ロシア軍によるウクライナへの侵攻が始まり、3月にキーウ入りして現地取材を重ねた映像作家でジャーナリストの小西遊馬さん。「私たちは今、世界で起きていることにどう向き合えばいいのか」――そのヒントになるような、帰国直後の日経BOOKプラスの取材を経て、改めて話を聞いた。そこで小西さんが語ったのは「やっぱり僕は、『戦争』についての話がしたい」ということだった。

 さまざまなきっかけで出合い、手にした本が約350冊、自宅の本棚に並んでいます。

 僕はどうしても本を捨てられないタチで、本棚に入りきらなくなったら、収納箱に詰めて実家へ。実家に着々と収納箱が積み上がっていくという状況のなか、いつでも手に取れるように手元置きたい本だけが自宅には残してあります。

「自宅の本棚にある本は、何度も読みたくなる本を自分で厳選しています」
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 その中に、小学校時代から大切にしてきた漫画があります。

 それは、戦争をはじめ、事なかれ主義的な日本社会に対する自分自身の姿勢をつくってくれた、僕の原点ともいえる『はだしのゲン』。

恐怖と怒り…震えるほどの衝撃だった

 初めて手にしたのは小学校の図書室でした。確か1週間に1度、本を読んでさえいればそれでいいという「図書の時間」の授業があったんですが、当時の僕は外で遊んでばかり、読書なんて「めんどくせー」という小学4年生。その1時間を潰すために、図書室に唯一置いてあった漫画本に手を出した、それがゲンとの出会いでした。

 ゲンは広島市に住む小学2年生。熱血漢の父と優しい母、きょうだいたちに囲まれ、仲良く暮らしていました。しかし戦争が彼らを貧しくし、反戦的な父によって家族全員が非国民としていじめられ、ついには、原爆の投下で、一家の幸せは根こそぎ奪われてしまいます。

 爆風で潰れた家の下敷きになり、身動きがとれなくなった家族に近づいてくる火の手、ガラスの破片で血だらけになりながらはだしで逃げ惑ったこと、焼けただれた皮膚をだらーんと引きずりながら幽霊のように歩く人々、そして、被爆者に対する残酷な差別と壮絶ないじめ‥‥。

 あまりにも想像を絶する別世界的な描写が、それでもなお、逃げられないほどに迫ってくるのは、この 『はだしのゲン』‎(中沢啓治著、汐文社) に描かれていることが作者・中沢啓治さんの実体験で、日本人に戦争や原爆の記憶を忘れさせないために、自伝として書かれた漫画であるからでしょう。

「20代に入ってから自分で買って、全巻を手元にそろえています」
「20代に入ってから自分で買って、全巻を手元にそろえています」
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 あのときの衝撃は今も覚えています。突き上げてくるような恐怖と怒り。それを押さえ込むようにして、黙々と読み進めた。

 でも、グロテスクな描写に恐怖を感じたわけではなかった。

 痛いだろうな、熱いだろうな、戦争って怖いなという感想は、もちろん持つんですよ。でも、恐怖のポイントはそこじゃない。

 僕が、ただただ、心底恐ろしいと思ったのは、こんなふうに大切な人がいなくなってしまうという事実だった。

 読みながら、ゲン家族に起こったことを自分たち家族と重ね合わせ、父や母が虐げられたり、蔑まれたりする様子を想像して、怒りに震えました。

 子どもの頃って、親の存在が大きくて絶対的で、親が幸せそうにしていることがなによりうれしかったりするじゃないですか。逆に、親が苦しんでいたり悲しんでいたりするのを見るのは、すごいキツい。

 中沢さんが『はだしのゲン』を通して子どもたちに伝えたかったこと――戦争がどれだけ恐ろしいものなのか――を、10歳の僕は、すごくシンプルに、でも、ちゃんと理解していたんじゃないかなあと思います。

