてすがすがしい。順平を見ていると、自分のまっすぐな青さを、ちはるを見ていると、それなりに人生でケガをしながら身に付いたずぶとさを重ねて、どちらの視点にも共感できます。

 今から20年前、ミリさんと仕事でご一緒したことがあります。当時、雑誌『 日経WOMAN 』の人気コーナー・読書投稿欄「ウーマンズトーク」(今も続いています)の挿絵と川柳を毎月、描いていただきました。ミリさんは、編集部に大量に寄せられる働く女性たちの仕事や恋、人生についての悩みや声を、編集部と一緒にいつも丁寧に読み込んでくれていました。ミリさんが観察してきたリアルな女性たちの視点や世界が、この作品にも詰まっていると思うと楽しさは深まります。

 ちはると順平の毎日は、いいことや悪いことがあっても、新しい1日が始まってちゃんと終わり、また始まる。引き込まれるというよりは、読みたい時に、読みたい分だけ読んで、さくっと味わえる軽やかさが魅力。無意識に頑張り過ぎて過剰に心の体温が上がりそうなときや自己肯定感を高めたいときにおすすめです。

(長野洋子)

市川史樹がおすすめする

戦争が続く時代に読みたい『アドルフに告ぐ』

 『 アドルフに告ぐ 』(手塚治虫作、文春文庫ビジュアル版/リンクは手塚プロダクションのKindle版)は、1983年から85年にかけて、手塚治虫が週刊文春に連載した作品です。舞台は第2次世界大戦前後の日本とナチス支配下のドイツ。アドルフ・ヒトラーと、神戸のパン職人の息子アドルフ・カミル、ドイツ外交官の息子アドルフ・カウフマンの3人の「アドルフ」の人生を描いています。

『 アドルフに告ぐ 』(手塚治虫作、文春文庫ビジュアル版)。リンクは手塚プロダクションのKindle版
『 アドルフに告ぐ 』(手塚治虫作、文春文庫ビジュアル版)。リンクは手塚プロダクションのKindle版

 ストーリーの中心にあるのは、ヒトラーがユダヤ人の血を引いているという出生の秘密を記した機密文書。現在では否定されていますが、ヒトラーユダヤ人説は、100年以上前からささやかれてきました。ヒトラー自身が自らの出身について複雑な思いを抱えていたことは確かで、彼の行動に少なからず影響を及ぼしたといわれています。

 手塚は後に、ヒトラーユダヤ人説を耳にしたことが執筆のきっかけになったことを明かしていますが、『アドルフ~』は、フィクションと事実の組み合わせが絶妙です。ベルリン五輪棒高跳びの死闘、1938年の阪神大水害、ゾルゲ事件…。教科書や物語で学んだことを、「こう使ってくるか!」と思わせます。ディテール、空気感を描きたい手塚の依頼で、担当編集者は、ユダヤやヒトラー、当時のドイツや神戸などに関する数百冊の本や当時の写真、神戸に住んでいた人の証言を集めたそうです。

 物語は最後、1970年代の第4次中東戦争に舞台を移します。フィクションと歴史的事実、自らの戦争体験を絡め、この作品が描き出したのは、人々が巻き込まれていく“戦争の狂気”です。

 ウクライナで戦争が続き、米中関係もきな臭い今の時代だからこそ、日本で、世界で読んでほしい作品です。手塚治虫が亡くなったのは1989年。ほぼ最晩年の作品ということになります。その意味でも手塚の「遺書」なのかもしれません。

(市川史樹)

桜井保幸がおすすめする

漫画と現実世界がシンクロしてしまう、『アオアシ』

 『 アオアシ 』(小林省吾作、小学館、現在は32巻、2015年~)はJ1の名門、東京シティ・エスペリオンFCの育成組織を舞台としたサッカー漫画だ。

 「アオアシ」とは主人公、青井葦人(アシト)の名前から。もともと葦人はフォワードだったが、エスペリオンユース入団後はサイドバックに転向する。現代サッカーでは、サイドバックは守備以外にゲームメーカーとしても重要な役割を担う。これは葦人の持つ特殊能力(ピッチを見渡せる俯瞰力)が、サイドバックでこそ生きると考えた、福田達也監督の指示によるもの。

「特におすすめなのが、この『アオアシ』(28巻)。右が主人公の青井葦人。左がエスペリオンのバンデイラ、司馬明孝」‎
「特におすすめなのが、この『アオアシ』(28巻)。右が主人公の青井葦人。左がエスペリオンのバンデイラ、司馬明孝」‎

 アオアシの一番の魅力は、実際のJチームの取材に基づいたリアルな描写だ。読み続けていると漫画と現実世界がシンクロしてしまう。

 私は川崎フロンターレのサポーターで、ユースの試合もよく見にいく。昨年フロンターレは、同年代のトップリーグ・高円宮杯U-18プレミアリーグEASTに初昇格し、初優勝した。『アオアシ』でも同リーグの戦いが出てくる。とりわけ高校サッカーの雄、青森山田高校をモデルにした青森星蘭高校とエスペリオンとの壮絶な試合は、単行本5巻にわたって描かれた。今年のプレミアリーグEASTでも青森山田とフロンターレは熾烈な首位争いを続けている。

