2022年3月にウクライナのキーウに入り、現地で苦しむ人々の声に寄り添い、街の様子を取材していたジャーナリストの小西遊馬さん。毎日触れる戦争報道を前に、私たちは世界をどう見ればいいのか。国内外の社会問題を取材し続けてきた小西さんに、情報への向き合い方、そして取材の原点となっている本について聞いた。
平和な日本に身を置いて、戦争報道に触れながら感じるのは、ウクライナといっても広く、各地の状況は大きく異なるのに、日本ではキーウ、イルピン、ブチャ、マリウポリといった地域がごっちゃになっていて、混同している人も少なくないということです。
キーウで僕が滞在していたアパートは、イルピンやブチャから森を一つ隔てたところにありました。なので、アパートからは森の向こうにミサイルが撃ち込まれる様子や、ブチャのあたりから炎が上がる様子がよく見えた。その一方で、キーウ市内は、少なくとも僕が滞在していた時点では、イルピンやブチャのような激しい爆撃を受けているわけではなかったのです。
実際、僕は何も知らなかった。
キーウに入って目の当たりにした状況と、現地入りする前に想像していた状況とはかなり違っていました。
本当に世界が見えているのか
このところ、ロシア軍によるとされる民間人の虐殺が次々と明るみに出ていますよね。各国のメディアはそれこそ命懸けでその凄惨な現場を取材しているわけですが、貴重な取材の結果を日本のメディアが扱う場合、遺体の映像にぼかしやモザイクをかけなければならない場合があります。平和な日本に届くのは、人が見たくないもの、見るに堪えないものを排除した後の情報だけなんですね。
でも、これってどうなんだろう。
生と死は一体なので、死というものを排除してしまったら、自分がどう生きていくかさえ考えることができなくなることもある。でも、その死を当たり前のように覆い隠してしまう。死は確かにグロテスクかもしれません。でも、そもそも世界はグロテスクな側面を持っていて、戦争はその最たるもの。その悲惨さを直視することなしに、世界を語ることなんてできないと思っているんです。だって、それが世界というものじゃないか、と。
戦争についても同じで、グロテスクなものを規制して、見たくないものをどんどん枠の外に追い出してしまったら、今戦場で何が起こっているのかを知り、これからどうすべきかを考えることは不可能になります。だってそれって、空想の世界がちりばめられ、楽しいパレードが行われているアミューズメントパークの中で戦争を語るのと同じようなものではないでしょうか。
とはいえ、もちろん情報の受け手への配慮は欠かせないと思います。僕が考えるポイントは2つあります。
一つは、亡くなった方々の親族のケアをどうするか。これをしっかり考えてきめ細かく対応していくことが大切です。もう一つは、受け手のストレス。これはBBCなどのように、「これから遺体が映ります」「○秒後にショッキングな映像を流します」と警告表示をすることで、ある程度まではコントロールすることができるのではないか、と思うのです。
そんな配慮を行いつつも、やはり僕は断片的な情報でなく、全体像をつかみたいし伝えたい。なぜなら、そうでないと大切なことが見えてこないから。
例えば、サバンナでライオンがガゼルの子を食べようと狙っているとします。まもなくガゼルは食べられてしまう、これは世界の摂理ですよね。でも、このときカメラをパンしたらライオンの横に子ライオンがいた、となると世界の見え方は変わってきます。まだ狩りのできない子のおなかを満たすための営み。それは残酷であっても、同時にとても美しい、と僕は思うんです。
おなかの底から感じる喜びとか深い悲しみとか、温かい愛情とか沈みそうな苦悩とか、湧き上がる怒りとか…生々しくグロテスクなものと美しいものは、常に一体にあるのではないか。それが世界の約束、というか。だから世界を信じていられるのだと思います。ただグロテスクなものだけなんてないんだと。
PR戦争のドキュメンタリー
今回の取材でどうしても再読したくなったのが 『ドキュメント 戦争広告代理店』(高木徹著、講談社) です。
これはボスニア・ヘルツェゴビナ紛争のときのPR戦争を描いたドキュメンタリー。米国のPR会社の支援を受けたボスニア側が、情報操作によりセルビア側を圧倒、「セルビア=悪」という空気を意図的につくり世論を味方につけることで勝利を収めていきます。
興味深いのは、PR会社が露骨なねつ造や隠蔽は行わず、事実の一部分を切り取り、それを受け手が喜ぶインパクトのある形に加工して与え、テーマ設定による方向付けで世論を制御していくこと。そうすることで、人々が勝手に都合のよい真実を増幅して拡散していくのです。
これって大国間の情報だけでなく、ジャーナリスト個人にとっても同じなんです。あのとき、キーウ市内のあちこちで軍隊が射撃練習をしていて、ダダダダダッという大きな銃声がとどろいていました。僕がヘルメットをかぶって防弾チョッキを身に着け、工事かなにかで崩された家の前で、「今、街は混乱に包まれています」と伝えたら、映像としてはキーウでとんでもないことが起きているみたいに見える。
実際、滞在中に500メートル先のショッピングセンターが爆撃されたし、あるジャーナリストが、僕がほんの数時間前まで取材していた場所で亡くなったこともあったし、「危険」という意味では一つも嘘はついていない。
これをやったら、映像と効果音の力で、僕は飛び交う銃弾をものともせず取材を続けるスゴい人になる。インパクトのある映像は撮れる。でも、絶対やっちゃいけない、そう思います。情報の取り上げ方、見せ方って発信側次第なんですよね。ただ、受け手には、その情報が本当なのかどうかなんて実は分からない。
いや、発信者である僕だって、何がどこまで分かっているのか。
結局、世界はデタラメだ
『生物から見た世界』(ユクスキュル/クリサート著、岩波文庫) という本は、結局、自分は何も知らないんだ、ということを僕に思い知らせてくれた本です。出合ったのは、いろいろと知ったかぶりをしたい盛りだった、高校3年のとき。他の本の中で紹介されていてなんとなく手に取って、こてんぱんにされました。
書いてあるのは、ダニやカラスなどの生物がこの世界をどう見ているか。ひとつひとつ興味深いんですけど、結局、すべての生物はそれぞれが異なる知覚と作用のメカニズムを持っていて、それぞれ固有な環境世界の中で生きているという。だからもう分かり合えるわけないじゃん、自分が見える世界なんてデタラメなんだ、っていう(笑)。
自分は何も知らない、完全な他者理解なんてあり得ない。だから、誰に対しても、何に対しても、分かったようなことは言わない。これは僕の取材の原点です。
何も知らないから知りたい、あなたのことを理解できないだろうけれど、少しでも理解したいから探求し続ける。これは、ドキュメンタリーを撮るときに、実はすごく大事なんじゃないかと思っています。
探求し続けるということは、あなたのためにずっと迷路で迷い続けるということ。思えば、僕の両親は、僕に対してずっとそれをやってきてくれました。それはきっと愛するということなんだと思います。
取材・文/平林理恵 構成/長野洋子(日経BOOKプラス編集部) 写真/鈴木愛子