2022年3月にウクライナに取材に行く前、改めて戦争のことをちゃんと勉強しておきたいと思い、戦争文学を一気に調べました。

 そのときに出合ったのが五味川純平さんの『人間の條件』。行く前に読んで衝撃を受け、帰国してからもう一度読み直して、改めてその描写のリアルさに感服しました。

 著者の五味川さんは、自身が徴兵され、ソ連国境を転戦し、捕虜となった経験を持ちます。それは、この本の主人公である梶が歩んだ人生と重なりますが、五味川さんは前書きで、「これはフィクションである」と明言しています。

 歴史の事実はフィクションよりもはるかに複雑でドラマチックであるからこそ、「虚構という手法によらなければ、とても真実の間口に近づくことができるものではない」と。

 つまり、人間がどれだけグロテスクか、墜ちたときにどこまで墜ちていくのかを目の当たりにしてきた人が、フィクションという手法を使って戦争のリアリティーを伝えようとしたのがこの 『人間の條件』(五味川純平著、岩波現代文庫) です。

「だから僕は、この場を借りてこの本を紹介したいと思いました」
「だから僕は、この場を借りてこの本を紹介したいと思いました」
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 「人間の條件」とは何か。人間が人間たり得るラインとは、どこなのか。

 戦争というものは世の中の矛盾や不条理をことさら露わにします。そんな戦時下にあって、一歩踏み外せば獣になってしまうところをギリギリのところで踏みとどまり、人間であろうとした男、それが、この本の主人公の梶です。

 梶は、戦争そのものに疑問を抱いていたものの、愛する妻と暮らすために(自分は死にたくないために)、徴兵免除が条件の満州の鉱山での仕事を選びます。そこで任されたのは、中国人捕虜たちを管理する仕事。劣悪な環境で捕虜を奴隷のように働かせる会社の上層部と、彼らを人間らしく扱いたいと考える梶は対立を深めていきます。

 彼は、そもそも戦争は間違っていると考えていますが、1人の力で「戦争をやめさせること」などできるはずもありません。それどころか、自らの死を逃れるために、満洲で捕虜を働かせて鉄を造っていること自体が、戦争に加担することになる。

「主人公の梶は、その根本的な矛盾に苦悩するのです」
「主人公の梶は、その根本的な矛盾に苦悩するのです」
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 その姿に、周囲からは、「ヒューマニズムだ」「何をかっこつけてるんだ」とからかわれ、(自分の幸せのために選んだこの境遇では)「今さら何を言っている」とあきれられます。

 梶は、一度は自分の幸せのために間接的な人殺しに加担することを選びました。正しい生き方を真にまっとうするには「死ぬ」しかなかった。でも、できなかった。人のために自分は死ぬことはできない。そして、自分は口先だけのヒューマニストだと自己嫌悪する。でもその上で、「これ以上は『しかたがない』と言えない(言いたくない)」という、自分の「人間としての條件」を保てるギリギリの境界線で葛藤と苦悩を繰り返すのです。

 あるとき、逃亡を図ったとして、捕虜7人を見せしめのため斬首することになります。

一人のささやかな抵抗が…

 捕虜たちの目の前で、1人ずつ引き立てられ首がはねられていく。ここで処刑の中止を訴えるのは、自分の命を投げ出すに等しいこと。かといって、罪のない人の処刑を平然と見過ごすのは人として間違っている。でも、反対すれば「愛する妻と、もう一緒に暮らせなくなるかもしれない」。梶は、声を上げることを躊躇(ちゅうちょ)してしまう。

 ――もうたくさんだ、俺は何をしているのだ! 俺は見せてやるぞ、ぎりぎりいっぱいのところで、正しい生き方というやつを。さあ行け! 動け! 怖れるな!

