その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は鈴木裕介さんの『 毒親グレーゾーン 親の目から自由になれない大人への処方せん(日経プレミアシリーズ) 』です。
【はじめに】
「普通の家庭だったのに苦しい」という矛盾
プリンセスは、「お城」から出たら幸せになれるのか?
物語に登場するプリンセスたちは、なぜ繰り返し、城の外へ出ようとするのだろう。
城には立派な部屋があり、食べるものにも困らず、外敵から守られている。王や女王から与えられた役割をきちんと果たしていれば、生活の安全はある程度保障されている。それでも、プリンセスたちは城の窓から外を眺め、まだ見たことのない世界へ行きたいと願う。
たとえば、ディズニー映画に登場する塔の上で育てられたラプンツェルは、外の世界は危険だと教えられる。人魚姫のアリエルは、地上の世界に近づくことを禁じられる。砂漠の王国の王女ジャスミンは、王女としてふさわしい相手と結婚することを求められる。
これらの物語に出てくる親たちが、単純な悪人であるわけではない(ゴーテルは除く)。娘を危険から守りたい。失敗して傷ついてほしくない。社会のなかで困らずに生きられるようにしたい。家族や国を支える役割を果たしてほしい。
そこには、親なりの心配や責任感が含まれていることもある。それでも、子どもは息苦しくなる。なぜなら、安全に守られていることと、自分の人生を自由に選べることは、同じではないからである。
親から見れば「保護」であっても、子どもから見れば「制限」になることがある。親から見れば「助言」であっても、子どもには「自分の判断を信用してはいけない」というメッセージとして残ることがある。
「あなたにはまだ無理だと思う」「失敗したらどうするの」「あなたのためを思って言っている」「そんなことをしたら、お母さんは悲しい」「家族なんだから、助け合うのは当然でしょう」……、こうした言葉の一つひとつは、必ずしも不適切とは限らない。親が子どもを心配するのは自然なことで、家族のなかで助け合うことにも意味がある。
問題は、その言葉がどのような関係のなかで、どの程度繰り返されたかである。
子どもが何かを選ぼうとするたびに親が不安を示し、自分の希望を口にするたびに親が傷つき、異なる意見を述べるたびに「わがまま」と言われる。そのような経験が続くと、子どもは次第に、自分が何を望んでいるかよりも、親がどう反応するかを先に考えるようになる。
そして、城の外に出たあとも、その習慣は簡単には消えない。
「何が苦しいのかわからない」、これもしんどい
親子関係に悩む人のなかには、自分の家庭について「虐待されていた」とは考えていない人が多い。殴られたことはない。食事も学費も用意してもらった。旅行にも連れていってもらった。病気になれば心配してくれた。親なりに愛してくれたと思う。
そう考える一方で、親から電話がくると緊張する。大切な決断を親に知られるのが怖い。
親と会ったあとはひどく疲れる。自分の仕事や結婚について、親なら何と言うかがいつも頭に浮かぶ。経済的には自立していても、転職や離婚を親に言えない。自分で選んだ服を着ているだけなのに「派手すぎる」「みっともない」という親の声が聞こえる気がする。休日に休んでいると、「怠けている」と責められているように感じる……。
実際の親がその場にいなくても、親の評価が心のなかで再生されるのである。ところが、こうした苦しさを言葉にしようとすると、すぐに別の声が出てくる。
「もっと大変な家庭はいくらでもある」「お母さんも余裕がなかったのに、あれだけしてもらったのだから、感謝しなければ」「自分が気にしすぎているだけではないか」……。
このため、本人にも、自分が何に苦しんでいるのか、よくわからなくなってくる。
世間で「毒親」という言葉が広がった背景には、それまで言葉にならなかった親子関係の苦しさを、短い言葉で表現できるようになったことがある。明らかな暴力やネグレクトだけでなく、過度の干渉、支配、否定、罪悪感によるコントロールも、子どもの人生に長く影響を残すことが知られるようになった。その意味で、「毒親」という言葉に救われた人は少なくないだろう。一方で、この言葉だけでは説明しにくい親子関係もある。
