「この人とはどうしても分かり合えない」──そんな経験は、誰にでもあるはずです。そのたびにイライラしたり、衝突したり、職場なら「もうやってられない!」と転職を考えてしまったり。でも、その「分かり合えない」を別の角度から眺めてみると、人間関係は少し違って見えてくるかもしれません。今回、プロの読書家・荒木博行さんに選んでもらったのは、「他者とは分かり合えるものだ」という前提そのものを問い直す5冊。
組織論、コミュニケーション論、身体論、哲学、そして約170年前の古典まで──。一見するとバラバラなラインアップですが、共通しているのは、「分かり合えなさ」を障害ではなく、関係の出発点として捉え直していること。読めば、こじれた人間関係との向き合い方が、少し変わるはずです。
「技術論」を安易に持ち込むと深みにはまる
1. 『他者と働く 「わかりあえなさ」から始める組織論』(宇田川元一著、NewsPicks パブリッシング)
組織の人間関係やトラブルは、正論やノウハウを重ねても、なぜか解決しないことがあります。この本は、その「なぜ」に、組織論と臨床心理学における対話(ナラティヴ・アプローチ)の視点を掛け合わせて答えた一冊です。
カギになるのが、本書に登場する「技術的問題」と「適応課題」という2つのフレーム。「技術的問題」とは、トレーニングや新しいノウハウ、テクニックによって対処できる問題のことです。一方の「適応課題」は、もっと深いところにある“価値観”や“前提”を変えない限り解決できない、厄介な問題です。組織の中には技術的問題ももちろん多いけれど、人間関係のこじれは大抵、適応課題のほうなのです。
例えば、僕たちは組織の中の誰かを、「こいつは適当なヤツだから、もっと厳しく言えばいい」「こいつは金に敏感なヤツだから、インセンティブを与えればうまく動く」といったふうにレッテルを貼り、さらに技術論を持ち出して丸く収めようとしたりします。でも人間は、そうした技術的な解き方で理解したり、動かせたりする存在ではありません。なぜなら、お互いが「正しい」と信じているナラティブを持っており、自分と他者の間には必ず“溝”があるからです。それなのに、“適当なヤツ”“金に敏感なヤツ”といった粗い認知の上に小手先の技術論を重ねてしまうから、気づけば人間関係はどんどん悪化していく。
宇田川さんは、その溝を埋めるのではなく、溝の向こうにいる他者を眺め、解釈し、働きかける──“準備・観察・解釈・介入”という4段階の手順で橋を架ける方法を提案します。多くの人がこの手間のかかるプロセスを飛ばしてしまうのは、「他者とは分かり合えるものだ」という前提を無意識に持っているから。しかし実際には、“溝は埋まらない”と認識したところから、ようやくスタートラインに立てるのです。
自分のナラティブをいったん脇に置いておき、相手が「正しい」と信じているナラティブは何なのか、その言葉に耳を澄ます。そこから、人間関係は始まります。上司や部下、同僚やクライアント──どんな関係にも応用できるので、「本当にこの人とは分かり合えない!」と絶望したときこそ、この本の出番です。
分かり合えなさを「埋める」のではなく「つなぐ」
2. 『未来をつくる言葉―わかりあえなさをつなぐために―』(ドミニク・チェン著、新潮文庫)
『他者と働く』を読んで、他者との間に絶対的な“溝”があることを認めたら、次はその溝とどう付き合うかを考えたい。そこで手に取ってほしいのが、この一冊です。著者のドミニクさんは日本語、フランス語、英語という3つの言語の中で育ち、「完全な翻訳などない」ということを誰よりも身をもって知っています。それでもなぜ、人は誰かに伝えようとし続けるのか? その問いに向き合っているのが、この本です。