 3人目の処刑が終わったとき、梶は勇気を振り絞って「待て!」と叫び、飛び出すように進み出ます。「どけ! 出しゃばると貴様も叩っ斬るぞ!」と怒鳴る首切り役の軍曹。ここで事態は大きく動き出します。

 その梶の姿を見た捕虜たちが総立ちになってわあああああと津波のような喚声を上げ、今にも押し寄せるかのように揺れ動き始めたのです。騒ぎが大きくなること恐れ、軍曹は処刑をやむなく中止に。

 1人のささやかな抵抗が、他の誰かの勇気を誘い、みんなのささやかな抵抗が集まって何かを止める。「しかたがない」と諦めずに、1人1人がささやかでも抵抗すれば、それが大きな力となる可能性は常にある。だから、諦めちゃいけない。「しかたがない」と言わざるを得ない時があっても、ギリギリ守らなければいけない「人間としての條件」がある。梶は、それを守ることを決めたんですね。(その後、梶は、憲兵隊からむごい拷問を受け、瀕死の状態で釈放されたのち、臨時召集令状がつきつけられる)

 いつだって人間は矛盾のなかにあります。それでも、ギリギリのところで守らなければいけないものがある。一線を超えてはいけないラインがある。果たして自分はそれを守れているのかどうか。

「そんなことをずっと考えていました。自分はどこかで『しかたがない』に抵抗して、『人間としての條件』をちゃんと守れているのかと」
「そんなことをずっと考えていました。自分はどこかで『しかたがない』に抵抗して、『人間としての條件』をちゃんと守れているのかと」
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 悲惨な戦争が起きてしまった、今の社会。「しょうがない」「しかたがない」と言い続けてきた末の恐ろしさが、今の、そしてこれからの、ウクライナの状況から見えてくるのではないかと思います。

 今、僕たちにできることは何なのか。

『人間の條件』で忘れたくないセリフ

 『人間の條件』のなかで、インテリの捕虜である王が、決断ができず悩み続ける梶にこう言います。

 ――「人間には人間の仲間が、いつでも、必ず、どこかにいるものです。互いに発見し合って、手を握り合えばいいのです」

 人間の心を失わなければ、必ず同じような人間がそばに現れる。これは、他者と生きていく過程で折り合いをつけなければいけないことや、諦めなければいけないことがあっても、ギリギリのところで正しく生きていこうとするときに、絶対に忘れてはいけない大事なことなのではないかと、僕は思いました。

 生き方に正解はない。さまざまな条件で出す答えは個々に異なる。もし、普遍的なものがあるとしたら「正しく生きたい、生きなければならない」というヒューマニズム的な気持ちだけなのかもしれない。結局はそれをどう形にするのか、個人それぞれに託されているだけなのかもしれない。

 これは作者自身の葛藤の記録なんだと、僕は思います。自らの葛藤や失敗、自分の嫌な部分を内省的に描く書き方は、ドストエフスキーや三島由紀夫、太宰治の作品と似たところがある。自分が好き、だけど同時に大っ嫌い。自分のことが信じられないから、人のことも信じられない。人の野蛮さを知っているからこそ、自分の中にもそうしたものがあるのではないかと怯えてる。そういう苦しみがある。

 ドストエフスキーはオスマン帝国との戦争などを経験した時代に生きていたし、太宰治や三島由紀夫も、第一次世界大戦や太平洋戦争を経験しています。彼らは人間がどこまで残酷になれるか知っている世代であり、それを目の前でありありと見てきた。だから考えたのではないでしょうか。「人間は本当に”善的に”生きることができるのか」ということを。

 五味川さんの言葉で言うのであれば、「人間の條件」とはなんなのか。

 日本にいる僕たちは、この戦争を知る世代の共通の問いに対し、どう答え、その答えを守るためにどう生きるのか。それが今、問われているように感じます。

「僕はこれから映像を通して何を伝えたいのか。その原点を考えるきっかけにもなった一冊です」
「僕はこれから映像を通して何を伝えたいのか。その原点を考えるきっかけにもなった一冊です」
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取材・文/平林理恵 構成/長野洋子(日経BOOKプラス編集部) 写真/鈴木愛子