親には愛情があった。楽しい思い出もある。親自身も大変な人生を送ってきた。全面的に悪い親だったとは思えない。それでも、自分の人生が親の目から自由になっていない。
本書が扱うのは、主にこの領域である。
ここでいう「毒親グレーゾーン」とは、親の毒性が軽かったという意味だけではない。親への感謝と不満、愛情と怒り、理解と恐怖が混在し、本人にも親子関係をどう評価すればよいのかわからなくなっている状態を含んでいる。「幸せな家庭だった」と手放しで言い切ることもできない。しかし、「不幸な家庭だった」と言うことにも抵抗がある。この、判断のつかなさそのものが、グレーゾーンの特徴なのである。
親の意図と、子どもに残った影響は別である
親子関係を振り返るとき、私たちはつい「親も自分なりに子どものことを思っていたのではないか」「親にもそうせざるを得ない事情があったのではないか」と考える。
親の愛情や苦労を理解しようとするほど、その関わりによって自分が傷ついたことを認めるのが難しくなる。しかし、親が子どもを思っていたことと、その関わりが子どもに傷を残したことは、矛盾しない。親の意図と、子どもに生じた影響は、分けて考える必要がある。
たとえば、親が子どもの失敗を心配し、進路や交友関係に細かく口を出したとする。親の目的は、子どもを傷つけることではなかったかもしれない。むしろ失敗から守ろうとしていたのだろう。それでも子どもの側には、「自分の判断は信用できない」「親が安心する選択をしなければならない」「失敗すれば、親を失望させる」「自分の希望より、周囲の期待を優先すべきだ」という学習が残ることがある。
こういった過干渉の何が問題か。それは子ども自身が自分で選び、試し、修正し、「自分を信じる力」を育てる機会まで奪ってしまうことにある。それに加えて「自分は信じてもらえていないのだ」という根源的なメッセージとなって深く刻まれ、効力感が低下する。
親に悪意がなかったことは、子どもに影響が残らなかったことを意味しない。逆に、子どもに影響が残ったからといって、親のすべてを悪とみなす必要もない。この二つは同時に成り立つ。また、「親は親なりに精いっぱいだった」ことと、「子どもが子どもとして必要な安心が得られなかった」こと。あるいは、「親は子どもを愛していた」ことと、「その愛情の伝え方によって、子どもの自由が狭められた」こと。これらも両立しうる。
本書では、この中間にある事実を扱いたい。親を断罪するためではない。かといって、「親も大変だったのだから」と、子どもに残った影響をなかったことにするためでもない。親がどのような人間だったかを裁くよりも、親との関係のなかで、自分の心にどのような仕組みがつくられたのかを見ていく。そのほうが、現在の生きづらさを理解するうえで役に立つからである。
親は実家に置いてこられない
人は大人になると、多くの場合、物理的には親から離れていく。
実家を出る。働き始める。結婚する。自分の収入で暮らす。親と会う回数も減る。ところが、距離を取れば自動的に自由になれるとは限らない。親に相談していないのに、親から反対される場面を想像する。親に会っていないのに、「そんなことをしたら恥ずかしい」と感じる。親から何も要求されていないのに、自分が幸せになると家族に申し訳なくなる……など。こういった状態になるのは、意志が弱いからでも、親離れができていないからでもない。子どもは長い時間をかけて、親の反応を学習するからだ。
どのようなことを言えば機嫌が悪くなるのか。どこまでなら自分の希望を言ってもよいのか。何をすれば褒められ、何をすれば失望されるのか。家庭を平穏に保つためには、誰の感情を優先すべきなのか……。
子どもにとって親は、生活を支える存在であると同時に、世界そのものでもある。親の反応を予測することは、生き延びるために重要だった。そのため、私たちは親の言葉や判断基準、表情の変化、感情の動き方を、自分の内側に取り込んでいく。
親元を離れるとき、親本人を実家に置いてくることはできる。しかし、親を予測するためにつくられた仕組みまで、そこに置いてくることはできない。
