私たちは日々、「言葉」を様々な目的で使っています。「用件を伝える」目的はもちろん、「新しいアイデアを考え、出し合う」「自己表現する」などにも、言葉は欠かせません。一方で、「言いたいことがあるのに、うまく表現できない」「語彙(ごい)力がないせいで、ありきたりな印象に」「『こう言えばよかった』と後悔しがち」という人も多いのではないでしょうか。職場のコミュニケーションの整理において鍵となる「言語化力」について、創造性との関係から解説します。
ブレインストーミングと言語化力
前回 、対面コミュニケーションが大幅に制限されるようになってから、書く力(正確には、推敲(すいこう)された言葉)が注目されるようになったことを指摘した。言語化というタイトルやコピーが付いている書籍は増加し続けている。
当然、職場では「言語化してみよう」という試みが行われることになる。まずは、模造紙とカードを用意して、グループで話し合ってみようというのは、よく見かける風景である。「ブレインストーミング(ブレスト)」という集団発想法は、新製品企画、事業戦略決定などのアイデア創出を迫られたチームにとって有効な方法として期待されている。
しかし私は、この集団で行う発想法とその際の言語化に対して、本当に創造性につながるのかという疑心を長年持っていた。
まず、全然盛り上がらないことがある(私だけの問題かもしれないが)。結局、1人のアイデアが圧倒的に優れていたこともある。その場合、話し合いとは名ばかりで、アイデアを持った1人が教える場となる。もしくは、その他大勢の意見を批判しないようにする忖度(そんたく)の場になる。
ところが、このような失敗はまだ“まし”なのである。なぜなら、誰の目から見ても失敗ならば、次回はないからだ。
なぜ多くのブレストが、「盛り上がったのに創造性はなく終わる」のか
一番面倒な失敗は「楽しいブレスト」である。まず、誰かが言葉を投げてみる。「あーそれですね」なんてすぐに反応があると盛り上がる。自分の発言を書いたカードが別の誰かのカードと同じという括(くく)りになるのはうれしい。普段はできない、他部署の人とのコミュニケーションもできる。つまり、つながる喜び(共有の喜び)なのだ。
しかし、ブレストが終わりしばらく経(た)って、さて何か新しいアイデアが生まれたのかと自問をすると自信がない。
つながること自体が楽しいので、それが第一の目的になってしまうのだ。新しいアイデアとは、自分もまだ言語化がうまくできず、すぐには共有できそうにないから新規性があると言えるのだが……。
要するに、手っ取り早くつながりたいので、誰もが知っている言葉(定番の言葉)が選ばれることになる。勉強熱心なグループでは、ビジネス書や自己啓発書で話題の言葉を発言すれば、簡単につながることができる。
ただし、ここで行われたことは「創出」ではないのだが、この「真実」をブレストの最中に発言することはできない。仲間から、空気を乱す、上から目線の嫌な奴に認定されてしまうからだ。
こうしたブレストの限界については、経営学者・入山章栄氏が『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』(日経BP、2015年)の中で、米スタンフォード大学の実証分析の結果を紹介している。私もこの本を読んだとき、何度もうなずいた。
第一に、参加者が上司などの立場のある人物に対して忖度してしまうことが挙げられている。これは私が先ほど記した通りだが、日本だけの現象ではないことに驚く。第二に、集団で話す場では、自由な発想の飛躍が抑制され、思考が停滞しやすくなることが指摘されている。
入山氏によれば、ブレストには、社内の人脈を広げるという、「創造性」とは異なる意図もあるのだが、ここでは真に創造的なアイデアを生み出すためには、他者とつながるだけでなく、孤独の中で自由に思考を巡らせる時間もまた不可欠であることを確認しておきたい。
「みんなの言葉」で「私」を表現する
2024年に刊行され、話題になった言語化本に三宅香帆氏の『「好き」を言語化する技術』(ディスカヴァー携書)がある。三宅氏は文芸評論家なので、その言語化も自己表現という側面に光を当てている。
副題の「推しの素晴らしさを語りたいのに『やばい!』しかでてこない」に着目したい。三宅氏によれば、「推し」とは「自分だけの感情」であり、その上で「推薦したい」という感情も入っている。この私だけの孤独な感情を誰かと共有したいという行為は、異なるベクトルを無理に結び合わせる挑戦なのだ。
