働く女性に支持され続けている『日経ウーマン』で、27年も続く連載「妹たちへ」。キャリアに迷い、人生これでいいのかと悩む女性たちから圧倒的な支持を得てきました。その名物連載が、15年ぶりに単行本『 一歩が踏み出せなかった私へ 』として登場。雑誌掲載当時の語りを1冊にまとめた、20人の“姉”からのエール集です。今回は女優・草刈民代さん編の第2回。20代で海外の舞台にも多く招かれ、バレエの力量を磨いていきますが、目指す理想と周囲との差に違和感や葛藤を抱えます。そんな中、30歳で映画『Shall we ダンス?』の出演オファーを受け、芝居に初挑戦。映画は大成功し、プロとしての自信を深めます。 (本連載は、書籍『一歩が踏み出せなかった私へ』に収録されている内容の一部を抜粋してお届けします)

草刈 民代 くさかり・たみよ
俳優
1965年東京都生まれ。8歳でバレエを始め、16歳で牧阿佐美バレエ団に入団。以降、同バレエ団の主役を多く務める。海外のバレエ団のゲスト出演も多く、現代バレエの巨匠、ローラン・プティ作品には欠かせない存在に。96年に映画『Shall we ダンス?』で映画初主演し、日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞。同作の監督・周防正行氏と結婚。2009年にバレリーナを引退、女優に転身。2017年公開の『月と雷』に出演。

海外の舞台へ 緊張と不安に「負けたくない」

 「踊りのプロ」を目指し、バレエに没頭していた私は、26歳で旧ソ連・モスクワのダンチェンコ劇場にゲストとして招かれ、『ドン・キホーテ』を踊りました。以降、ルーマニアやロシアなどの劇場やバレエ団に招聘(しょうへい)されるなど、海外で多くの舞台に立つ機会をいただきました。

 海外でもスターダンサーが少ないバレエ団は、公演の際にゲストを呼ぶことがあります。振付師や興行会社を通じて客演依頼が来るなど、主役を踊るプリンシパルは、海外のバレエ団との交流を持つことは少なくありません。

 招かれる時は、常にひとり旅。言葉も分からない国で、緊張と不安で押しつぶされそうななか、常に「負けちゃいけない」と気負っていました。当時の日本人ダンサーのイメージは、「バレエ後進国から来た人」。私にもその自覚はある。でも、同じ舞台で踊る以上は負けたくない。日本人として恥ずかしくない踊りをしたい。どんな環境でも踊れるように、食事も生活スタイルも、自分の嗜好やこだわりは一切捨てました。

 嫌がらせをされたこともあります。後に13年間にわたって共演したレニングラード国立バレエ団で、初めて踊ったときのこと。本番中に私がソロで回転していると、周りに立っていた群舞のダンサーたちがくすくすと笑い始めたのです。一瞬焦りました。でも、翌年から一切なくなった。そうできないような佇まいになっていたのでしょう。実力主義の世界では、こんなにもわかりやすく人の態度に表れるのです。

(写真:Anna Jurkovska/stock.adobe.com)
(写真:Anna Jurkovska/stock.adobe.com)

 一方で、「海外のダンサーと同じ土俵に立てていない」思いは、年々大きくなっていきました。「日本人は身体条件が悪い」「海外とは環境が違うから仕方ない」――当時の日本のバレエ界にはそんな割り切りがありました。純粋に踊りの高みを目指したい私は、「好きな踊りができているんだから」と現状に甘んじる風潮も許せなかった。志を持つ人が、環境や慣習に妥協するのはおかしい。そんなことで何が目指せるのか? と。周りの人たちととぶつかることも多く、「扱いにくいダンサー」と言われていました。

 常に「何かが違う」という迷いや憤りを抱えていた20代は、今思えば肝心な場面で力が発揮できなかったことも多く、踊りも不安定だった気がします。ケガも多かった。「我が強いとケガをする」といわれますが、プロはこうあるべき、という我の強さが体に変なテンションをかけて痛めてしまうこともしょっちゅうでした。

 27歳のとき、椎間板ヘルニアを患い、10カ月間休養することに。ニューヨークに行き、現地のレッスンで、体の動きを徹底的に見直しました。食事に気を配り始めたのもこの頃です。

 収入も悩みの種でした。ダンサーの収入は公演ごとのギャラが中心。テレビCMや広告のお仕事をお受けしていたこともあり、他のダンサーよりはいただいていましたが、経済的自立は難しかった。高校をやめ、16歳からバレエ漬けの日々で、涙が出るような経験を積んできたにもかかわらず、生活環境は変わらず、踊りのプロにもなれない。もういい。バレエをやめようか…。そう思い始めたときにいただいたのが、映画『Shall we ダンス?』の出演オファーでした。

