パランティア・テクノロジーズの共同創業者らが書いた『 テクノロジカル・リパブリック 国家、軍事力、テクノロジーの未来 』(アレクサンダー・C・カープ、ニコラス・W・ザミスカ著/村井章子訳/日本経済新聞出版)は、アメリカが「建国当初から科学技術の国」であると主張し、その繁栄と勝利は、国家とテクノロジーが共通の目的に向かうことで達成されたという物語を紡ぐ。そこから浮かび上がるのは、国家と巨大企業を結びつけるのは利害ではなく、共通の理念や哲学ではないかという問いだ。ノンフィクションライターの石戸諭氏が、その思想的背景を読み解く。
アメリカは「建国当初から科学技術の国」
本書は壮大なアメリカ論だった。
アメリカのメディアでも、著名人の語り口においても顕著なのは、アメリカとはいかなる国なのかというテーマだ。私はこうした語りが日本においても必要だと考えているが、そこはひとまず置いておく。
興味深いのはシリコンバレー発のテック企業にして軍需企業パランティア・テクノロジーズにおいても、そうした定番の語りが繰り広げられていたことだ。勇ましく、大風呂敷を広げるビジネス書でもなければ、ドラスティックな変化を予見する予言書でもない。彼らの主張の核になっているのは、端的に言えばアメリカとは「建国当初から科学技術の国」だったという強固な信念だ。発展を支えてきたのも、第2次世界大戦の勝利もまた科学技術と国家が共通の目的に向かっていたからだという物語が描かれる。
「アメリカは建国当初から科学技術の国、つまりテクノロジカル・リパブリックだった。世界におけるアメリカの地位はイノベーションを創出する能力によって維持され、高められてきた」(32ページ)
だが、そんなアメリカも終わる。アメリカに住むということが、人々にとって共有された経験にはならなくなったのは私たちが思い描く「分断のアメリカ」そのものだ。彼らが主張するところのアメリカの伝統――すなわち「官民協力の伝統に回帰すべき」という話は、より説得力を増すのだろう。
強力なパートナーシップは「哲学」や「理念」を共有
著者の1人、アレクサンダー・カープ氏はドイツ・ゲーテ大学フランクフルト校で文系の博士号を取得した人物であり、国家とは何か、民間とは何か、民主主義とは何かという問いに対して古今東西の哲学を呼び出しながら議論を展開する。
仮想敵の一つは、昨今のエリートが集まるテック企業の経営者や社員である。彼らはグローバルでビジネスを展開し、国家すら超えているかのように振る舞う。彼らは国家プロジェクトの成否に関心を持たないだけでなく、国家もなく市場原理だけがある。著者らはその「なぜ」を探る。
エドワード・サイードのような現代の世界中のリベラル系知識人に大きな影響をもたらした論客を呼び出し、ナショナリズムの解体、西洋文明こそ至上という価値観の崩壊を論じた点も興味深いところだ。
「国を介した共通の文化ひいてはアイデンティティや帰属意識の役割を認めるべきだろうか。認めないなら、空洞化した文化の空隙を埋めるのは消費文化である。消費文化とは、端的に言って、何を買うことができるか、つまりは富と地位によって決まる文化だ。これを許したことは、今日の左派のあきらかな戦略的失敗と言わねばならない」(271~272ページ)
おそらく多くの人が勘違いしているように思えるが――あるいは日本のサブカルチャーでは簡略的に描かれすぎているように思えるが――国家と巨大企業が共同のプロジェクトを進める理由は「共通の利害」ではない。
もちろん利害は重要な要素だが、極めてもろく、すぐに移ろっていく。むしろ共通の「理念」あるいは「哲学」が共有されているときこそ最も強力なパートナーシップを築くのではないか。
パランティア・テクノロジーズ幹部と高市早苗政権との接触も大きく報じられていたが、肝心な点は、最先端のテック企業のロジックは人文知によって支えられているという事実だ。彼らはしたたかに国家とテクノロジーが共通の理念のもと繁栄する「物語」を作る。
さて、日本はどうか。物語の力は強い。備えがなければ、あっという間に取り込まれてしまうだろう。本書を批判するにしても、肯定するにしても思想や哲学といった人文知の知見を軽視してはいけない、というのは単純な結論だろうか。しかし、ジャーナリズムも含めて、日本とは何かという「物語」を描かなければ対抗はできない。
それだけは確かなことのように思える。