個人の表現とその共有は、実は言語そのものが持っている2つの機能とも対応している。
まず、言語には社会性という機能がある。これは、言語の意味が定義され、一般的な用例が分かっていることである。その一方で、私だけの言葉の使い方によって自分だけの表現にもなり得る。つまり、みんなと共有している言葉を「私だけの言葉」に変換することが自己表現なのだ。
言語は、改めて考えてみると、とても不思議な存在だ。誰かと共有しているからこそ、言語は言語として成立する一方で、その共有された言語を使って自分だけの「何か」を立ち上げることもできるのだ。
ところが、先述した通り、言語化に困ると、言語の社会性という機能だけを頼りにしてしまう。ついありきたりな言葉を使ってしまうのは、それがつながりやすいからであった。
何かに反応して心が動いてしまうこと、もしくは体が受け身で反応してしまうことは、自己表現とは区別したほうがよい。この反応を、ここでは「自己表出」と呼びたい。
自己表出が起こったが、なかなか言葉で自己表現できない。この時間の遅れは、ビジネスの現場ではとても非効率に見える。だから、コミュニケーションの効率性だけを求められれば、誰もが知っている定番の言語に飛びついてしまうのだ。
「やばい」という言葉は、どんな感情であっても、心が動かされていれば、なんでも放り込める便利な言葉だ。
でも、創造的な自己表現のためには、心と体の反応があってもすぐには言語化せずに、時間をかけて「言葉」を探していくしかない。そんな「孤独の時間」が我々には必要なのである。
クリエイティビティと言語化のサイクル
言語の社会性と自己表現性という二面性に焦点を当てて、人間の芸術、特に文学の秘密を分析しようとした独創的な思想書に吉本隆明氏の『言語にとって美とはなにか』(勁草書房、1965年)がある。
実は、先ほど説明した言葉の2つの機能は、この本に感化されている。はじめに、私が書いた社会性と自己表現は、吉本氏の中では、それぞれ「指示表出」と「自己表出」に対応している。吉本氏の大著はあまりにも難解なので、私は簡略化した解釈図式を考えてみた。
はじめに自己表出(潜在的反応)→自己表現(言語化)という順序を設けた。そして社会性と表現性の両立の難しさを表すために、吉本図式を参照して図1のように作成した。「効率的だが、みんなが知っている言葉」と「非効率だが、個性的(創造的)な言葉」の両立の難しさを示している。
では、私たちが目指す「言語化」と「創造性」の両立、すなわち「すごい言語化」は、この図においてどのように位置付けられるのだろうか。それは、「自分だけの感情(自己表出)」が、自己表現された後にみんなに共感されるようになるプロセスである。図2においては矢印①に当たる。
この矢印①の動きに注目し、吉本理論を見事な譬(たと)えで説明した対談があった。コピーライターの糸井重里氏と国語辞典編集者の飯間浩明氏という言葉のプロ同士の対談だ。※1
糸井氏は、吉本氏の自己表出(私流の整理で言えば、自己表出から自己表現への移行)を「『あーっ!』とか『痛い!』とか、体内から出てくる音のようなものです。意味を厳密に捉えるものじゃなくて、溜(た)まっていた沈黙が凝縮されて形になる」と表現している。そして、そのような表現は「辞書ではほぼ言えないんだと思うんです」と言う。
それに対して、飯間氏は、糸井氏の言わんとしていること理解したうえで次のように返している。
「『個人的な表現が、一般に共有されはじめたな』そんなふうに気づくとき、辞書編纂(へんさん)者は美を感じるところがあります。ある言葉が、それまでとは異なる意味で使われるようになった、と気づくようなときです。」
自己表現とは、潜在的な個人感情(右下)から共有(右上)までの一瞬の創造的な移動であった。そのような言葉は、まだ辞書に載っていない、生まれたばかりの輝く言葉だ。
もちろん、そんな新しい表現もどんどん共有される。それが、矢印②の移動である。その共有の始まりをつかまえたいというのが、飯間氏の先の発言なのだ。
恐らく、辞書に載って一般的に使われるようになれば、最初の表現の輝きは徐々に失われる。すなわち、過去の優れた表現の言葉であっても、いつかは定義された誰もが共有する言葉になってしまう。
このようなダイナミックなサイクルとして言語化と創造性は捉えられるべきであろう。その輝きが失われたとき、我々にできることは何であろうか。
それは、再び、自己表現が生まれる私だけの「孤独の時間」に戻り、新しい言葉を探し続けることであろう。
◆今日のひと言◆
自己表出と向き合う「孤独の時間」こそが言語化の根本。


