働く女性に支持され続けている『日経ウーマン』で、27年も続く連載「妹たちへ」。キャリアに迷い、人生これでいいのかと悩む女性たちから圧倒的な支持を得てきました。その名物連載が、15年ぶりに単行本『 一歩が踏み出せなかった私へ 』として登場。雑誌掲載当時の語りを1冊にまとめた、20人の“姉”からのエール集です。今回は村木厚子さんの回をお届けします。
(本連載は、書籍『一歩が踏み出せなかった私へ』に収録されている内容の一部を抜粋してお届けします)

10代の頃から、「ずっと仕事を続けたい」と思っていた

 3月11日東日本大震災のその日、私は内閣府が主催する「企業参加の子育て支援事業全国会議」に出席していました。各地から集まった約150人の参加者にあいさつを終え、壇上から下りた瞬間、大きな揺れを感じました。結局この会議は私のあいさつ直後、開始5分ほどで中止となり、会場は避難待機場所となりました。

 今回の震災の規模や被害の深刻さは私たちが経験したことのないものです。政府も阪神・淡路や新潟の地震の時の経験を生かしながら一生懸命やっていますが、支援の手が十分に追いつかないところもあり、忸怩たる思いです。公務員として、個人として何ができるか、突き付けられた課題の大きさに、自分の力の足りなさを感じています。

 公務員として働き30年余が経ちます。学生時代の私は、将来、普通に仕事をして、結婚をして、子育てをすること。それが理想でした。

 高知県で生まれ育ち、地元の大学で経済学を学びました。二人姉妹の長女ということもあって、就職も地元でと考えていたので、上京は予定外。ですが、私が大学を卒業した昭和53年は、男女雇用機会均等法が施行されるずっと前。高知県の民間企業で4年制大学卒の女性の求人は皆無でした。

 10代の頃から、「ずっと仕事を続けたい」と思っていました。何かキッカケがあったわけではないのですが、自然と「大人になったら自分の収入で生活していくべきだ」と考えていたのです。私にとって生涯働くことは当たり前の選択。ですから、結婚や出産で辞めずに済む職場で仕事をしようと考えたのです。自然と「公務員」が第一候補となり、地方公務員と国家公務員試験を受けました。

 ありがたいことに、いずれの試験にも合格。地元勤務を希望していたので、第一候補の高知県庁へ面接に行きました。すると面接官の方が「県庁の女性職員の仕事はね」と、〝女性はこういう仕事をするのだ〞といったような説明を始めたのです。庶務的な仕事に終始する内容に、「ここで長く働くことは難しいかもしれない」と感じました。その頃、労働行政を管轄していた労働省(当時)は、女性の労働問題を扱っていたこともあり、毎年、女性を数人採用していました。私は父が社会保険労務士で労働関係のことは身近に感じていたので、労働省へ入省を希望し、幸いにも内定をいただくことができました。当時、約800人いた新人の第Ⅰ種国家公務員研修生のうち、女性はたった22人でした。

(写真/Marius/stock.adobe.com)
(写真/Marius/stock.adobe.com)

 「やれることはなんでもやります!」という覚悟で一人上京、見知らぬ土地で、初めてのひとり暮らし。社会人1年目は、取り柄といえば、元気と体力だけです。「あなたは女性だから〝お茶汲み〞をやってもらうことになりました」。上司からそう話があったのは、入省してすぐのこと。キャリアとして入省した私にお茶汲みをさせるかについて、部内で大激論になったそうです。男性と同じ条件で入省したのに、女性だからという理由でお茶汲みをするのはおかしいとも思いましたが、1年目の私に闘う勇気はありません。新米の私はできる仕事もないのだからと、毎朝、20数人分のお茶汲みを始めました。やってみると、ひとりひとりと会話ができたり、朝一番で出勤してお茶汲みをし、夜遅くまで残業していると「頑張っているね」と声をかけてくださる方が増えたり、よい面もありました。ただ今でも、あの時「女性だからという理由でお茶を入れるのはおかしい」と闘うべきだったのか、悩みますが、結果的には、あの時拒まずにやったことが自分にはプラスだったとも思うのです。

