「企業の成長のためには、従業員の創造性の発揮が不可欠」「あらゆるビジネスパーソンは創造性を高めるべし」など、「創造性」という言葉を耳にすることが増えました。しかし、その「創造性」とはいったい何でしょうか。そして、どうすれば発揮したり、高めたりすることができるのでしょうか。今回は、創造性と関わりの深い「自分の言葉」を通して、創造性の育み方を見ていきます。

「自分の言葉」の見つけ方

  前回 、創造的言語化のためには、孤独に自分と向き合う時間を取り戻すことが必要であると述べた。心身に生まれたなんらかの反応を、一足飛びに言葉とつなげるのではなく、向かい合って「自分の言葉」を探索する作業の時間だ。
 このような創造性について認知科学の領域で探求しているのが、諏訪正樹氏の「一人称研究」である。

 一人称研究とは何か。どのような研究であるかを直観的に分かってもらうために、諏訪正樹『「こつ」と「スランプ」の研究 身体知の認知科学』(講談社選書メチエ、2016年)の中の研究事例を紹介しよう。

 諏訪研究室の学生は、自分を被験者にしてボウリングのスキルを学ぶプロセスを観察し続けた。9カ月の間、204日ボウリング場に通い、なんと999ゲームもこなした。平均すると、週5日強ボウリング場に通い、1日5ゲームをこなすというハイペースだ。この間、自分だけが見るノートに言葉を毎日書き残したそうだが、その分量は大学ノートで7冊にも達したという。

 ここでの言葉とは、自分の「からだ」に生まれた体感を宿している「ことば」だと諏訪氏は言う。このような体感を表現するために自分でオノマトペを作ったならば、それこそが一人称の「ことば」なのだ(創作オノマトペと呼ばれる)。

 諏訪氏によれば、ノートの言葉は、身体の各部位をどのように動かしているか、ボール、レーン、ピンについて何を感じたか(環境についての知覚)、環境と身体にはどのような関係があるか、など多岐にわたった。この一人称の体験観察の膨大な記録はどのような分析結果を生み出したのか。

「からだ」と「ことば」は共創する

 まず、発見された事実は、ノートに書き綴(つづ)った言葉とボウリングのスコアの間の興味深い相関であった。つまり、この研究結果によれば、スランプは必要悪の探索期間だったのだ。とりあえず身体を動かしたときには感触や違和感など様々な反応(つまり、着眼、疑問、解釈、分析など)が生まれ、それゆえに言葉が増える。これは、コツをつかむための必要な準備の過程なのだ。

 ただし、一度完全にコツをつかめば、言葉は大雑把(おおざっぱ)になり、その数も減った。ところが、新しいステージに達すれば、そのレベルだから生まれる身体体験があるので、その新しい体感を言葉にしようとする。この体感と言語化の相互関係を内部観察するのが一人称研究なのだ。※1

 諏訪氏は、スランプ→コツをつかむ→スランプという繰り返しによる学びの過程を「からだメタ認知」と名付け、「からだとことばの共創関係」と定義する。「身体知だから言葉はいらない」のではなく、その身体知を深めるためには、言葉のシステムと身体のシステムの間に繰り返される往還が必須なのだ。諏訪氏は、共創関係における「ことば」の役割について次のように語っている。

 「身体感覚をなるべくことばで表現しようと努力することで、感じ方を研(と)ぎ澄(す)まし、身体の振る舞いを進化させる手法です。身体感覚をうまく表現できなくてもよい。ことばを介して、別のことばにも連想が広がり、新たなことばの視点で身体を見直すと、思いも寄らなかった着眼点や解釈が得られます。※2

※1 諏訪正樹(2022)『一人称研究の実践と理論 「ひとが生きるリアリティ」に迫るために』近代科学社
※2 機関誌Works(リクルートワークス研究所)人事のアカデミア「身体知」( https://www.works-i.com/works/series/academia/detail002.html 、2020年6月10日)

失われた孤独を求めて

 言語化とは、他者対話だけではなく、「からだ」と「ことば」の相互作用という自己内対話を目的とすることでもあった。孤独は、この自己内対話の有効性を高める。他人から見れば、「沈黙している人」でも、その人の中では多くの自己内対話が行われているかもしれないのだ。

 なお、このような孤独は「あえて」つくらなければならない。なぜなら現代社会はあまりにも多くの「接続しようとする力」に溢(あふ)れているからだ。本連載でも何度も述べてきたように、コミュニケーションのチャネル過剰という環境が広がれば、孤独が失われてしまう。我々は、一人でいたいときですら一人になれるとは限らないのである。

 パトリック・シェン監督によるドキュメンタリー映画『In Pursuit of Silence(静寂を求めて)』は、現代社会を騒音社会と位置づける。強制的に我々に接続してくるノイズが、我々の心身に与える悪影響から如何(いか)に逃れればよいのか。映画では、圧倒的な静寂の映像によってその隠された価値を顕在化させる。

