「言い方を工夫してみたり、何度も繰り返したりしても、相手にうまく伝わらなかった」「何かを依頼して、『分かった』と言われたのに結局、依頼通りに実行されなかった」「言った・聞いていないで押し問答になって、どちらが正しいか分からなくなった」という経験はありませんか? こうしたコミュニケーションの齟齬(そご)の裏側には、認知科学的な問題が関わっている可能性があります。「新書大賞2024」で大賞を受賞した『言語の本質』(中公新書)の著者で認知科学者の今井むつみさんの新刊『「何回説明しても伝わらない」はなぜ起こるのか? 認知科学が教えるコミュニケーションの本質と解決策』(日経BP)から、齟齬の原因となりがちな人間の記憶力の特徴について紹介します。1回目は、「目の前で起こった出来事を、私たちはどれほど正しく認識し、記憶できるのか」についてです。

「突然の事件」はどのくらい記憶に残るのか

 人間の記憶は、私たちが想像する以上に脆弱(ぜいじゃく)です。観察したり、復唱したり、書き写したりしただけでは、ほとんど記憶に残りません。注意を払わずに情報を見たり読んだり聞いたりすると、多くの場合、情報を誤って覚えてしまうことになります。
 このことを明らかにしたカリフォルニア大学アーバイン校のエリザベス・ロフタス教授による実験をご紹介しましょう。

 実験の舞台は、普段学生たちが授業を受けている大学の教室です。その日、学生たちはいつも通りに教室に集まり、ロフタス教授の講義を受けていました。

 するとおもむろに、後ろの席に座っていた男が立ち上がり、数席前に座っていた女子学生のカバンをひったくるように取って、教室から出て、逃走していきます。その男が立ち上がってから完全に姿が見えなくなるまでは、ほんの数秒間の出来事でした。

 カバンを盗られた女子学生も含め誰もが、カバンを取り返したり男を拘束したりすることができなかったばかりでなく、身動きひとつ取れませんでした。

 カバンを盗られ唖然(あぜん)とする女子学生と周りの学生たちに、ロフタス教授が尋ねます。
教授「何が起きましたか?」
女子学生「バッグを盗まれました。まったく注意していなかったので、何も覚えていません。髪の短い男がバッグを盗って逃げた。それしか覚えていません」

 続けて、女子学生の隣に座っていた学生Aを皮切りに、周囲の学生たちが「自分が見たこと」を話し始めます。

学生A「茶色のジャケットの男でした」
学生B「赤いジャケットだったと思うな」
学生C「短髪で、茶色の髪。たぶん20代の男だった」
学生D「僕も20 代だったと思う。髪はグレーかな。はっきりしないけど……」
学生E「黒いジーンズで、茶色のジャケットの男だったよ」
学生F「背が高くて短い髪、そしてヒゲがあったと思う。私は全身より、顔を覚えているわ。メガネをかけていたかも」
学生A「そう言われると、ヒゲがあった気がする。みんなの話で思い出した。ヒゲはあった」
学生D「きれいにそったヒゲだったね。全体ではなく、前のほうだけ」

突然起こった事件の犯人を、どれだけ「正しく」覚えているだろうか
突然起こった事件の犯人を、どれだけ「正しく」覚えているだろうか
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 犯人のだいたいの容貌が分かったところで、教授は3人の容疑者を教室に招き入れます。ジーンズに茶色のジャケット、ヒゲがあり、身長は皆同じくらいです。

学生A「3番だと思う。3番みたいなヒゲだった」

 3番に意見が集中したあと、バッグを盗られた張本人である女子学生が、
「2番だと思う」
 と言います。2番か3番かと話が進んだところで、教室にもう1人、男性が入ってきました。背が低く、ヒゲのない男です。
女子学生「彼です! 見た瞬間に思い出しました!」

 そう、最初に教室に入ってきた、3人のヒゲの生えた男性たちは、バッグを盗った人ではありませんでした。犯人に、ヒゲなど生えていなかったのです。

「記憶の中の犯人」は、まったく別人!?
「記憶の中の犯人」は、まったく別人!?
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「記憶のすり替え」は至るところで起きている

 学生たちは皆、犯人の横顔や後ろ姿を見ていました。そしてそれぞれが「自分が見た人はこういう人だ」ということを話し始めたときに、ある学生(ここでは学生F)が自信を持って、「ヒゲがあった」と証言しました。

 この学生Fは実は、事前にロフタス教授から実験内容を知らされた上で発言を依頼された「サクラ」だったのです。

 サクラの学生の「ヒゲがあった」という証言に学生A(サクラではない)が同調し、「ヒゲがあった」とすぐさま発言しています。
 それをきっかけに、クラス全体として「ヒゲの男性」というイメージがつくられていきました。カバンを盗られた女子学生もまた、犯人を間近で見たにもかかわらず、クラス全体の話し合いにつられて、「犯人にはヒゲがある」と信じ込んでしまいました。

 たった1人紛れ込んだサクラが発した「ヒゲ」という嘘の情報を、複数の学生が「自分も見た」と言い始め、そして、その情報をもとに容疑者が絞り込まれていってしまったのです。つまり、サクラの学生の「ヒゲがあった」という発言によって、皆に対して「記憶のすり替え」が起こってしまったのです。

 ちなみにサクラの学生に即座に同意した学生Aは、犯人が分かったあとでも、
「彼は再度教室に入る前に、ヒゲをそってきたんだよ! (カバンを盗って逃げたときには)ヒゲはあったと思うけど……」
 と言うほどでした。

 もし、本当の犯人が女子学生の前に現れなかったとしたら?
 2番か3番の男性が「犯人」とされていたはずです。なぜなら被害者も目撃者も全員が、「ヒゲがある高身長の男性が犯人」だと証言し、その条件に合う男性から犯人を選び出そうとしているのですから。

 ロフタス教授は、
「記憶とは大きなボウルになみなみ入った水に垂らした、1滴のミルクのようなもの」
 と表現しています。一度垂らしてしまえば、もう二度と水とミルクを分離することはできません。同様に、頭に入った記憶の内容も、想像や偽りと事実とを分けることはできないのです。

 たとえ嘘をつくつもりがなくても、誰かの発言や自分の願望、感情、そして自身のスキーマによって、記憶は影響を受け、あなたにとっての「事実」がいつの間にかつくり上げられてしまいます。その「事実」は簡単に周囲の人に共有され、元の形には戻らないということも珍しくはないのです。

(写真:Northern life/stock.adobe.com)
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「うまく伝わらない」という悩みの多くは、「言い方を工夫しましょう」「言い換えてみましょう」「分かってもらえるまで何度も繰り返し説明しましょう」では解決しません。人は、自分の都合がいいように、いかようにも誤解する生き物です。では、都合よく誤解されないためにどうするか? 自分の考えを“正しく伝える”方法は? 「伝えること」「分かり合うこと」を真面目に考え、実践したい人のための1冊です。

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