働く女性に支持され続けている『日経ウーマン』で、27年も続く連載「妹たちへ」。キャリアに迷い、人生これでいいのかと悩む女性たちから圧倒的な支持を得てきました。その名物連載が、15年ぶりに単行本『 一歩が踏み出せなかった私へ 』として登場。雑誌掲載当時の語りを1冊にまとめた、20人の“姉”からのエール集です。今回は女優・草刈民代さん編の第1回。小学校2年生のとき、フィギュアスケートのジャネット・リン選手の生き生きとした競技を見て「バレエがやりたい!」という思いに駆られます。飽きっぽく物事が続かなかった少女が突然、プロの踊り手になると決意。高校を1年生で中退し、バレエ一筋の日々が始まります。 (本連載は、書籍『一歩が踏み出せなかった私へ』に収録されている内容の一部を抜粋してお届けします)

草刈 民代 くさかり・たみよ
俳優
1965年東京都生まれ。8歳でバレエを始め、16歳で牧阿佐美バレエ団に入団。以降、同バレエ団の主役を多く務める。海外のバレエ団のゲスト出演も多く、現代バレエの巨匠、ローラン・プティ作品には欠かせない存在に。96年に映画『Shall we ダンス?』で映画初主演し、日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞。同作の監督・周防正行氏と結婚。2009年にバレリーナを引退、女優に転身。2017年公開の『月と雷』に出演。

気分屋の問題児、小2で突然「バレエをやりたい」

 44歳でバレリーナを引退し、女優に転身して8年。映画『月と雷』では、行きずりの男の家を転々とする酒浸りの女性を演じています。これまでと全く違う役を演じる上で意識したのは、普段の私をイメージさせないこと。背筋を伸ばさず「丹田がない」イメージで歩くなど、私の〝普通〞を徹底的に排除することで、新しい芝居の扉を開けた気がしています。

 映画ではダメな女性を演じましたが、子どもの頃の私も、かなりダメな子でした。気分屋で、なんでもやりっぱなし、出しっぱなし。片づけなど当たり前のことができないくせに、負けず嫌いで、母に小言を言われると反発する。協調性がなく、学校では集団行動が苦手。教室に貼り出される「忘れ物をした人リスト」では常にクラスのトップなのに、親に叱られても、「忘れちゃうんだから仕方がない」と気にしない。興味がないことは一切せず、かといって、没頭できる何かがあるわけでもない。3人姉妹の長女ながら、厄介な子でした。
 そんな私が、「バレエをやりたい」と突然に、でも確固たる思いを抱いたのは、小学校2年生のときのこと。きっかけは、1972年札幌オリンピックで、フィギュアスケートのジャネット・リン選手の競技を見たことでした。「銀盤の妖精」と呼ばれて大人気だった彼女の、氷上での生き生きとした姿に心引かれました。でも、やりたいと思ったのはバレエだったのです。

 通っていた幼稚園では、週に1度バレエ教室が開かれていました。それがとても楽しそうで、母に頼んで年長のときに習い始めたのですが、稽古内容は母に言わせると「お遊戯」。結局、数カ月でやめさせられていました。

 ジャネット・リンのスケートを今見返すと、バレエの端正な雰囲気が感じられます。そういう部分も含めて、私のなかで彼女の踊りとバレエとがつながったのかもしれません。

 いつもなら、すぐ母親に「やりたい!」と言うところですが、渋々続けていたピアノ以外、何ひとつ続けられず中途半端な私は、自分の「やりたい」に、親からの信用がないことを分かっていました。バレエへの気持ちが真剣だということを分かってもらわなくては――。しばらくして、意を決して母に相談すると、すんなり学校近くの「小林紀子バレエアカデミー教室」に入れてくれました。飽きっぽい私が1つのことを2回も「やりたい」と言うのは初めてでしたから、母も私の本気を感じてくれたようです。

 初めての稽古の日。レオタード姿でバーにつかまり、見よう見まねで1番のポジション(両足をつけ、つま先と膝を開く基本的な立ち方)をとったときの喜びといったら!「〝踊る人〞になれる」といううれしさでいっぱいでした。

 その当時から、「将来は踊りのプロになる」という思いがありました。お稽古事としてバレエを習う子もクラスにいましたが、「プロを目指す私は、皆とは違う」という強い自負がありました。主人公がバレリーナを目指す少女漫画が流行っても、「漫画のような夢物語でやってはいない、私は本気」と読まなかった(笑)。子供ながら、プロ意識だけは筋金入りでした。

