現役の企業の役員であり、第15回日経小説大賞を『 紅珊瑚(べにさんご)の島に浜茄子(はまなす)が咲く 』で受賞した山本貴之氏は、時代小説の名作には企業経営に通じる「気づき」があると言う。今回取り上げるのは、池波正太郎の『鬼平犯科帳』。「鬼平の魅力をビジネスから紐解(ひもと)くのはいささか無粋」とことわりながらも、この作品をあえて取り上げたのは、市井の人々の営みを描くからこそビジネスにも普遍的な価値が共有されているからだという。
江戸の下町を舞台にした時代小説
これまでの連載二回は、藤沢周平の『漆の実のみのる国』と『用心棒日月抄』、司馬遼太郎の『坂の上の雲』を採り上げて、企業人ならではの「気づき」として、「リーダーシップ」や「パーパス経営」、「合理的判断」などについて紹介した。
最終回の今回は池波正太郎の『 決定版 鬼平犯科帳 』(文春文庫/2016年)から、「情報」を得ることの重要性、企業人として培うべき「信頼関係」と「コンプライアンス」、それらの原点とも言うべき「人の和」の大切さについて触れてみたいと思う。
池波正太郎は、『真田太平記』のような歴史に材を得た傑作もあるが、その軽妙洒脱(しゃだつ)にして奥深い持ち味は江戸の下町を舞台に自由闊達に筆を進めた時代小説で遺憾なく発揮されている。シリーズものとして『鬼平犯科帳』『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』の三作品が有名であるが、中でも最もよく読まれている『鬼平犯科帳』を本稿では素材として採り上げたい。
『鬼平犯科帳』は、「鬼平」こと旗本の長谷川平蔵が主人公だが、鬼平は火付盗賊改方の御頭として辣腕を振るう。この盗賊改方は町奉行所に代わって強盗殺人を専らとする盗賊らを取り締まる幕府の組織だが、鬼平は配下の与力同心を率いて血も涙もない犯罪者たちを文字通りバッタバッタとなぎ倒していく。
このテンポの良い活劇と、そこに絡む義理人情の細やかさ、さらには風趣豊かな江戸の情景描写などが相まって、読み手をあっという間に物語世界に引き込んでしまうところが池波時代小説の真骨頂である。
「情報」の大切さ
さて、過去二回は、主に企業経営を円滑に進めるための勘所に触れてきたが、今回は企業人にとって仕事を進める上での指針となり心得ともなるところを「気づき」として紹介したい。
まず、「情報」である。鬼平に対峙する連中は、「野槌(のづち)の弥平」「血頭(ちがしら)の丹兵衛」「蛇(くちなわ)の平十郎」といずれ劣らぬ大盗賊で、数十人からの手下を率いて二、三年かけて大商人の金蔵を狙うという手の込んだ盗(つとめ)を得意とする。
狙い定めた商人の家に手下を潜り込ませて、金の在り処や家の間取り、家族構成などを下調べし、逃げ道には金箱を載せる舟を手配するといった入念な準備を行う。何よりも豊富な情報と周到な用意が盗みの成功には不可欠というわけだ。
かたやこれを取り締まる鬼平の側も、日頃から自ら市中見回りを欠かさない上に、下役のみならず元盗人を狗(いぬ)と呼ばれる密告者に仕立て、盗人宿と称する盗賊たちのアジトを探って一網打尽に捕らえようとする。双方の情報戦がこの小説の際立つ読みどころだが、盗賊たちの捕まるパターンは、急ぎ盗(ばたらき)と称して、面倒な情報入手を怠り大した準備もせずに人殺しも辞さずと押し込み、待ち受けた鬼平に捕縛されるケースが大変多く興味深い。
「情報」の大切さは、言うまでもなく現代のビジネスにそのまま当てはまる。
瓦版や高札、手紙や口伝えでしか情報を得られなかった江戸時代と異なり、現代では各種メディアやSNS(交流サイト)から多様な情報を得ることができる。一方でフェイクもある。AI(人工知能)を使えば過去のデータを用いた加工も容易だ。情報過多と呼ばれる中で必要かつ正しい情報を取捨選択することが常に求められている。
いかに正確な情報を迅速に手に入れるか
このような外部から入る情報に加えて、内部から得られる生の情報がある。取引先の信用情報は、決算資料の精査も大切だが、先方のオフィスを訪ねて、経営者や担当者と直に会話することで多くの情報が得られる。
