働く女性に支持され続けている『日経ウーマン』で、27年も続く連載「妹たちへ」。キャリアに迷い、人生これでいいのかと悩む女性たちから圧倒的な支持を得てきました。その名物連載が、15年ぶりに単行本『 一歩が踏み出せなかった私へ 』として登場。雑誌掲載当時の語りを1冊にまとめた、20人の“姉”からのエール集です。今回はコラムニスト、ラジオパーソナリティーのジェーン・スーさん編の第3回。50代に向けて、今までのやり方を見つめ直します。(本連載は、書籍『一歩が踏み出せなかった私へ』に収録されている内容の一部を抜粋してお届けします)

ジェーン・スー
1973年東京生まれの日本人。TBSラジオ『ジェーン・スー 生活は踊る』(毎週月~木曜 午前11時~)のメインパーソナリティを担当。ポッドキャスト「となりの雑談」(毎週火曜20:00配信)のパーソナリティも担当している。『貴様いつまで女子でいるつもりだ問題』(幻冬舎)で、第31回・講談社エッセイ賞を受賞。近著に『きれいになりたい気がしてきた』(光文社)、『おつかれ、今日の私。』(マガジンハウス)、『闘いの庭 咲く女 彼女がそこにいる理由』(文芸春秋社)。

 10代の自分には「みんなとは違う、はみ出す自分に誇りを持って!」と、20代の自分には「女であることや学歴に尻込みせず、自分にもっと自信を持って!」と声を掛けてあげたかった。では、30代の私には? 「いいよ、その調子!」と、私は拍手を送りたい。

 30代の私はフラフラしていた。これが私の人生を良い方向に進めるのに功を奏したと思う。31歳で2社目の会社を退職し、半年間なんにもしなかった。毎日ずっと、朝から晩までパジャマ。CSで放送されていた海外ドラマを見ることだけが楽しみで、とにかくぐうたらしていたのだ。同棲していた男には、あきれられたのか、後々逃げられることになるのだけれど。

 なぜぐうたらしていたかといえば、働くことに疲れてしまったから。20代で、少しがむしゃらにやりすぎたのかもしれない。周囲が結婚だ、妊娠だとおめでたい話に湧くなか、私は「そういうことも考えねばならないね」と思いながら、いろいろとやり過ごしていた。

 半年休むと、ようやく勤労意欲が湧いてきた。過去に音楽業界で培ったノウハウが、他の業界でも生きるのか確かめたくなった。異業種転職するなら最後のチャンスだろうと、友人の紹介で眼鏡業界のベンチャー企業に飛び込んだ。ちなみにこの時期、外資系のヘッドハンティング会社に何社か登録したが、面接まではたどり着くものの、採用通知は1通も届かなかった。

 採用はされなかったが、この転職活動から学ぶことは多かった。例えば履歴書の書き方。外資系企業向けに英語のレジュメを書くのだが、自分がやってきた実績を噓のない範囲でちゃんと主張できないと、どうにもならない。

 私なんか一生懸命働いてきただけで、ちょっとは役に立ったかもしれないけれど、何ひとつ達成などしていないと思っていた。すると、謙遜じみた話しかできない私に業を煮やした、バリバリの外資系金融会社で働く友人の夫が、レジュメ書きを手伝ってくれたのだ。

 正確な数字は忘れてしまったが、前作のアルバムが3万枚の売り上げだったアーティストを担当し、宣伝や打ち出し方法をいろいろと工夫して、次作を10万枚売り上げたことがあった。それまでの私は、職務経歴を記す欄に、「担当アーティストのアルバム売り上げが、3万枚から10万枚に」とだけ書いていた。面接で尋ねられれば、「とはいえ、プロジェクトには多数のスタッフが参加していましたし、私は楽曲を制作したわけでもないですし、みんなで達成したものです」とかなんとか言った。そういう控えめな態度が好まれると思い込んでいたのだ。

 私の「控えめ」な記述に、友人の夫はしかめっ面でこう言った。「ねえ、これでは何も伝わらないし、採用したいとは思わないよ」と。ごもっとも。

 彼が私に教えてくれたやり方はこうだ。まず、担当アーティストの売り上げ実績を、枚数ではなく金額で記す。加えて、伸び率をパーセンテージで記す。「担当アーティストのアルバム売り上げが3万枚から10万枚になりました」というぼんやりした私の記述は、「担当アーティストのアルバム売り上げを9600万円から3億2000万円に、303パーセントアップ」に生まれ変わった。すごい、噓は1つもないのに、ものすごくできる人みたい。

