『孫子』の中で最も共感する一節は「道とは、民をして上と意を同じくせしむるなり(道とは、国民と君主を一心同体にさせるもの)」と語るKKRジャパン社長の平野博文さん。企業も同じで、CEO(最高経営責任者)から現場の一人ひとりまで、そのまとまりとしての組織の強さがすべてだという。『孫子』を愛読書にあげる各界のリーダーにその活用法を聞く「ビジネス書として読む『孫子』」第4回後編。想定外の事態が起きたときに、最終的に成功する人間とは?

平野博文さん(写真左)と守屋淳さん
平野博文さん(写真左)と守屋淳さん
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日本の会社はある種の「村」のようなもの

守屋淳・中国古典研究家(以下、守屋) 平野さんが感銘を受けたという『孫子』の「道」について、さらにお伺いしたいのですが、日本の会社では、会社の「道」ともいえる経営理念が形骸化していないでしょうか。大企業の幹部研修で、自社の経営理念を何も見ずに書いてくださいというと、書ける人はゼロだったりします。そういう状態で、日本の会社は、一体何によってまとまっているのでしょうか。

平野博文・KKRジャパン社長(以下、平野) 日本の会社は、理念で集うというよりは、ある種の「村」のような共同体なのかもしれません。村を離れることは「村八分」を意味するため、そもそも出ていくという選択肢がない。だからこそ、わざわざ理念を強調しなくても組織が機能してきた面はあるでしょう。しかし、これからの時代は「自分たちは何のために存在するのか」という問いが不可欠です。

 例えばKKRでは、「私たちは誰のために働いているのか」という問いを常に意識しています。それは世界中の公務員や教員といった方々の年金を運用し、その利益を最大化するためです。これが私たちの「錦の御旗」になっています。

守屋 もし平野さんが買収した会社で、「道」が確立していないと感じた場合、どのような手を打たれるのですか。

平野 まずは「自分たちは何のために存在するのか」という会社の存在理由、つまり「道」を立てるようにします。しかし、それだけでは人はついてきません。『孫子』にも、「敵の貨を取るものは利なり(敵の物資を奪取させるには、手柄に見合うだけの賞賜を約束しなければならない)」という言葉がありますが、自分たちが一生懸命やって、何が得られるのか、という「利」も同時に必要です。

 かつてプライベート・エクイティは、アメリカでCEOたちが日本の社長の何十倍、何百倍と給料をもらっていて、「富を一部の資本家や経営者に移転させるだけで、従業員には全然いいことがない」という批判を受けていました。そこで私たちは今、投資先の全従業員が、私たちと同じように会社の成長から利益を得られる仕組み(株式所有プラン)の導入を進めています。

 こういう話をすると、「おまえはまたそういうことを言って。俺たちは金のために働いてるんじゃない」と言われたりしますが、現実に「こういう目標を立てたら、あなた方にはこういうだけのものが来ますよ」と言うと、100人中100人が「分かった、やろう」となるんですね。

 日本の企業経営者の場合、ミッションがはっきりしていないこととも関係あるのでしょうが、経営者が従業員を搾取しているとか、ズルして多くもらっているとかいうことでもなく、会社の中だけに現金がたまっていく。これがアメリカなどの他の国と違うところですね。しかも社長は、欧米に比べれば任期が短くて、何かあったら世間に謝ったり批判されたりするわけですから、決して恵まれた仕事でもない。そう考えると、社長も従業員も、お互いが犠牲になってやっている。これは良くないのではないか、と我々は考えています。

「これからの時代は『自分たちは何のために存在するのか』という問いが不可欠」と語る平野さん
「これからの時代は『自分たちは何のために存在するのか』という問いが不可欠」と語る平野さん
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平野博文(ひらの ひろふみ)
KKRアジア副代表、KKRジャパン代表取締役社長
1961年、東京都生まれ。83年、慶応義塾大学文学部卒、旧日興証券入社。2003年、取締役、07年に辞任。アリックスパートナーズ日本代表を経て、13年にKKRジャパン代表取締役社長に就任。

守屋 「道」と「利」の両立というのは、まさしく渋沢栄一の唱えたモットー「論語と算盤(そろばん)」と同じですね。他に『孫子』の教えで、平野さんの仕事と関連している、と感じられる言葉はありますか。

平野 先ほど申し上げた「敵を殺すは怒なり、敵の貨を取るは利なり(兵士を戦いに駆り立てるには、敵愾[てきがい]心を植えつけなければならない。また、敵の物資を奪取させるには、手柄に見合うだけの賞賜を約束しなければならない)」という言葉ですね。相手を意識して「どう勝つか」ということよりも、自らの組織をどう強くしていけるのか、という指摘はそうだなと思います。

守屋 負ける組織は、ライバルに敗れるというより、自滅することが多いといわれます。おっしゃる通り、戦略の根幹は自分の組織の強化ですね。

成功するのは、好かれ、信頼される人間

平野 はい。ですから、私が『孫子』の中で最も共感するのも「道とは、民をして上と意を同じくせしむるなり(道とは、国民と君主を一心同体にさせるもの)」という一節です。

守屋 組織というのは、それをまとめる芯がないと、最終的にはダメになってしまうのでしょうか。

平野 そう思います。今我々のシンクタンクにデビッド・ペトレイアス(アメリカ軍第101空挺[くうてい]師団司令官、中央軍司令官、CIA長官などを歴任)がいるのですが、彼が言うには、軍隊で最も重要なのは「自分がいて、その下に4人部下がいる。自分を含めたこの5人が死なないようにすること」だそうです。その小さなユニットの強固なまとまりが、師団全体の強さにつながる。企業も同じで、CEOから現場の一人ひとりまで、その組織の強さがすべてです。