それが、本書でいう「親の目」である。
「親の目」は、単に親の意見を覚えているということではない。何かを選ぶとき、自動的に親の評価を想像し、自分の行動を修正する仕組みである。
しかも、その仕組みは長いあいだ、自分を守る役割を果たしてきた。親の機嫌を早く察知すれば、怒られることを避けられたかもしれない。親が喜ぶ進路を選べば、関係を安定させられたかもしれない。自分の怒りや悲しみを抑えれば、家庭をこれ以上混乱させずに済んだかもしれない。つまり、「親の目」を気にすることは、もともと未熟さではなく適応だった。
ただし、子ども時代には役立った適応が、大人になった現在も必要とは限らない。すでに親の許可がなくても生活できるのに、心の仕組みだけが昔の環境を前提に動き続ける。すると、自分の人生を自分で決めようとするたびに、恐怖や罪悪感が生じる。
城の外に出たのに、自分のなかでは城の規則がまだ有効なのである。
親子関係がよくなれば、すべて解決するのか
親子関係の悩みについて考え始めると、多くの人は親との関係を改善しようとする。親に本音を伝える。「昔、これがつらかったのだ」ということを正直に話す。謝罪をしてもらう。あるいは、親の事情を理解する。許す。適切な距離を取る。
こうしたチャレンジが役立つ場合はある。まずは本音を伝えようとするその勇気の発揮そのものが尊く、その行為がその人の人生の主体性を回復することに大いに貢献するだろう。また、幸運なことに親が子どもの話を真摯に受け止め、過去の行動を振り返ることができれば、関係が良好に変化する可能性もありうる。
しかし、親との話し合いが必ず成功するとは限らない。「そんな昔のことは覚えていない」「そんなことずっと気にして。あなたは昔から神経質だった」「私だって大変だったんだから、今さら責められても困る」このような反応が返ってくることもある。そのとき、回復の条件を「親に理解してもらうこと」に置いていると、本人はもう一度、親の理解力や反省能力に自分の人生を預けることになる。それは勝ち筋の薄いギャンブルと言わざるを得ない。また、仮に親との現在の関係が改善しても、長年身についた反応がすぐに消えるとは限らない。
親が以前より穏やかになったり謝罪の言葉を得られたりして溜飲が下がった。でも、上司の顔色を読み続ける。休むことへの罪悪感は残る。パートナーに見捨てられることを恐れ、自分の希望を言えない……。そんな反応が残り続けてしまうことはある。なぜなら、親との関係のなかでつくられた関係性のモデルは、親以外の人間関係にも持ち越されるからである。
誤解を恐れずに言えば、親子関係の悩みは、現在の親との関係改善とは本質的に無関係である。というのも、「親の事情を理解する今の大人の私」と「無条件の安心を与えられない不安や、親への恐怖や怒りを抱えているこどもの私」は「別人」だからである(詳細は本書の中核部分で詳しく後述する)。必要なのは、親とどう付き合うかを考えることに加えて、自分のなかに残っている親のルールや反応予測を理解することである。
親を許すかどうかを決めることが、最終目標でもない。
許せる人もいれば、許せない人もいる。
許す必要を感じない人もいる。
親に感謝しながら距離を取る人もいれば、怒りを持ちながら関係を続ける人もいる。
重要なのは、親をどう評価するかではなく、これから自分がどのように生きるかである。
親を悪者にしてもしなくても、自分が苦しかったことは認めてよい。
親の事情を理解していてもいなくても、自分の感情を後回しにする必要はない。
親と和解できなくても、自分の人生を選び直すことはできる。
プリンセスが城を出るのは、必ずしも王や女王を憎んでいるからではない。家族を愛したままでも、家族とは違う選択ができるようになるためである。
本書で目指すのは、親を倒すことでも、親を改心させることでもない。自分のなかに残っている城の規則を見つけ、それが現在も必要なのかを検討することである。かつて自分を守った仕組みを理解し、今の自分に合う形へ更新していく。
城の外に出るとは、親との関係を断つことではない。親の目を基準にしていた世界から、自分の目でも世界を見られるようになることである。
【目次】