 この履歴書があったから、ベンチャー企業は未経験の私を採用してくれたのだろう。「そんなふうに書いて、入ってから期待されすぎて困らない?」と不安に思ったあなた、大丈夫です。噓がない範囲で書いたことならば、あなたはそれを実際に達成しているのだから。転職活動において、控えめな態度はほとんど役に立たない。

(写真:Quang/stock.adobe.com)
(写真:Quang/stock.adobe.com)

 眼鏡業界で3年働き、デザインコンセプトの川上から、店頭ディスプレイや販促という川下まで、一貫して仕事に携わる醍醐味を覚えた。これは大企業では絶対に学べなかったこと。過去の仕事に比べて規則的な時間で働けたので、俗にいうアフター5をエンジョイする楽しさも知った。

 ちょうどSNSのミクシィが流行り始めた頃で、毎日飽きもせずに長い日記を書いた。このときのハンドルネームが「ジェーン・スー」。運営するコミュニティーや日記を見た雑誌編集者から、コラムの執筆を頼まれることもあった。文章を書くなんてやりたいと思ったこともない仕事だったが、楽しそうだったのでやってみた。連載をもらったこともあったが、言われた通りに書いたら1年で終了した。言われた通りにやっていいことなし、を学んだ。

 ベンチャー企業を退職し、今度は父親の自営業を手伝うことにした。なんて無計画なんだと自分でもあきれてしまう。私は35歳になっていた。半分は親にだまされたようなもので、借金のない会社ではあったが、売り上げもなかった。給料の手取り額は13万円とちょっと。実家に戻り住居の心配はしなくてもいいとはいえ、これはかなり厳しい。貯蓄はあったものの、経営が厳しくなり、私の貯金から毎月30万円くらいを会社に入れていた時期もある。仕事面における暗黒期といえるが、勉強にもなった。給料って、誰かが稼いでこないと払えないものなのだ。

 会社員時代、頑張りが給料に反映されないことを不満に思ったこともあったが、とんでもなく甘ちゃんだったと思い知らされた。家業は楽しいとはいえない仕事だったが、これまた人生何が起こるか分からないもの。新卒で入った会社の同僚から、立ち上げた音楽制作会社が忙しくなってきたので、手伝ってほしいと声を掛けられた。私はそれほど忙しくなかったので、副業として手伝い始めることにした。

 ここが大きなターニングポイントだ。手伝いの一環でアイドルのプロデュースに携わるようになり、作詞を始めた。これもやったことのない仕事だったが、信用できる人が「できるよ」と言ってくれたので鵜呑みにすることにした。それが結果的に幸運を呼んできてくれたので、以来、信頼できる相手からの無茶ぶりとも思える依頼は受けるようにしている。信用していない相手からの誘いは一切受けないけれど。

 アイドルのプロデュースに関わるならば、プロデューサーだと名乗っていいと元同僚に言われ、こそばゆい気持ちのまま名乗ることにした。レジュメ書きを手伝ってくれた友人の夫のアドバイスに近いと思ったから。すると、今度はラジオの出演を依頼され、楽しそうだったので受けた。中途半端に終わってしまった書く仕事を再開したいと思ったが依頼が来なかったので、ブログを始めた。最初の本を出版したのが40歳。そこから流れ流れてここにたどり着く。

 30代の私が、ずっとフラフラしていたおかげだ。以来、「30代半ばを過ぎたら、やりたいことより得意なこと」をモットーにしている。得意なことは他人が勝手に見つけてくれる。40代も残すところあとわずかとなり、次の課題も見えてきた。得意なことばかりやっていたら、やりたいことが分からなくなってしまったのだ。それはそれで、少し悲しい。50代は、やりたいことを探してトライする10年になるのかもしれない。

[本連載は、書籍『一歩が踏み出せなかった私へ』に収録されている内容の一部を抜粋してお届けします]
働く女性に支持され続けている『日経ウーマン』で、27年も続く連載「妹たちへ」。キャリアに迷い、人生これでいいのかと悩む女性たちから圧倒的な支持を得てきました。その名物連載が15年ぶりに単行本として登場。雑誌掲載当時の語りを1冊にまとめた、20人の“姉”からのエール集です。

日経WOMAN編集部編/日経BP/1980円(税込み)