 なぜなら、戦略や作戦は間違うこともありますし、マクロ環境も到底想定できないことが起こります。投資をする際にはリスク項目を洗い出しますが、実際に会社を揺るがすのは、リストに書かれていなかった「想定外のリスク」なのです。新型コロナウイルス禍や、カルソニックカンセイの件でのカルロス・ゴーン氏(日産自動車会長[当時])の逮捕など、まさに想定していないリスクでした。

 こうした想定外の事態が起きたときに、組織が柔軟に対応できるか、臨機応変に指示を出せるリーダーがいるか。それがすべてです。KKRの創業者も「最終的に成功する人間は、分析力や交渉力がある者ではない。好かれ、信頼される人間だ」と常々言っています。私たちはこれを「ライク・アンド・トラスト(Like and Trust)」と呼んでいます。

守屋 「信頼される」ことの重要性は、『孫子』ではないのですが、『論語』のほうにとても有名な問答があります。

 孔子に対して、弟子の子貢が、
 「政治で重要な要素って何ですか」
 と質問するんです。すると孔子が
 「食料、軍事、国民からの信頼の三つだ」
 と答えます。これに対して子貢が、
 「その三つのうち一つ切るとしたら何を切りますか」
 と聞くと、孔子の答えは、
 「軍事を切るよ」
 すると子貢がさらに、
 「残りの食料と国民の信頼のうち、切るとしたらどちらを切りますか」
 と聞くんです。この質問力はスゴいと思うのですが、孔子は、
 「食料を切るよ。昔から人は最後には死んでしまうが、政治というのは信頼がないと成り立たない(食を去らん。古より皆死あり。民、信なくんば立たず)」  という名言を口にします。

 実はこの問答、昔からすごいツッコミが入ってるんですね。「下からの信頼が重要なのは分かるが、食料切ってどうするんだと。食料切ったら死んじゃうので、意味がないだろう」と。でもこの話、企業経営に置き換えると分かりやすいんです。

 例えばある会社が、資金繰りがつかなくなったとします。そこで社長は、社員を全員集めてこう言うんです。
 「申し訳ないけど資金繰りがつかなくなった。ついては給料3カ月我慢してほしい。3カ月我慢すればこの会社は立ち直る」
 このとき社員がどう反応するかという話なんですね。
 「あの社長の言うことなんか誰が信用するか、給料払えない会社にはいられない」
 とみな辞めてしまえば、たぶんその会社は潰れます。でも逆に、
 「あの社長の言うことなら信用して3カ月無給で頑張ってみよう」
 とみなが思えれば、その会社は残るかもしれない。要は、危急存亡のときには、食いぶちよりも上への信用や信頼のほうを優先せざるを得なくなる、というのを極端に表現した問答なんです。今、平野さんがおっしゃった話と同じだと感じました。

「危急存亡のときには、食いぶちよりも上への信用や信頼のほうを優先せざるを得なくなる」と語る守屋さん
「危急存亡のときには、食いぶちよりも上への信用や信頼のほうを優先せざるを得なくなる」と語る守屋さん
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平野 本当にそうですね。資金繰りが苦しくなったとき、現場の人間が踏ん張れるのは、「この上司、この社長についていけばきっと大丈夫だ」という信頼があるからです。信があれば、食は後からついてくる。しかし、信がなければ、今日あるものを食べ尽くして終わりです。

世界のシステムが変わる転換点

守屋 最後に、平野さんの座右の書を1冊あげるとしたら何になりますか。

平野 特定の1冊というのはなく、その時々の状況に応じて読む本を変えています。心の持ち方に悩んだときは、中村天風さんの本を読んで気合を入れます。また、『 地上最強の商人 』(オグ・マンディーノ著/稲盛和夫監修/日本経営合理化協会出版局)は、失職して裁判の準備を一人でしていたときに、父に勧められて読み、前向きな気持ちになる助けとなりました。

 投資家として原点に立ち返りたいときは、ハワード・マークスの『 投資で一番大切な20の教え 賢い投資家になるための隠れた常識 』(貫井佳子訳/日本経済新聞出版)を読みます。

 そして、世界がどうなっていくのかというマクロな視点が必要なときは、イマニュエル・ウォーラーステインの『世界システム論』のような歴史書や、地政学を扱う雑誌『フォーリン・アフェアーズ』を手に取ります。

守屋 今はまさに世界のシステムが変わる転換点かもしれませんね。

平野 そう感じます。プーチン、習近平、モディ、エルドアン、そしてトランプ。これだけ多くの権威主義的なリーダーが世界にそろったのは、70~80年ぶりではないでしょうか。世界のシステムが大きく変わる始まりなのかもしれません。

写真/尾関祐治

孫子本ブームの火付け役となった“赤本”

読者が自らのビジネスや生き方に実践していくために、『孫子』がそもそも何を問題とし、何を解決しようとしたのか、前提条件がまったく違う現代でも本当に役立つのかという観点から、分かりやすく解説。ビジネスだけでなく、スポーツや人生のさまざまなシーンで活用できる「負けないための戦略」を数多く紹介しています。

守屋淳著/日本経済新聞出版/1980円(税込み)