日ごろから天災に対する防御策を講じなければならないはずなのに、なぜできていないのか。それは天災がめったに起こらず、人が過去の記録を忘れてしまうから。10万人を超す死者を出した関東大震災から100年の今年、寺田寅彦の名言を改めてかみしめたい。
まな弟子が広めた「名言」
1923(大正12)年9月1日正午2分前。東京など首都圏をマグニチュード7.9の大地震が襲った。関東大震災である。内閣府によると、死者10万5385人、全壊、全焼、流失した家屋は29万3387戸。電気、水道、道路、鉄道など生活基盤にも甚大な被害が発生した。
「天災は忘れた頃にやって来る」。関東大震災から100年を経て、改めて寺田寅彦(1878年[明治11年]~1935年[昭和10年])の警句が想起される。物理学者であり、夏目漱石門下の随筆家らしい名言である。名言によくあることだが、本当の言い回しはちょっと違う。
「平生からそれ[天災]に対する防御策を講じなければならないはずであるのに、それができていないのはどういうわけであるか。その主なる原因は天災が極めて稀にしか起こらないで、ちょうど人間が前車の覆轍を忘れたころにそろそろ後車を引き出すようなことになるからであろう」(「天災と国防」/1934年[昭和9年])
「二十世紀の文明という空虚な名をたのんで、安政の昔の経験を馬鹿にした東京は大正12年の地震で焼き払われたのである」「[減災の]残る唯一の方法は人間がもう少し過去の記録を忘れないように努力するより外はないであろう」(「津浪と人間」1933年[昭和8年])
これらの文章は人間の記憶の頼りなさを浮き彫りにして、古びることがない。『 天災と国防 』(講談社学術文庫/2011年)と『 天災と日本人 寺田寅彦随筆選 』(角川ソフィア文庫/同)に収録され、手軽に接することができる。2つの文庫版が2011年に刊行されたのも偶然ではあるまい。この年の3月11日に東日本大震災が日本を襲い、寅彦の先見性が改めて認識されたからだ。
寅彦のこれらの文章のエッセンスを凝縮した「天災は忘れた頃にやって来る」。警句を紡ぎ出したのは寅彦のまな弟子、中谷宇吉郎(1900年[明治33年]~62年[昭和37年])である。寅彦同様に物理学者であり、随筆家でもある中谷は事の経緯を『西日本新聞』(55年[昭和30年]9月11日付)に書き留めている。
「実はこの言葉は、先生の書かれたものの中にはないのである。しかし話の間には、しばしば出てきた言葉で、かつ先生の代表的な随筆の一つとされている『天災と国防』の中には、これと全く同じことが、少しちがった表現で出ている」(中谷「天災は忘れた頃来る」、『 中谷宇吉郎随筆集 』[岩波文庫]所収)
寅彦の随想の中にはない言葉。それをあると思い込んでいた中谷が、「この言葉を引用(?)して『天災は忘れた頃来る』という寅彦先生の言葉は、まことに千古の名言であると書いておいた」という。かくて寅彦のものとされる警句が世に広まった。冷静な観察眼と温かい心を持つ寅彦の人柄が、本人よりも本人らしいこの警句とともに今日まで伝わっているのだ。
文明が進むほど災害は大きくなる
それにしても文明が進んでいるというのに、なぜ災害は繰り返されるのか。私たちがついつい抱きがちの疑問に、寅彦は「いつも忘れられがちな要項」を提示する。「それは文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその激烈の度合いを増すという事実である」(「天災と国防」)。
「[人間は]重力に逆らい、風圧水圧に抗するような色々の造影物を作った。そうしてあっぱれ自然の暴威を封じ込めたつもりになっていると、どうした拍子に檻を破った猛獣の大群のように、自然が暴れ出して高楼を倒潰せしめ堤防を崩壊させて人命を危うくし財産を亡ぼす」
こう続く寅彦の文章は関東大震災から100年を経た我々を、ハッとさせるに十分である。江東ゼロメートル地帯と呼ばれる海抜ゼロメートル地帯、世田谷、杉並、練馬、中野区など、かつての東京郊外に広がった木造密集地域、首都高速道路による環境破壊、容積率緩和による超高層ビルの林立、湾岸埋め立て地での大量のタワーマンション建設――。
『 関東大震災がつくった東京 首都直下地震へどう備えるか 』(武村雅之著/中公選書)は、現在の東京が首都直下地震におびえる要因を列挙する。そのすべてに同意するかどうかはともかく、少なくとも海抜ゼロメートル地帯や木造密集地域について「災害がその激烈の度合いを増す」点は否定できまい。
「デマ」を理詰めで打破
社会生活において震災の犠牲を大きくするのは、人々の不安心理に根差すデマである。震災の翌年である1924年(大正13年)、『東京日日新聞』に寄せた「流言蜚語」には、こんな一節がある。
「大地震、大火事の最中に、暴徒が起こって東京中の井戸に毒薬を投じ、主要な建物に爆弾を投じつつという流言が放たれたとする」。ところが、大規模な毒薬投入を実行するには、毒薬の分量の確保、投入先の指示、実際の運搬作業、毒薬の投入、分量の加減といった一連の作業が必要。人目に付かぬように成し遂げるのは「なかなか大変な仕事である」。
実際に広がった流言を仮定の話としつつも、理詰めで打破する。「適当な科学的常識は、事に臨んで吾々に『科学的な省察の機会と余裕』を与える」。これは流言に浮足立った世間への科学者としての勇気ある一文である。しかも後講釈ではない。関東大震災の渦中にあっても、寅彦自身は井戸への毒薬投入や爆弾投てきの流言をキッパリと否定していた。
「こんな場末の町まで荒らして歩くためには、一体何千キロの毒薬、何万トンの爆薬が入るであろうか、そういう目の子勘定だけからでも自分にはその説は信じられなかった」。1935年(昭和10年)に公開された「震災日記より」。23年9月2日の条にはそうある。
「地震の現象」と「地震による災害」とは区別して考えなければならない。「現象のほうは人間の力でどうにもならなくても『災害』のほうは注意次第でどんなにでも軽減されうる可能性がある」(「災難雑考」/1935年)。これは今日でいう「減災」の考え方であろう。
そもそも地震の予報は可能なのか。「もし星学者が日蝕を予報すると同じような決定的(デターミニスティック)な意味でいうなら、私は不可能と答えたい」「要は、予報の問題とは独立に、地球の災害を予防することにある」(「地震雑感」/1924年)。そして、天災は忘れた頃にやって来る。