「『大切な人を失う戦争がこわい』――シンプルだけど、強烈にそう感じたあの時の感情は今も続いています」
「『大切な人を失う戦争がこわい』――シンプルだけど、強烈にそう感じたあの時の感情は今も続いています」
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戦争の原因や犯人を捜す先にあるもの

 3月にウクライナに取材に行ってきてから約5カ月、先の見えない戦闘はまだ続いています。

 長期化するにつれて、世の中の関心が次第に薄れていっていることはSNSなどからも見て取れます。

 特に近頃気になるのは、「なぜこんなことになったのか」という原因探し、あるいは「誰が悪いのか」という犯人捜しに走る人たちが増えていること。

 「誰々がこれこれこうしたからこうなりました」という方程式を見つけて、「だから、しょうがなかった」と納得したい。過去の歴史がこうだったから、あれは避けることができない歴史の1つの通過点だった、というような宿命論的な諦めるポイントが欲しい。

 その気持ちは理解できなくもないんです。「しょうがない」と結論づけたほうがずっとラクになれる。長引けばそうしたくなるのはある意味当然のことなのかもしれません。

 でも、この「しょうがない」で片づけてしまう態度は、ある意味「責任を放棄する」ことと同義だと思うんです。

 太平洋戦争に反対できなかったのは、空気的にしょうがなかった。ウクライナの侵攻を阻止できなかったのはしょうがなかった(あいつが悪い/僕や私に何ができた?)。半ばカルチャーみたいなものだったから、いじめによる自殺を防げなかったのはしょうがなかった。自分だけゴミを分別してもしょうがない。工場や車が二酸化炭素を大量に排出しているんだから、自分の部屋のエアコンの温度を上げたってしょうがない。

 「しょうがない」という言葉を使うと、社会の一員であるはずの自分が、一人だけ、その瞬間だけ、都合よく脱社会的なポジションに置かれたような気になってしまう。

 思考を重ねて迷路に入り込んだ揚げ句にたどり着いた結論が「しょうがない」ならまだしも、そうした安易な「しょうがない」は、戦争につながる危険をはらんでいるのでないかと思っています。

 戦争は、音もなく始まります。

 分かりやすく「せえの」で始まるなら、みんなでいっせいに反対を唱えることもできるかもしれないけれど、気づいたら始まっているから「しょうがない」と受け入れてしまう。攻撃されれば「しょうがない」からたくさんの爆弾をつくり、「しょうがない」「しょうがない」とどんどん戦争にのめり込んでいく。戦禍が広がっていく。

 『はだしのゲン』のゲンは、「しょうがない」と言われるとキレれるんです。

「しょうがない」にキレるゲンの可能性

 道を踏み外し、人を殺してしまった戦争孤児の友達が「しょうがないんだ」と言えば、ゲンは「しょうがないなんて言うな」と号泣する。戦争を「しょうがない」で片づけようとする兄にも、「しょうがないなんて言わないで」と訴える。

 ゲンは「しょうがない」という理由で決して諦めたりしません。そして、たった1人でも抵抗する。そんなゲンの姿を、作者の中沢さんは何度も描いています。中沢さんは、これから先、戦争の抑止力になっていくのはゲンのような存在だ、と考えていたのではないでしょうか。

 「しょうがないなんて言うな」は、ささやかな抵抗だけれど、みんなが「しょうがない」と諦めることをやめれば、きっと何かが変わる。

 これは戦争だけの話ではなくて、社会で起こるできごとすべてにあてはまるような気がします。

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 もちろん、なんでもかんでも「しょうがなくない!」と主張していたら歯車が回らなくなることもあります。いい意味でやり過ごす力も必要なんだと思う一方で、どんな時でも「しょうがない」と諦めない、ゲンみたいな生き方ができたらいいなあと思うのです。

取材・文/平林理恵 構成/長野洋子(日経BOOKプラス編集部) 写真/鈴木愛子