 映画は、平凡なサラリーマンが社交ダンスを通して人生を見つめ直すストーリーでした。それまで、お芝居の依頼はすべてお断りしていましたが、このときは多くの方から出演を勧められ、バレエ以外の活動にいい顔をしなかった母親まで「人生の記念に出てみたら」と言い出して…。私自身もあらすじを読んで、心を動かされました。オファーをいただいたのはダンス講師の役。高みを目指したいのに、狭い世界で悩んでいる。自分を見るようで、この役を理解できるのは私だけかもしれないと出演を決意。ちなみに、周防正行監督――後の夫です――は、私の立ち姿を見て、「こんなに近寄り難い人はそういない」と出演依頼をしたそうです(笑)。

 30歳で初めて芝居に挑戦。バレエ以外のことは何も知らず、芸能にも疎い私は、現場で異質な存在。でも、撮影は新鮮でした。映画は大ヒットし、いくつかの映画賞もいただきました。社交ダンスがブームになり、作品は後にハリウッドでリメイクもされました。

 私を取り巻く環境は一変。世間での知名度が上がったことで公演のオファーが増え、ギャラも上がりました。皮肉なことに、表現に関する意見も通るようになってきたのです。成功すれば、誰も何も言えなくなる。こんなものかと思いましたが、窮屈な状況からは抜け出せて、プロへの道がようやく開けてきた気がしました。

 私生活でも変化がありました。映画公開から2カ月後、監督と結婚。撮影中は結婚することになるとは夢にも思わなかった!両親からは、私のような扱いにくい人間をもらってくれる人はいないと言われ続けていましたから(笑)。

 夫は、人生で初めて〝分かり合えた人〞でした。抱えてきた思いを話し、彼が「君は正しい」と言ってくれたとき、いろんなことが腑(ふ)に落ちました。プロとしての自負を持ち、闘いながら映画を作ってきた彼とは、世界が違っても話が合いました。今まで周りの人とうまくいかなかったのは、目指すところの違いだったのかもしれない。夫という最大の理解者を得て、孤独でなくなった私からは迷いが消え、更に本気で踊りに没頭できるようになりました。

 世界的な振付家、ローラン・プティ先生との出会いも転機のひとつとなりました。30歳で初めてお会いして稽古を見てもらい、先生の代表作のひとつ『若者と死』を踊ることに。若い男が女(実は死神)に翻弄され、死へと向かうという作品で、登場人物はたった2人。ミハイル・バリシニコフなど限られたトップダンサーだけが踊ることを許されたプティ作品の傑作です。

 「その目だ!」。リハーサル中にプティ先生が私にそうおっしゃったことがありました。どちらかと言えば演劇的なアプローチで踊るタイプだった私は、若い頃「表情がうるさい」「バレエは芝居とは違う」と注意されることが多かった。そのたびに、自分の感覚とコーチをして下さる方々とのギャップに戸惑っていました。でも先生の一言で、「これでいいんだ」と吹っ切れた。日本人には踊れないといわれていた憧れの作品を踊り切り、「この死神はタミヨが最高だ」と言っていただけたのです。初めてプロとして認めてもらえた実感がありました。そしてようやく、自分を信じて踊ることができるようになったのです。

 40歳のとき、愛知万博(愛・地球博)でバレエ公演を初プロデュースしました。不安ながらも「自分で作品を生み出す努力をしないと、先には行けないよ」という夫の後押しもあり、挑戦しました。万博の入場者は誰でも観覧できる公演。プティ先生のロックやジャズを使った作品を選び、バレエを初めて見る人も楽しめる構成を考えました。4日間で3万人近い方に見ていただき、公演は大成功。その後、20世紀最高のバレリーナと称されたマイヤ・プリセツカヤさんにも指導を受けるなど、一流の方々とご一緒させていただくなかで、私は自分の踊りを極めていったのです。

取材・文/松田亜子

働く女性に支持され続けている『日経ウーマン』で、27年も続く連載「妹たちへ」。キャリアに迷い、人生これでいいのかと悩む女性たちから圧倒的な支持を得てきました。その名物連載が15年ぶりに単行本として登場。雑誌掲載当時の語りを1冊にまとめた、20人の“姉”からのエール集です。

日経WOMAN編集部編/日経BP/1980円(税込み)