 ある日、〝20世紀最高のバレリーナ〞と称されたマイヤ・プリセツカヤの代表作『瀕死の白鳥』をテレビで見ました。命が消えゆく白鳥の表現力に圧倒されました。また、プリマバレリーナとして世界で活躍されていた森下洋子さんの『ドン・キホーテ』では、最後の見せ場であるグラン・フェッテ(32回転)の正確さにも衝撃を受けました。あんなふうに、見る人を圧倒するバレリーナになりたい――。理想の高みに到達したい想いでいっぱいでした。

 バレエは、表現力や踊りの個性を見てもらうまでに、身体的な〝見た目〞でふるいにかけられる部分も多いシビアな世界。身長、顔の大きさから足の形まで、体の特徴の隅々まで比較の目にさらされ続けます。私は体格的には恵まれていたほうでしたが、常に比べられるつらさが多々ありました。そんな厳しい世界で稽古に打ち込むなかで、何事も続けられない人間なのだという自分への自信のなさは、次第に解消されていったようです。

 好きなことには過剰なエネルギーを費やす性格。週1回だった稽古も、5年生の頃には毎日通うように。初舞台もちょうどその頃。

 中学生になると、元バレリーナで振付師の牧阿佐美さんが校長を務める橘バレエ学校に入門。他の子たちよりも上手に踊りたい一心でバレエにのめり込む一方、中学校生活はとても窮屈に感じていました。学校が終わると電車に40分間乗って教室に通い、2時間近く稽古。発表会前になると、家に帰り着くのは23時を回ることも。毎日くたくたで、学校では常に疲れていました。加えて、通っていた私立の一貫校の校風にもなじめなかった。「バレエでプロを目指す私に、学校はなんの意味があるのだろう」と疑問に感じるようになりました。見かねた親が牧先生に相談すると、先生は「本気でバレエをやるなら私が引き受けます」と言ってくださって。「バレエ一筋にしてみるか?」と親が言ってくれたときは夢のようで、高校を1カ月で中退しました。

 バレエだけに集中できる環境はうれしい半面、私にはバレエしかないというプレッシャーも生まれました。16歳で牧阿佐美バレエ団の正団員になるとさらに稽古に没頭。17歳の夏に友達から電話がかかってきたとき、学校をやめて1年半も、友達と話していなかったと気づいたほど、バレエ漬けでした。毎日11時から基礎レッスンと公演のリハーサル。稽古帰りに仲間とお茶することはあっても、バレエ団ではお互いがライバルですから、友達という感じではありませんでした。流行りの遊びもせず、いいダンサーになることだけを目指していました。

(写真:Andriy Bezuglov/stock.adobe.com)
(写真:Andriy Bezuglov/stock.adobe.com)

 18歳になると、ソリストの役がつくようになり、初めて踊った古典作品の主役は20歳のときの『クルミ割り人形』の金平糖の精。それから『白鳥の湖』のオデット、『眠れる森の美女』のオーロラ姫など、徐々にレパートリーが増えていきました。

 初めて広告の仕事をしたのは17歳の時。バレエ団にキャスティングの人が来て、ある結婚式場のポスターのモデルに選ばれたのです。そしてそのポスターがきっかけとなり、雑誌にも取り上げてもらうようになりました。CMなどの仕事をさせていただいたり、実はドラマや映画のオファーもいただいたことがありました。

 しかし、ダンサーとしての自覚が人一倍強い私は、どんな誘いを受けても、見向きもしませんでした。何が何でも、プロフェッショナルのバレリーナになりたかった。でも、日本には、海外のような国がお給料を払う国立バレエ団があるわけでもなく、一介のダンサーの収入は少ない。どうしたら、自立できるのか? この日本の環境のなかでプロを目指すことは、暗闇を手探りで進むようでした。私が目指すプロとはなんだろう? なぜ私は、踊りたいと思っているのだろうか? 常にもやもやを抱えながら、20代を過ごしていたのです。

取材・文/松田亜子

働く女性に支持され続けている『日経ウーマン』で、27年も続く連載「妹たちへ」。キャリアに迷い、人生これでいいのかと悩む女性たちから圧倒的な支持を得てきました。その名物連載が15年ぶりに単行本として登場。雑誌掲載当時の語りを1冊にまとめた、20人の“姉”からのエール集です。

日経WOMAN編集部編/日経BP/1980円(税込み)