 さらに静寂は、騒音の悪影響をなくすだけではない。静寂こそが自己内対話に耳を澄ますという創造性の源なのである。
 その一方で、自分がこのような静寂の孤独を求めているのかと自問すると、その答えは曖昧だ。求めているとも言えるが、目の前に人がいたり、映像や音があったりするだけで、簡単に外界と接続してしまう。
 目の前のPCやスマートフォンはいつでもどこでも接続を促し、誘惑してくる。これは、つながろうとする明確な意志の選択ではなく、チャネル過剰の中毒性もしくは注意喚起の罠(わな)と呼んだほうが正確だ。だから、このような中毒性に対抗するには、あえて孤独を選ばなければならないのだ。

 ただ、この孤独の選択については、もう少し説明を追加したい。あえて孤独を選ぶと書くと、強い意志が必要だと思われるかもしれない。たしかに孤独は、寂しさを伴うので、まるで修行僧のように選ばなければならないと考える人がいるかもしれない。が、孤独は禁欲とは別に欲求そのものでもあるのだ。

スナフキンの感じている「大きなよろこび」

 孤独への欲求を創造性と絡めて理解するために、自由と孤独を愛する芸術家を一人紹介しよう。トーベ・ヤンソン作の「ムーミン・シリーズ」に登場するムーミントロールの親友、スナフキンである。

 スナフキンは、冬になるとムーミン谷を去り、一人旅を続けた後、春に戻ってくる(ムーミンたちは冬眠しているわけだが)。
 スナフキンを単なる「誰とも付き合えない人(正確には妖精だが)」と考えてはいけない。彼は、ムーミン谷の人たちには愛されているし、交流もしている。
 特にムーミントロールはスナフキンが大好きで、彼がムーミン谷に来るのをいつも待ちこがれ、彼を崇拝していた。もちろん、スナフキンもまたムーミン谷のみんなと交流した。旅先のスナフキンは、ムーミントロールのことを「ほんとうに思いやりのある、いいやつ」だと思い出したり、自分の歌を聴かせたくなったりする。

 その一方で、物語の中でスナフキンは孤独を選び、突然の別れを告げる。ムーミントロールとの別れのシーンは、まるで恋人同士の別れのようだ。※3 このような二面性が彼の本質である。そしてスナフキンに惹(ひ)かれる我々にも、その二面性があるのだろう。

 ある一日、手つかずの自然の中を、わたり鳥の声を聞きながら、ぶらぶらと歩くというスナフキンの一人旅を、トーベ・ヤンソンは詳細に描写する(以下の引用は、『ムーミン谷の仲間たち』(ムーミン全集[新版]6、2020年)の中の「春のしらべ」より)。
 「明日(あした)も昨日(きのう)も、遠くはなれていました。今はただ、白樺(しらかば)の木々の間に輝く、お日さまの赤い光があざやかでした。空気もひんやりとして、おだやかです。」
 このような表現は、スナフキンの意識が「いま、この場所」に集中していることを伝えてくれる。そして彼は、こう思うのだ。「歌を作るのにもってこいの晩だぞ」と。

 スナフキンの説明によれば、新しい歌は、「最初の部分はあこがれ、つぎの二つの部分は春のものがなしさ、あとは気ままにぶらついて、ひとりでいられるという大きなよろこび」なのだ。

※3 スナフキンには複数のモデルがいるといわれており、トーベ・ヤンソンの恋人であった自由人アトス・ヴィルタネンもその一人である(冨原眞弓『トーヴェ・ヤンソン ムーミン谷の、その彼方へ』筑摩書房、2025)。

孤独への隠れた欲求に気づくこと

 つながる(接続)という強い刺激の喜びに溢れる世の中で、切断するという深い刺激の喜びが隠されていた。そして、スナフキンは、「ひとり」の喜びを知っていたのだ。
 スナフキンの歌は、「もう何日もあたためてきたもの」。でも、「まだ外へ取り出す気にはなれなかった」ものであった。次の素晴らしい表現は、スナフキンが旅先で「一人称研究」をしていたと言えよう。

 「むくむくとふくらんで、すっかりしあわせなものになるまで、待たなくてはいけませんからね。(中略)もし早めに出してしまったら、歌はとちゅうで引っかかって、半分しかいいものになりません。」

 我々は、スナフキンにとっての歌を自分の仕事の何かに当てはめることができる。一人にもなれず、目の前の誰かに反応しているだけでは、私たちの仕事は「半分しかいいもの」にならないのだ。

◆きょうの一言◆
「自分が今、何をどう感じているか」を真剣に追ってみる。

(イラスト:PureSolution/stock.adobe.com)
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