経済産業省、ヤフー、メルカリで情報政策に携わってきた吉川徳明氏は、パランティア・テクノロジーズの共同創業者らが書いた『 テクノロジカル・リパブリック 国家、軍事力、テクノロジーの未来 』(アレクサンダー・C・カープ、ニコラス・W・ザミスカ著/村井章子訳/日本経済新聞出版)を読み進めるうちに、「インターネットは個人の自由と選択を広げるもの」という自らの価値観を問い直すような感覚を覚えた。シリコンバレーの才能を公共的課題へ振り向けるべきだという本書の主張は、なぜ多くの共感を集めるのか。その発想を日本はどう受け止めるべきなのか。吉川氏が日本の文脈から読み解く。

 2026年4月、モーターショーや自動運転技術を視察するため北京へ向かう機内で、すでに話題になっていた本書『 テクノロジカル・リパブリック 国家、軍事力、テクノロジーの未来 』を読んだ。読み進めるうちに、なぜか著者の主張への反発心のようなものが芽生えてくる。自分のこれまでの仕事を否定されたように感じたからだ。

 私は2010年代以降、IT・情報政策の分野で、当初は経済産業省の職員として、その後はヤフーやメルカリの政策渉外の立場で関わってきた。官民いずれの立場でも重視してきたのは、インターネットという新しい技術のもとで、個人の自由や選択をできるだけ広く確保することだった。この価値観は、当時のIT・情報政策に携わる産官学の幅広いステークホルダーに共有されていたように思う。

 反発を覚える一方で、著者らの主張に多くの読者が共感する理由も理解できた。著者が批判するのは、シリコンバレーの才能と資本が広告やSNS(交流サイト)、EC(電子商取引)などの消費者向けサービスに偏り、防衛、医療、教育といった社会の根幹に関わる課題から遠ざかったことである。彼らは、技術をそうした公共的課題に再び向け、国家とテックの関係を再構築すべきだと訴える。

 確かに現実に目を向ければ、個人の自由と選択肢は広がった一方で、アルゴリズムで最適化された情報環境の中で個人は孤立し、社会は分断され、共通の目的や連帯を持つことは難しくなった。国際社会でも、ルールや相互信頼だけでは秩序を支えきれず、武力や覇権が前面に出る世界へと変わりつつある。これが自分たちの望んだ世界かと問われれば、そうではない。

 しかも本書が描く世界観は、すでに日本の政策現場にも現れ始めている。2025年12月、小泉進次郎防衛相はドローンなどを手がける米防衛テック企業Anduril(アンドゥリル)の創業者パルマー・ラッキー氏と面会し、2026年3月には高市早苗首相が、米政府や軍にデータ分析基盤を提供するPalantir(パランティア)の共同創業者ピーター・ティール氏の表敬を受けた。

 2026年5月に政府が策定した「スタートアップ総力創出パッケージ」には「防衛分野のデュアルユース・スタートアップエコシステムの形成」が明記された。政府が規制やルールを定め、企業がそれに対応しながら自由を確保するという2000~2010年代型の関係は残りつつも、政府がスタートアップの大口顧客となり、フィジカルAI(人工知能)や安全保障分野などで補助金などを通じて産業を支える方向へ風向きは変わってきている。

日本でも技術、安全保障、思想の議論が接続

 こうした変化を現場で見ているからこそ、本書のいくつかの論点には距離を置いて考えたい。

 第一に、消費者向けサービスと、著者らが重視する防衛、医療、教育などの分野は、本当に二項対立的な関係なのか。クラウド、地図、決済、画像認識、生成AIなど、巨大な消費者市場で磨かれた技術は、医療、教育、行政、防衛にも応用されている。本書が最大の競争相手として意識する中国も、AI、ロボット、ドローンを国家的に伸ばす一方で、Alibaba(アリババ)、Tencent(テンセント)、ByteDance(バイトダンス)、Meituan(メイトゥアン)のような巨大消費者サービスを発展させてきた。少なくとも、消費者市場の発展と国家的に重要な技術への投資は、単純な二者択一ではない。これは、冒頭の北京出張時、消費者向けサービスと戦略技術の双方が開花する中国の様子を目にして、私自身が強く感じた点でもある。

 第二に、「重要な分野」はそもそも自明なのか。防衛、医療、教育が重要だとしても、それらは介護、住宅、子育て、気候変動、交通などより優先されるのか。分野間の優先順位は誰が、どのように決めるのか。本書が批判する市場には確かに失敗がある。しかし市場は同時に、社会の各個人・企業に断片的に分散する情報や知識を拾い上げ、試行錯誤を通じて資源配分を調整する仕組みでもある。国家や一部の技術エリートが、社会が投資すべき分野を市場より正確に知っている保証はない。

 第三に、本書の視野はかなり米国中心的である。「西側」「自由世界」といった言葉が繰り返されるが、そこで重視される価値や脅威認識には、米国の安全保障観が色濃く反映されている。日本から読めば、その「われわれ」とは誰を指すのかという問いが残る。

 それでも本書が大きな意味を持つのは、技術者・テクノロジー企業と国家の関係はいかにあるべきかという議論を舞台の中心に上げたことにある。日本でも、これまで交わることの少なかった技術、安全保障、思想の議論が接続され始めている。

 カープは本書で、完璧な計画を練ってから動くのではなく、まず作り、現場で直すというシリコンバレー的な開発思想の重要性を繰り返し説く。本書自体がその実践とも言えるだろう。問いを社会に投げ込み、議論を起こす。その点で本書は成功を収めている。だからこそ、その内容は注意深く吟味されなければならない。本書が呼び起こした議論を日本の文脈でどう引き取るかは、私たち読者の宿題でもある。