「長期投資家は、行動原理という点で、変わり者であり、習慣に背いており、無謀だと映る」「楽天主義が揺らげば、事業は衰え、息絶える」。“読まざる古典”の代表格、ジョン・メイナード・ケインズの『雇用、金利、通貨の一般理論』(大野一訳/日経BPクラシックス 原題:THE GENERAL THEORY OF EMPLOYMENT,INTEREST AND MONEY/1936年刊)には、現代を生きる私たちが読んで、ハッとする名言が満載だ。翻訳家・故山岡洋一氏の薫陶を受けた大野一氏による新訳をじっくり味わってほしい。
投資家としても有能だったケインズ
年平均15.97%。ジョン・メイナード・ケインズは英ケンブリッジ大学キングスカレッジの基金を、1921年から46年まで運用したが、その運用成績がこの数字だ。同時期に英国の株式相場全体の上昇や配当で得られた収益は年10.37%というから、これを5%ポイントあまり上回る。
『 雇用、金利、通貨の一般理論 』(大野一訳/日経BPクラシックス)の著者は株式や商品の投資家としても有名だが、なかなかの運用成績を残している。「市場変動に惑わされない株投資 ケインズに学ぶ」(*)。今から10年前の2013年6月に、日本経済新聞はケインズ流の投資術を興味深く紹介している。
「正しい投資手法は、その経営内容を理解し、経営陣を信頼する企業にまとまった額を投資すること」。米著名投資家、ウォーレン・バフェット氏が好んで語るこの言い回し。実はバフェット氏がケインズから引いたものだ。
実際の株式市場はその反対に「カルタ取り、ババ抜き、椅子取りといったゲーム」になっている。それは「平均的な人が何が平均的な意見になると考えるかを知力を尽くして予想する」という形の「新聞の美人コンテスト」のようなものだ。『一般理論』で最もよく引用される、「第12章 長期予想の状態」の一節である。読んだつもりになって、ひもとかないままでいるのは惜しい。
「高度な投資の社会的な意義は、私たちの未来を覆う時間と無知という闇の力を打ち負かすことにあるべきだ」。そんな信念を抱くからこそ、ケインズは株式市場を覆い尽くす群集心理に対して容赦ない。ならば誰でも長期投資で臨めるかといえば、そうは問屋が卸さない。
「人生はそう長くはない。人間は性急に結果を求めるし、手っ取り早く儲(もう)けたいという欲望から逃れられない」。投資家ケインズの皮肉が込められている。最もきつい言葉が向けられるのは機関投資家の小田原評定に対してである。
長期投資家の行動原理は「変わり者」
「投資ファンドが委員会・理事会・銀行で運用されている場合、現実に最も批判にさらされるのは、公共の利益に最も貢献している長期投資なのである」。なぜか。というのも、平均的な運用担当者たちから見れば、「長期投資家は、行動原理という点で、変わり者であり、習慣に背いており、無謀だと映る」からだ。
この部分は一般論とは思えない。大学基金を運用した自らに対して、変わり者だといった陰口をたたいたであろう、世の中の紳士たちへの当てこすりが感じられないだろうか。それなら投資信託や保険会社などのプロが慎重な運用をしているかといえば、さにあらず。往々にして短期的な変動に注意を向けすぎているではないか、というのである。
もちろんケインズは、幅広く資金を集め、新規の事業への投資を促す証券取引所の役割を否定したりしない。その一方で、「投資市場の整備が進むにつれ、投機が勝つリスクが高まる」。『一般理論』の刊行から1世紀近くたった今も、このジレンマは解決されないどころか、ますます深まっている。
いつでも売買できる株式市場のおかげで、「社会的には『固定的』な投資であっても、個人にとっては『流動的』なものになる」。そして「投資市場の流動性のせいで、投資が妨げられることもあるが、流動性のおかげで新規投資がスムーズに進むことも多い」。
ケインズにとってキーワードは「流動性」。いつでも売り抜けられると投資家が思うことである。そうすれば「不安が和らぎ、積極的にリスクをとってみようと強く感じる」ようになる。この辺の記述は数式やモデルで覆い尽くされた最近の経済学の教科書ではお目にかかれない、人情の機微を踏まえた息遣いである。
南極探検に比べれば…
長期投資の状態を論じた章の終わり近くで、こうも述べる。「私たちの積極的な活動は、数学的な予想ではなく、無意識のうちに生じる楽天主義に負うところが大きい」。ケインズの言う「活力(アニマルスピリッツ)」である。記述は、身もフタもない代わりに、思わず膝打ちする。
事業の設立趣意書を見よ。それがいかに誠実で、噓偽りのないものであっても、「事業活動は基本的に設立趣意書を基に展開される」というのは、単なる見せかけに過ぎない。そして「南極探検に比べれば、すこしは厳密な予想便益の計算に基づいているといった程度だ」と喝破する。経済学者がすまし顔で解説する「アニマルスピリッツ」とは、そのようなものだ。
ここまでたどれば、1990年に株式バブルが崩壊した後の日本経済の「失われた30年」の意味合いも明らかだろう。「活力が衰え、無意識のうちに生じる楽天主義が揺らげば、数学的な予想以外に頼れるものがなくなり、事業は衰え、息絶える」。記述はリストラばかりに励み、コストカットに精力を注いだ、経営者たちの姿を映しているようでもある。
「個人が起業を決意するのは、…健康な人が死の存在を忘れるように、『結果的に損をするかもしれない』という思いを振り払うことができた場合のみである」。こうしたケインズの洞察は、新たな投資が何倍もの需要を誘発する「乗数効果」や、名目金利が低くなり過ぎると金融政策が効果を失う「流動性の罠(わな)」の理論にも増して、今日の私たちの心に響くものがないだろうか。
「知的な感化などとはまったく無縁だと考えている実務家も、いまは亡き経済学者に束縛されているのがふつうだ」と『一般理論』の最終章は告げる。そう、経済をめぐる出来事は今なおケインズの手のひらの上で踊っているのである。
ジョン・メイナード・ケインズ著/大野一訳/日経BP/2860円(税込み)


