読んだときの、何というか……「この本の中に自分がいる」という感じ。もちろん、主人公とは置かれた状況が全然違うんだけど、僕がひそかに抱えているものをえぐられたというか。いや、「僕が」というより、恐らく「誰もが」抱えている普遍的な何か――。
『人間失格』 (太宰治著、新潮文庫)に出合ったのは、ほんの1年前。
僕はジブリファンなんですけど、たくさん持っている宮崎駿さんの本の中の一冊に、宮崎さんが一時期『人間失格』にハマりまくっていたという話が書いてあったんです。それなら僕も読まないといけない、と手に取ったら、どっぷりハマってしまいました。
物語の主人公は、自分を信じることができないが故に人間自体を信じることができない男。道化を演じながら他者からの承認を求め、自意識にさいなまれて酒と女と薬に溺れ、「もはや、自分は、完全に、人間で無くなりました」というところまで落ちていきます。
その恐ろしいくらいむき出しにされた弱さ。もちろん「主人公=太宰治」というわけじゃないけれど、書き手が自分の恥ずかしい部分をすべて出し切って書いていることが伝わってきました。すごい。ここまで自分のことをさらけ出すことは、誰もができるわけではありません。
読んだときの、何というか……「この本の中に自分がいる」という感じ。もちろん、主人公とは置かれた状況が全然違うんだけど、僕がひそかに抱えているものをえぐられたというか。いや、「僕が」というより、恐らく「誰もが」抱えている普遍的な何か――。
その「何か」にあえて言葉を与えるとしたら――「暴力性」とか「変態性」でしょうか。
むき出しの弱さが心をラクにする
そんなもの、引っ張り出してほしくないし、自分にはないぞと信じたい気持ちもあって、読んでいて心中穏やかじゃないんですよ。でも、そういうものだよ、それでもいいんだよ、と言われているような気もして、次第に心がやわらかくなり、しみじみと救われていく。
最初はことごとく人間的に失格であるような主人公が描かれているのに、読み終わる頃には、彼が本当に失格なのかどうか、分からなくなってくるんです。むしろ彼は人一倍優しかったし、だからこそ自分のグロテスクさが許せなかった。みんな、なんだかんだ言っても、やっぱり根はいいやつなんだ、という人間愛を感じる。
振り返れば、自分という人間をどう愛そうか探していた思春期の時期に、もしも、こんなふうに素っ裸で弱さをさらけ出してくれる大人がそばにいてくれたら、僕はもう少しラクに生きることができていたかもしれません。あるいは、この本にもっと早く出合えていたら、違ったのかもしれないなあ。
そんな『人間失格』を、なぜ、今ここで取り上げたくなったのか。それは、僕が今年(2022年)の3月、ロシア軍による侵攻を受けたウクライナへ取材に行ったことに直結しています。
なぜ「あり得ない」と言ってしまうのか
ウクライナの戦地に取材で行ったときも、帰国してからも、SNSには、「21世紀の今、こんなことが起こるなんて信じられない」とか、「なぜ、こんなひどいことができるのか?」とか、そういった意見が飛び交っていました。
もっともな意見だと思うし、多くの人にとって自然な感想ですよね。でも、その一方で、ちょっと危険だなとも感じたんです。
なぜなら、その言葉の向こう側には、「自分たちなら絶対やらない」「あり得ない」「君たち、ホントに同じ人間なの?」という思いが透けて見える気がするから。
人間は、暴力性やある種の変態性を持ち合わせているものだから、環境が変われば、それが頭をもたげてくる可能性がある。
「あり得ない」ことじゃない、同じ人間だからこそ、自分たちだってやってしまうかもしれない。人間はそんなに崇高じゃない。それをちゃんと自覚して、それでもどうやって一緒に生きていくのかを考えなかったら、戦争は永遠になくならないのではないか。
子どもの頃は、本能や興味の赴くままに、平気でアリの巣に砂を入れたり、トンボの羽をむしったり、髪の毛を引っ張って友達から欲望のままにおもちゃを奪ったりしていたけれど、大人になった今は、理性や知性によって、行動を抑圧しているだけなんじゃないか。そういう、もともと人間が持っているグロテスクさは、なくなったわけではないと思うんです。
『人間失格』には、人間が持つ、隠しておきたい部分がえげつないほどくっきりと描かれています。そんな人間たちが、それでも一緒に生きていくにはどうしたらいいのか――ということをみんなで話すとき、もしかしたら、この『人間失格』がスタート地点になり得るのではないかと思ったのでした。
本に読んだ痕跡を残す
本を読むときは、僕はいつも手にペンを持ち、線を引いたり、書き込みをしたり。読んだ痕跡を残したいタイプです。
例えば『人間失格』の場合、「世間とは、いったい、何の事でしょう。‥‥‥世間というのは、君じゃないか‥‥世間とは個人じゃないか」あたりにダーッと線が引いてあります。
世間とは、目に見えない大きくて強くて怖い塊ではなく、自分が(参加することによって)つくり上げていたもの、つまり自分自身の鏡だ……と主人公が気づくところ。おそらく、うんうん、確かにそうだよな、と、読みながら感じたんだと思います。
読書で自分の変化を知る
道化について書いてある部分では、「それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした」という部分にマーキングしてある。ああ、思い出しますね。以前の僕は、自分をどこか抑圧している部分があったのですが、今は、自分を許せるようになり、自分を騙す必要はなくなった。ここにマーキングしたのは……そんな自分の変化を感じたからだったかもしれないですね。
痕跡を残しておくと、読んだ当時の自分に会える。同じ本を繰り返し読むことが多い僕にとっては、それも読書の楽しみの一つです。その時々の自分の状況や気分によって、マークしたい部分も感想も微妙に変わってくる。
本を読むことは大好きですが、自分が伝えたいことを最大限伝えるためには言葉ではなく映像にこだわっています。
文章でも写真でもなく映像にしかできないことを追求していきたい。映像なら、変化のプロセスを、まさにそのただ中(最中)を見せることができます。それは、変化の途中であり、正解はない。
この世界って、まさに刻一刻と変化していますよね。つまり世界に正解はなくて、映像だからこそ、表現できることだと僕は思っているんです。決めつけず、ジャッジせず、世界(移ろいゆくもの)を映していきたいと思います。
取材・文/平林理恵 構成/長野洋子(日経BOOKプラス編集部) 写真/鈴木愛子