また、社内で上がってくる情報の取り扱いも気を遣う必要がある。悪い情報こそ早く届けろと指示しても、信賞必罰を恐れて耳に心地よい情報しか上がってこないことは多い。人は誰でも自分に得になる情報を選んで伝える傾向がある。いかに正確な情報を迅速に手に入れるかは、企業人にとっては最も重要な勘所である。
鬼平に立ち返ると、鬼平と配下の下役とはもちろんのこと、元盗人の狗との間でも緊密な信頼関係が保たれている。結局、生の情報を早く正確に得るには、損得勘定を抜きにした相互の信頼関係が醸成されていることが肝である。
小房の粂八(くめはち)という元盗人が血頭の丹兵衛を島田宿に追う場面がある。鬼平は粂八が昔の親分をかばいだてするのではと一瞬疑うが、彼を信じて島田に向かわせる。同じく岩五郎という元盗人が海老坂の与兵衛一味に加わるが、決行が延びるとすぐ密告に走る。これは平蔵配下の佐嶋与力の規律に服した結果でもあるが、信頼関係が生んだ成果とも言える。大盗賊の方も「配下を信じること鉄のごとし」として結束良く盗みを企てるが、こちらはもろくも部下に裏切られる。
結局、情報流通はチームワークの優れた組織があってこそ成立するが、その根源は規律(ガバナンス)の効いた信頼関係にあり、さらに大義(コンプライアンス)は損得より重要だと池波正太郎は鬼平を介して語っているように思う。
根底には馴れ合いではない「人の和」
さて、ガバナンスとコンプライアンスについてだが、鬼平は極悪人に対しては情を挟まず厳正に対処し、やむを得ず悪事に手を染めた善人には情を持って接している。ただし池波の筆致は基本的に非情である。鬼平が警察組織のトップゆえに自ら範を示すという事情はあるが、犯罪者と親しくなり過ぎた下役は自ら死を選び、悪事に再び加担しかけた元盗人は昔の仲間に殺され、スリルを味わう快感に目覚めた女掏摸(すり)は容赦なく捕縛されている。
従来は寛容に情理を説いた企業側も、今やルール違反に厳格な組織風土へと変革を迫られている。法令違反やハラスメントへの対応、内部通報制度の充実などが求められている昨今、その意味でも鬼平は企業人に対して警鐘を鳴らしていると読むことができる。
もっとも、「和を以て貴しとなす」という企業文化を一概に否定するものではない。鬼平が説く信頼関係に基づく円滑なコミュニケーションを可能にする組織の根底には「人の和」がある。ただ、それが馴れ合いではなく高度な目的意識と倫理観を持った集団ということになると、藤沢周平の描いた上杉鷹山率いる米沢藩や、司馬遼太郎が活写した日本海海戦に臨む連合艦隊司令部の緊張と躍動に通じるものがある。結局、情熱を抱く人々のチームワーク、それを束ねるリーダーが引き寄せる幸運がビジネスで成功する鍵ということかもしれない。
人生の妙味と渋味を行間に垣間見させる
さて、鬼平の魅力をビジネスから紐解(ひもと)くのはいささか無粋なことで、本所・源兵衛橋の北詰にある蕎麦屋で貝柱のかき揚げそばに舌鼓を打つ鬼平が、もしこれを耳にしたら、厳しく叱られること間違いなしである。しかしながら、鬼平のような市井の人情の機微を扱った江戸情緒あふれる時代小説にも、企業人として学ぶことはさまざまにあると深く感じた次第である。
池波正太郎の小説は、リズミカルかつ軽快に物語が進展していくのが心地よいが、併せて注目すべきは人生の妙味と渋味を行間に垣間見させて、愉快な中に深く考えさせられる点が多いことである。鬼平などの作品が、単なる娯楽小説にとどまらず、これほど多くの読者に親しまれているのは、やはりその登場人物の人間性と作者の慈愛に満ちた筆遣いに読み手は心惹かれるからだと思う。
私もこれら大家の小説を今一度目にして、人々の喜怒哀楽が深い人間洞察に裏打ちされて生き生きと描出されていることに改めて感銘を受けた。時代小説を書く者として研鑽(けんさん)を重ね、悲喜こもごもあるもののやはり生きていてよかったと思えるような、そんな優しく心を温める物語を紡いでいければと願っている。
写真/スタジオキャスパー
辻原登、髙樹のぶ子、角田光代の選考委員3氏の全会一致で選出された第15回日経小説大賞受賞作は、江戸時代後期の奥州を舞台に繰り広げられる極上の歴史ミステリー。
山本貴之著/日本経済新聞出版/1870円(税込み)