 ところで今回、28巻を紹介するのは、エスペリオンのバンディエラ(1つのチームにずっと所属し続け、チームの顔となっている選手)の司馬明孝と、葦人が出会う場面があるからだ。

 司馬は40歳で、引退を考えている。青森星蘭戦勝利の立役者となった葦人は、トップの練習に初参加。元フロンターレの中村憲剛とクロアチア代表のモドリッチを合わせたような司馬は、意表を突いたノールックパスを繰り出す。葦人はプロとアマチュアの圧倒的なレベルの違いに衝撃を受ける。

 しかし、葦人は司馬に食い下がる。時間がたつにつれ司馬と葦人の呼吸は合っていく。そして練習試合が終わると、司馬は葦人を育てるために引退を1年延ばす決断をする――。

 でも、このように触りを紹介しても『アオアシ』の魅力は伝えきれない。サッカーのリアルなディテールと葦人をはじめ魅力的なキャラクターの設定が、物語、画力と合わさって感動を呼ぶのだろう。私のつれあいはサッカーのみならず、スポーツ観戦自体に興味をもたないが、漫画『アオアシ』にははまっている。

(桜井保幸)

中野亜海がおすすめする

歴史の面白さは人の面白さだということが分かる『風雲児たち』

 『 風雲児たち 』(リイド社、ワイド版)は、みなもと太郎氏による江戸大河ギャグ漫画である。1979年に連載が始まり、2021年に作者の死により未完となった大作だ。40年以上、世代や属性を問わず幅広く愛される大ヒット作で、「江戸時代が好きなんです」と言おうものなら、「じゃあ『風雲児たち』読んだ?」と聞かれる確率が高い、歴史好きにとっては定番中の定番である。

『風雲児たち』(みなもと太郎作、リイド社、ワイド版、続編「幕末編」も含めて全54巻)
『風雲児たち』(みなもと太郎作、リイド社、ワイド版、続編「幕末編」も含めて全54巻)

 ギャグ漫画と書いたが、この漫画は、全員が基本三頭身で描かれているのに、心を動かすシーンが多い。実は私のスマホには、『風雲児たち』フォルダがある。感動したページをスクショしてとってあるのだ。今回、記事のために見直したが、我ながら素晴らしいものばかりだ。

 高田屋嘉兵衛の「この十何年、二つの国はいろいろこじれたようだね。国といっても人間同士だ、ときほぐせぬこともないだろう」というセリフや(このあと嘉兵衛は自らロシアに連れて行かれることを望み、ロシア語を一言も知らないのに国際問題をうまくまとめて帰ってくる)、ペリー来航時の老中・阿部正弘(絶妙なバランス感覚で鎖国を終わらせた人)の「これまで幕府は最も大事な人物ばかりを迫害し殺し続けてしまいました」というセリフなど、名シーンを挙げ始めるといとまがない。

 私は、仕事でトラブルが起こったときは、高田屋嘉兵衛のセリフを思い出して心を強く持っているし、阿部正弘のセリフを思い出してさまざまなプロジェクトを潰さないようにしている(笑)。

 この漫画は、編年体で書かれており、主人公が移り変わる。みなもと氏には「幕末のことを描くなら関々原から書かなければならない」という思いがあり、開府から幕末まで、江戸時代を生きた無数の人物が出てくる。

 『解体新書』を作った杉田玄白、蝦夷地を探検した最上徳内、幕府に命じられ、まったく他人の地である木曽三川を治水し多くの犠牲者を出した薩摩藩士たち、日本初の女医で金髪碧眼のハーフのシーボルト・イネなど、ここに書ききれないくらいの主人公たちが、精いっぱい生き、成功したり殺されたり野垂れ死んだりする。

 この物語には、必ず「権力」「組織」が関わってくる。江戸時代に、何か新しいことや正しいことをしようとすると、身分やメンツや組織に阻まれる。不自由な時代だ。しかし、翻って思うのだ、現代だって不自由だ。この壮大な物語を通じて、自分が自分らしく生きることにいかに勇気が要るのかということが分かる。

 『風雲児たち』はリイド社から「ワイド版」全20巻とその続編である「幕末編」1〜34巻、合計54冊が刊行されている。あまりの大作で、なかなか幕末までたどり着かないので、みなもと氏の年齢を考えて、連載中にファンたちは「幕末を描ききる前に亡くなっちゃうんじゃないか」ととても心配していた。

 そして、その心配は当たった。でも、そんなことはこの名作の前では些末(さまつ)なことだ。どこを読んでも、どこで終わっても素晴らしい漫画である。

(中野亜海)