自分の子どもには甘いという親に代わって、これまで厳しく育ててくれたのは共同体であり、学校だった。しかし、共同体がその役割を果たさなくなり、学校も叱ることに躊躇(ちゅうちょ)するようになった今、「叱咤激励」する大人はほぼ皆無となった。職場でも、上司や先輩が叱ることを避けるようになった現実がある。新刊『じつは残酷な「ほめ育て社会」』(日経プレミアシリーズ)より抜粋・再構成して紹介します。
甘い親に代わって他人が鍛えてくれた
日本の親が子どもに甘く、なかなか厳しく育てることができないため、それを補っていたのが共同体であり、共同体が子どもを一人前にするために厳しく鍛える機能を担っていたことは、拙著『ほめると子どもはダメになる』(新潮新書)において指摘した。
日本の近世においては、子どもは家の子どもとしてのみならず、共同体の子どもとしても育てられた。共同体の子育てを担っていたのが、子ども組や若者組である。
子ども組は、子どもの社会化機能を担うもので、7歳から15歳までの少年によって構成される自治的な組織であった。男子は15歳、女子は13歳になり成年式を行うと、若者組・娘組に入った。若者組に入ると、厳しい戒律を守りながら社会的役割を担うようになるというのが一般的であり、その加入のために厳しい試練を課す儀式が執り行われることもあった。
子ども組では、異年齢の子どもたちが協同してさまざまな行事を行うことを通して、やがて組み込まれていく社会に適応するのに必要な社会性を身につけていった。
このような共同体が一人前の社会人になれるように子どもや若者を鍛えるということは、近世ばかりでなく、明治時代になってからも行われていた。学校教育が制度化され、教育・しつけ機能を学校が担うようになっても、地域社会によるしつけが根強く機能していた。
教育学者の佐野茂は、庶民家庭に育った明治・大正生まれの年配者に物心つき始めた頃から小学校卒業頃までのことについて回想してもらうという調査により、明治後半から昭和初期あたりのしつけについて尋ねている。それを見ると、当時はしつけは地域と学校が担っており、親の影は薄かったことがわかる。回答にはつぎのようなものがあった。
「家族というよりも地域からで、とにかく家よりも十倍も二十倍も厳しかった」
「学校も厳しく父母はノータッチで先生の言われるとおり実践していた」
「全て学校任せだったと思う。こころがけての家庭のしつけというものは記憶にない」
「家族の人からというよりも、学校、地域の人から言われたと思う」
「家庭でというよりも青年会なんかによくしぼられた」
「学校、若衆連中でいろいろ厳しく注意ごととかを言われたが、家で何かとりたててという記憶はない」
「特段家庭においてしつけというものはなかったと思う」
「おそらく地域全体からいつのまにか社会のルールを学んでいた気がする」
「家庭からいろいろと学んだという意識はないのだが」
「しつけは学校でされたと記憶している」(佐野茂「明治期後半、大正、昭和初期の庶民階層における家庭の教育に関する一考察―年長者からの聞き書き調査による『一家団欒』の考証―」梅光女学院大学論集26)
今や鍛えてくれる存在は見当たらない
やがて都市への人口流入と移動性社会の進展により、共同体は崩壊し、子どもや若者を教育する機能は学校が引き受けることとなった。私が子どもの頃は、すでに共同体はほとんど機能しなくなっており、親たちはひたすら学校の先生に頼っていた。親自身が厳しくできないため、厳しく鍛える機能を先生に担ってもらおうとした。
ところが、1990年代になると「ほめて育てる」といった教育思想が広まり、親たちが子どもに対してますます甘くなった上に、学校のサービス産業化やモンスターペアレントの登場により、学校の先生も生徒を厳しく鍛えることができなくなった。
かつては「先生、ウチの子をビシビシ鍛えてやってください」と先生に頼っていた親たちが、「親でも叱ったりしないのに、先生が叱って子どもの気持ちを傷つけるとは何事ですか!」などと先生にクレームをつけるようになってきたのである。
そこで、学校の先生も、父性原理=厳しく鍛える機能を発揮することができなくなった。共同体の教育機能は失われ、親も先生も母性原理=やさしく包み守る機能を発揮するばかりとなると、子どもが将来社会の厳しい荒波を乗り越えていけるように鍛える機能をだれが担うのだろうか。厳しく鍛える機能を発揮する大人はだれもいなくなったというのが現状と言わざるを得ない。
外圧によって自己改善できた時代は終わったか
私は厳しい社会を前向きに生き抜いていくには自己コントロール力が重要となること、それにもかかわらず、このところそれが低い子どもや若者が目立つようになっていることを指摘している。
それには「ほめ育て社会」で育つことが深く関係しており、ほめるばかりで厳しいことを言ったり注意したりしてもらえないため、メタ認知(編集部注:自分を俯瞰する能力)がうまく機能しなくなっているのではないかと考えられる。
そのため、自分自身の現状や課題を正確につかめず、あるべき方向に向けて自己改善していけないのだ。
足りない点やまずい点があっても、傷つけてはいけないといった思いに縛られ、周囲からはっきり指摘してもらえない。ほめないといけないといった文化的圧力が強く、改善に向けて叱咤激励するということがほとんどみられなくなっている。
社会的に望ましい性質を身につけさせるため、あるいは勉強でも仕事でも力をつけさせるため、未熟な点や改善すべき点をはっきり指摘し、厳しく鍛えてもらえる時代であれば、とくに自己コントロール力が高くなくても、周囲からの教育的指導によって、いわば外圧によって、自己改善の方向に進むことができた。そうせざるを得なかった。ゆえに、きっかけは仕方なくではあっても、成長していくことができた。
しかし、今のような「ほめ育て社会」においては、そうした外圧が働かないため、本人自身の中から意欲が湧いてくるモチベーションが元々高い人、そして自分で自分をモニターして改善していけるメタ認知が自然に機能している人、さらにラクなほうに流されず誘惑に負けず自己改善や能力向上に向けて衝動を適切にコントロールできる人でないと、なかなか成長していけない。
そう考えてみると、「ほめ育て社会」というのは、やさしい社会だと思われがちだが、じつは非常に過酷な社会だと言わざるを得ない。
榎本博明著/日本経済新聞出版/990円(税込み)