サブタイトルにあるように、この本が言いたいのは、分かり合えなさを“埋める”のではなく“つなぐ”という発想。ドミニクさんいわく、「分かり合えた!」と思った瞬間こそが、実は大間違いなのだそうです。他者とは、そもそも永遠に分かり得ない存在。だからこそ、“分かり合うこと”を関係のゴールにしてしまうと、道を踏み外す。「分かり合えないことは乗り越えるべき障害ではなく、関係の始まりそのものだ」と言うのです。
例えば、「この前ディズニーランドに行って、めちゃくちゃ感動した!」と誰かに話したとします。その感動は、本当の意味では自分以外の誰にも“翻訳”できません。僕が味わった体験は、相手がたとえ仲のいい友人だとしても、その核心までは伝わらないのです。じゃあ伝えることを諦めるのか? というと、そうではない。完全には分かり合えないまま対話を続ける、その状態を楽しもうということなんです。
ドミニクさんは「ぬか床」にハマり、情報学研究者としての知識を生かして、「Nukabot」という、ぬか床とコミュニケーションするAIまで作ってしまいました。ぬか床は毎日かき混ぜないといけませんが、その味を完全にコントロールすることは誰にもできません。「発酵」は、人間の思い通りにはならないからです。それでも、おいしくするにはぬか床を毎日かき混ぜる必要がある。人間関係もまったく同じです。思い通りにならない他者と日々関わり続けること自体に、意味がある。
分かり合えなさを埋めるのではなく、それでも“つなぐ”手を伸ばし続けることが、人間関係を味わい深いものにする。それが、この本がくれる一番の気づきです。
あなたの「アドバイス」、本当に相手に届いていますか?
よかれと思ってしたアドバイスが、なぜか人を傷つけてしまう…。そうした経験をした人は少なくないかもしれません。この本には、そんな経験の謎を解くヒントがあります。
著者の伊藤さんは、「さわる」と「ふれる」の違いから話を始めます。医師が患部を診察する際の「さわる」は、状況を把握するために外から一方的に触れる行為。一方、介助の場面での「ふれる」は、相手の反応をうかがいながら双方向のやり取りをするニュアンスを含んでいる。同じ接触でも、一方向か双方向かで、コミュニケーションとしてはまったく別物です。
面白いのは、これが物理的な接触だけの話ではないということです。相手を分析し、問題を特定し、解決策を渡す。そういうアドバイスの多くは、実は言葉で相手を「さわる」行為になっていると言います。僕自身、講演を依頼されることがありますが、これも「さわるようにやるか」「ふれるようにやるか」で全然違う。例えば「リーダーシップの話をしてください」と頼まれたとき、「今、求められるリーダーとはこうである!」と一方的に語れば、それは「さわる」講演です。一方、「今、みなさんが悩んでいることはないですか?」と問いかけて、会場でやり取りを重ねながら話を進めていけば、それは「ふれる」講演になる。
厄介なのは、「さわる」行為は正しければ正しいほど、裏目に出る可能性があるということ。相手がそもそも「さわられる」準備ができていなければ、生理的な拒否反応が起きてしまうからです。ハラスメントの一部も、この視点から理解できるように思います。本人はよかれと思って指導しているつもりでも、相手にとっては一方的に「さわられた」行為でしかなくなってしまう。
この本を読むと、自分の言葉は相手にきちんと届いているのか、それとも一方的に「さわって」しまっているだけなのか。その違いを意識せずにはいられなくなります。
「あの人はわざとやっている」という錯覚
4. 『中動態の世界─意志と責任の考古学─』(國分功一郎著、新潮文庫)
人間関係で「分かり合えない」と感じる瞬間の多くは、相手が自分の想定になかった“変なこと”をしてきたときだと思います。そして僕らはつい、「どうしてそんなことをするんだ?」と考えた末に、「悪意があるに違いない」と解釈してしまう。でも、この本を読むとそれは“錯覚”かもしれないと思えてきます。
