「植民地を放棄して世界を通商の舞台とすべし」。石橋湛山が唱えた小日本主義は、経済データに裏打ちされていた。明治末から第2次世界大戦中に、自由主義の論陣を張った湛山の胆力はすさまじい。藩閥勢力や軍部を批判し続け、戦後は蔵相として占領軍の政策に真っ向から異を唱えた。
終戦直後に「日本の前途は洋々」
「単に物質的の意味でない科学精神に徹底せよ。しからば即ちいかなる悪条件の下にも、更生日本の前途は洋々たるものあること必然だ」
1945年(昭和20年)8月25日号の『東洋経済新報』は「社論」にこんな一文を載せた。表題は、ずばり「更生日本の針路」。8月15日の玉音放送に日本中がぼうぜん自失となるなか、「前途は洋々たるもの」と言い切った人物こそ、石橋湛山(1884~1973年)その人である。
終戦の日の午後3時、彼は疎開先の秋田県横手で横手経済倶楽部の会員を前に講演した。連合国の対日方針を説明し、日本経済の将来見通しを述べて、「少しも心配はない」と伝えたのだ。『東洋経済新報』に数回に分けて掲載した「社論」も同じ趣旨である。
石橋と言うより、湛山(たんざん)と言ったほうが、なじみ深い方も多いはずだ。湛山といえば『東洋経済新報』を舞台に明治期から大正、昭和の戦前、戦中、戦後にかけて自由主義の論陣を張ったジャーナリスト。戦後は政界入りし、首相となるも、病を得てわずか2カ月で退陣した。『 石橋湛山評論集 』(松尾尊兊編/岩波文庫/1984年)に代表的な評論が収められている。
文は人なり。鼻っ柱の強さと飾らない人柄。湛山の肉声が一つひとつの文章から聞こえてくる。いま彼の評論を読み返し思うのは、その眼力と胆力である。データを読み解き、世の大勢に流されず、歯に衣(きぬ)着せぬ指針を示す。そんな姿と言ってもよい。
「更生日本の針路」はただの楽観論ではない。注目すべきは広島と長崎に投下された原子爆弾が戦争の性格を一変させたとの指摘だ。「この爆弾の出現は、今日の世界のあらゆる兵器を無効ならしめた」。とすれば、日本にとって不利な国際環境ではない。そんな見立てだ。
この読み筋は、戦時下でも欠かさなかった丹念な情報収集のたまものである。米英による大西洋憲章からポツダム宣言に至るまで連合国側の対日方針を丹念にフォローしていた。軍部の情報統制から漏れ出てくる事実の切れ端を、パズルのように組み立てていたのだ。
連合国は過酷な賠償取り立てに動くだろう。こう心配する人々に、こと米英についてはその可能性はないときっぱり否定する。朝鮮や台湾を失い、日本は狭い島国に戻る。そうした悲嘆に暮れる人々にも心配無用と断じる。日本国内の産業を振興できるならば、経済を立て直せるというのだ。
「植民地を放棄して世界を通商の舞台とすべし」。この「小日本主義」を戦前から唱えていた湛山の面目躍如である。「朝鮮・台湾・樺太も棄てる覚悟をしろ」。1921年(大正10年)に発表した「大日本主義の幻想」で湛山はそう言い切っていた。
「小日本主義」の背景には経済合理性
植民地支配はもはや世界の潮流ではない。そう明言する湛山の主張がユニークなのは、経済合理性に裏打ちされていた点だ。朝鮮・台湾・樺太を版図に収めても、経済的メリットは乏しく、軍事面での負担ばかりかさんでいく。湛山は日本との貿易額(1920年)を示す。
朝鮮3.1億円。台湾2.9億円。関東州(中国東北部)3.1億円。この3地域を合わせても貿易額は9.1億円にすぎない。これに対して米国との貿易額は14.3億円。インドとは5.8億円、英国に対してさえ3.3億円にのぼる。経済的に重要なのはむしろ米印英のほうだ。
「朝鮮に、台湾に自由を許す、その結果はどうなるか」。植民地を持つ英国や米国は「非常の苦境に陥るだろう」。日本としては「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」で、植民地独立という世界の波頭に立った上で、新たに世界中に広がる自由な市場に接近できる。
残念ながら、1929年の世界恐慌をきっかけに、世界経済は湛山の主張とは正反対のブロック化へと進む。その帰結が第2次世界大戦である。だが戦後の世界に成立したのは、自由貿易を基調としたブレトンウッズ体制である。湛山が注目したのは新たなうねりである。
蔵相として占領軍と火花を散らす
湛山の面白さは眼力にとどまらない。ジャーナリストとして藩閥勢力や軍部を批判し続けた胆力である。戦後の湛山は占領軍を相手に自らの経済政策の立場を譲らなかった。財閥解体を主張する占領軍に対しては、戦後の困難な時期に解体するのは合理性を欠くと反論した。
1946年5月22日に吉田茂内閣の蔵相に就任してからも、湛山は占領軍と激しく火花を散らした。占領軍による野放図な財政支出に異を唱え、戦時補償の打ち切り、国債の利払い停止といった問題で正面衝突した。占領軍からの回答は1947年5月16日付の公職追放処分だった。理由は戦時下の雑誌編集方針。
「アジアに於ける軍事的且つ経済的帝国主義を支持し、…日本民衆に対する全体主義的統制を勧奨した」。ぬれぎぬである。理不尽な追放理由に湛山は真っ向から反論した。『石橋湛山全集 第13巻』(東洋経済新報社/1970年)には、当時の弁駁(べんばく)書や書簡が収められている。
経済問題ばかりでない。『東洋経済新報』編集者としても、湛山は忖度(そんたく)することなく占領軍の否は否として批判した。「進駐米軍の暴行――世界の平和建設を妨げん」(1945年9月29日号)は相当な胆力がなければ書けない一文である。
同年9月22日号には「無条件降伏の意味」を記している。「ポツダムの対日宣言に依るに、無条件降伏を要求されたのは軍隊だけで、日本の降伏は決して無条件ではない」。占領軍に対しても筋を通す姿勢を、湛山はジャーナリストとしても政治家としても貫いた。
湛山の追放は「狂気の沙汰」。当時の識者は連名でマッカーサーに抗議の書簡を送った。そこには芦田均、三木武夫、池田勇人ら後の首相の名も見える。日本の針路が試されるいま、占領下の湛山の言説は改めて読み返すべきときを迎えている。