 夫は労働省の同期。勉強会や飲み会で毎週一緒になる中で、親友のような存在でした。「老後、この人が茶飲み友達だったらいいな」と思い立って、26歳で結婚しました。夫は家事育児にも協力的。野菜炒め、チャーハンに始まり、シャリアピンステーキ、最近はパエリアもマスターするなど、料理も作ってくれます。

 20代は、仕事での失敗は数知れません。入省1年目のときに、大臣の国会答弁を清書し、コピーをして大量の資料を作り終えた直後、「経済社会7カ年計画」と書くところ、誤って「70年計画」と清書したことに気付いたこともありました。慌てて先輩職員に謝って回り、いろいろな人に手伝ってもらいながら夜中に資料を一から作り直したことは、今でも鮮明に覚えています。そんな恥ずかしい思い出は、枚挙にいとまがありません。

 失敗を繰り返すうちに分かったことは、悩みもつらさも「一晩寝ると少しやわらぐ」ということ。今も、考えても答えが出ない時は、ひとまず寝るようにしています。

 異動や転勤が多く、自分の仕事の意味をつかめず悩んだ時期もありました。労働省入省1年目は、公共職業安定所を所管する部署で就職問題に携わり、2年目は転勤して兵庫県の労働基準局で現場見習いを。3年目は東京に戻り、労働基準局で労働時間短縮に関わる業務、4年目は外務省に出向し、国連担当として女性や障害者などの問題に取り組む委員会を2年間担当しました。その後、労働省の統計情報部で調査を担当と、ほぼ1年ごとの異動・転勤が続いたのです。公務員の常とはいえ、非常に戸惑いがありました。どの業務も慣れたころに異動。極められず、仕事の全体像も見えませんでした。でも30歳を過ぎた頃、一見関係なく見える、それまでの仕事や人間関係が、ふと、つながったのです。自分がやってきたことは「働きがいと、働きやすさの実現」という共通点があるということも見えた。点が面になった瞬間でした。

 大学時代に教授が「仕事をする上での射程距離は、経験した仕事の数と、最も深くかかわった仕事の経験年数の掛け算で決まる」という話をしてくれたことがあります。Aの仕事を1年、Bの仕事を2年、Cの仕事を3年やった場合、AからCという異なる3つの仕事を経験した数と、Cの仕事を3年分こなしたという経験年数、2つを掛けて出た面積が、射程距離、すなわち、次に仕事を与えられた時にそれをこなせる能力がついている範囲というわけです。例えば一つの業務に何年も携わり専門性を高めても、面で見ると広さは限られます。経験した仕事が多く、その中の一つでも深く携わることができれば、できる仕事の範囲は広くなる――。自分の仕事を振り返ると、その通りだと思います。何も極められていない自分に焦っていましたが、仕事は「広く浅く、時々深く」で大丈夫なのだと腑に落ちました。

 専門職志向の人も、チャンスがあればぜひ、別の分野にも挑戦してほしいと思います。仕事のみならず、出産・育児や介護、地域活動と、広がりはもてるはずです。以前、銀行の人事担当者から、同じ窓口業務でも、支店間で異動しただけで、成長すると聞きました。女性は異動を嫌がる人が多いと聞きます。しかし、話があれば、可能な限りチャレンジして仕事の幅を広げることをお勧めします。同時に「昇進」も、ぜひ受けてほしいと思います。自分の実力は伸びていなくても、階段を1段上がれば、遠くが見える。視野が広がると、考え方、仕事のやり方も変わります。この経験は、仕事で成長するためにとても有効なのです。

[本連載は、書籍『一歩が踏み出せなかった私へ』に収録されている内容の一部を抜粋してお届けします]

取材・文/松田亜子

働く女性に支持され続けている『日経ウーマン』で、27年も続く連載「妹たちへ」。キャリアに迷い、人生これでいいのかと悩む女性たちから圧倒的な支持を得てきました。その名物連載が15年ぶりに単行本として登場。雑誌掲載当時の語りを1冊にまとめた、20人の“姉”からのエール集です。

日経WOMAN編集部編/日経BP/1980円(税込み)