ポイントは「中動態」という、古代ギリシャ語などにかつて存在した文法です。私たちは物事を「する(能動態)」か「される(受動態)」かの二択で捉えがちですが、実はかつて第三の「中動態」がありました。それは、出来事が「自分」という場所を通って起きる、という捉え方です。例えば、「泳ぐ」という行為を考えてみると、自分の腕で水をかいているのだから能動的にも思えますが、同時に、水に体を支えられている側面もある。つまり「泳ぐ」は、完全な能動でも完全な受動でもなく、水と自分の体との相互作用として起きている中動態の出来事なのです。
実は日本語にも、この中動態の名残があります。それが、「恋に落ちる」「怒りが湧く」という言い方。「恋をする」「怒る」と違って、どちらも自分から積極的に働きかけたわけではなく、かといって誰かにやらされたわけでもない。気づいたら、そうなっていた。そこでは、自分の意志が出来事の出発点になっていない。つまり中動態の世界というのは、「自分の意志でやった」ということを前提にしない世界。むしろ、意志という概念自体が、そこではあまり意味を持たないのです。
ビジネスの世界では、基本的に「主語があり、意志を持って行動し、その結果に責任が伴う」という前提で物事を捉えがちです。だから相手の言動もつい「意志を持ってやったこと」として裁いてしまいそうになる。でも実態としては、その行為が環境によって、その人の中で「起きてしまっている」だけかもしれない。傷つく言葉を言われたとき、それは相手の意志だけで説明できるものではなく、置かれた環境の中で言葉が湧き出てきた結果なのかもしれない。人間には悲しいかな、意志だけでは説明できない作用が確かにあるんです。
この視点を見逃すと、他者への理解はどんどん“決めつけ”に走りやすくなる。逆に「自分も同じ環境に身を置いたら、同じことをしていたかもしれない」と考えられると、他者への怒りが少し静まることがあります。イライラしている上司や同僚を目の前にしたら、性格や機嫌の問題として片付けるのではなく、「何がこの人をそうさせているのか?」と思いを巡らせてみる。それだけで、自分の心のリソースを無駄に消耗せずに済むのではないでしょうか。
反対意見は「排除すべきノイズ」ではない
最後は、約170年前に発表された古典です。一般的には言論の自由を説いた「古典中の古典」として知られていますが、これを「分かり合えない他者との付き合い方」を説いた本として読むと、驚くほど現代の職場にも通じるところがあります。
ミルの主張は明快です。それは、「自分と相いれない意見を封じてはいけない」ということ。意見を封じてしまえば、もし相手が正しかった場合、自分は真理を得る機会を失います。もし相手が間違っていたとしても、反論を通じて自分の考えが磨かれていきます。つまり、異論や反論は「排除すべきノイズ」ではなく、「自分の思考を生かし続けるための資源」だというわけです。
ミルは、誰からも挑戦されなくなった信念は「死んだドグマ」になると説いています。対立を失うと、どんなに正しいことであっても形骸化し、誰も触れられないものになってしまう。例えば、「うちは風通しがいい会社だ」「うちは社員を大切にする会社だ」といった評価が、社内の共通認識になっているとします。でも、その裏で「本当にそうなのか?」と違和感を口にする若手や、実際に会社を去っていった人の存在があるかもしれない。誰も異を唱えなくなった瞬間から、その言葉はスローガンとして一人歩きし、思考停止を招いていく。全員が納得し、うなずいてしまう状態は、むしろ思想が死んでいるサインかもしれません。だから「分かり合えない他者」は、自分の信念が「死んだドグマ」になることを防いでくれている存在なのです。
相いれない人からの異論や反論は、面倒だし消耗もする。でも、異論を唱えられ、そこで「攻撃された」と感じて思考を止めてしまうのは、真偽を確かめる機会そのものを手放すことでもある。「反論」という資源を失うことは、どんな立場の人にとっても、実はかなりもったいないことなのかもしれません。
取材・文/金澤英恵 編集協力/山崎綾 構成/大松佳代(日経BOOKプラス編集部)




