稀代の経営者、稲盛和夫氏の逝去から3年。今なお信奉者が多い稲盛氏とは何者だったのか。稲盛氏自身が手本と仰いだ江戸時代後期の農政家、二宮尊徳の生き様と重ね合わせ、稲盛哲学の真意を深掘りした『稲盛和夫と二宮尊徳』から、その内容の一部を抜粋して紹介する。第1回は稲盛氏が「利他の心」に目覚めた京セラ創業期のエピソード。
「利他の心」がいつ、どのような体験によって稲盛の心に生まれたのか。これについては研究者の間でも定説はない。だが、稲盛が「利他」を語る時、必ず引き合いに出すエピソードがある。京セラを設立して間もない頃の社員の反乱だ。
稲盛が京セラの前身となる京都セラミックを創業したのは1959年、27歳の時である。
松風工業退社を決意した際、稲盛には先立つものがなかった。あったのはファインセラミックスの技術と情熱だけ。しかし、才能があり、ど真剣に生きようとしている若者には、いつの時代もカネは向こうからやってくる。
松風時代に稲盛のよき理解者だった上司が知り合いの弁理士に出資を申し入れ、承諾を得る。この上司は親子ほど年が離れている稲盛に惚(ほ)れ込み、京都セラミックの創業と同時にやはり松風を退社し、稲盛に合流した。
稲盛を信頼した上司。この上司をかねて信頼し、長年交友関係にあった資産家の弁理士。そして、この弁理士を信頼し、役員に迎えていた京都の配電盤メーカーの社長。二重三重の信頼の連鎖が300万円の資本金を生み、稲盛はなんとか京セラの船出に漕ぎつけた。この時、「資本と信頼」を工面できなかったら後の成功物語はない。
創業時、書類上は稲盛も資本金の10分の1の30万円を拠出したことになっている。だが、実際は違う。現金ではなく、技術評価の煩雑な手続きを取ったうえでの現物出資だった。配電盤メーカーの社長や資産家らが稲盛に惚れ込んで出資した会社で、稲盛自身は1円も払わず初めから30万円分の株式を持たせてもらったのだ。
感謝してもしきれない温情。稲盛は「いずれ京都一、京都一になったら次は日本一、日本一になったら世界一を目指す」と燃え、彼らの恩を終生忘れることはなかった。
京セラはこうして一歩を踏み出したが、安堵感に浸る暇もなく、稲盛は最初の試練に直面する。
「もし、お前を裏切ったら俺を刺し殺していい」
創業2年後の1961年春。前の年に採用した高卒の社員11人が要求書を携え、稲盛に詰め寄った。要求内容は複数年の定期昇給と賞与の保証。京都セラミックは初年度から黒字を出していたものの、財務に余裕はなく、社員に将来を保証できるような会社ではなかった。
日本社会には60年安保闘争の余波が色濃く残っていた。近代工業国にふさわしい賃金を求めて労働運動も活発化。官民労組の統一闘争として生まれた「春闘」が勢いを増した時期でもあった。
稲盛はこの時のことを『ガキの自叙伝』(日本経済新聞社刊、2002年)でこう振り返っている。
「リーダー格が『これを認めてくれなければみんな辞めます』と思い詰めたようにいう。労働組合の団交みたいだが、彼らにそんな意識はない。(中略)辞めるというのはよほどのことだろう、と話をじっくり聞くことにした」
この頃、稲盛は京都・嵯峨野にあった2間の市営住宅に住んでいた。会社と自宅での話し合いは3日3晩続いた。聞けば、11人は離脱者を防ぐため、血判までしていたという。稲盛は松風工業を辞めて京都セラミックを設立する際、8人の仲間と誓いの血判状に実際に小指を切って署名していた。わずか2年前のことだ。
「血の気の多いところは私とそっくりだ」。そう感じた稲盛は賃上げの保証はできないと申し渡したうえで、「俺が信じられんというなら仕方がない。だが、辞める勇気があるなら、だまされる勇気を持ってくれないか」と語りかけた。自分を信頼して付いてきてほしいと、ひたすら訴え続けた。最後まで納得しなかった社員には「もし、お前を裏切ったら俺を刺し殺していい」とまで迫った。若き日の稲盛の激情を表すエピソードだが、革命家が同志を束ね、率いる時のある種の清冽(れつ)さを感じてしまうのは私だけだろうか。
最後まで引き下がらなかった高卒社員は稲盛の「殺してもいい」の言葉を聞き、折れ、ついには稲盛の手を取って泣き出したという。
このエピソードが重要なのは、稲盛がこの時までは京都セラミックを「自分の技術を世に問うためにつくられた会社」と思っていたことだ。資本を出してくれた人たちへの恩義は忘れてはいなかったが、経営者は社員に感謝しなければならないということに気づかずにいた。実際に社員の反抗に遭ってみて、会社を経営とするはこういうことか、とんでもないことを始めてしまったものだと後悔したと後日、語っている。『ガキの自叙伝』にはこうある。
「数週間にわたり悩んだ末、自分自身を吹っ切るようにこう思った。(中略)会社にはもっと大切な目的があるはずだ。会社経営の最もベーシックな目的は、将来にわたって従業員やその家族の生活を守り、みんなの幸せを目指していくことでなければならない」
稲盛はこの心境変化が、「利他の心」を明確に意識した最初だったと振り返っている。起業した経営者・稲盛にとって、利他とは紛れもない、社員たちのことだったのだ。全従業員の物心両面の幸せを追求する。このフレーズは今も京セラグループの経営理念の一丁目一番地に残っている。
若き社員たちの反乱のエピソードには、利他の精神の芽生えとともに、稲盛の別の特質も隠れている。人に対する「とてつもない優しさ」だ。生来の臆病さが出たのだろう。高卒の若い従業員11人に血判の要求を突き付けられ、稲盛はおそらく怯(ひる)んだ。11人のうちの何人かが辞めても、京都セラミックが歩みを止めることはなかっただろう。しかし、稲盛は一人悩み、寄り添った。
本当の優しさとは誰一人無視しないことだ。無視しないどころか、ど真剣に向き合う。稲盛が人々に抜きん出て愛された経営者となったのは、この並外れた優しさ故だったのだろうと今は思う。
井上裕著、日経BP、2420円(税込み)

