約160の国と地域を網羅し旅行ガイドの定番として親しまれる『地球の歩き方』。コロナ禍で廃刊の危機に見舞われたものの、海外旅行ガイドとしての“型”を打ち破り、国内版シリーズの展開や人気IPとのコラボなどによって、V字回復を果たした。その立役者の1人であり、現編集長の由良暁世さんに、今回は旅心くすぐる本を厳選してもらった。

ダメモトでも動く「旅人マインド」
大学時代に、旅の面白さに目覚めた由良さん。初めての海外旅行はイタリアで、大好きな西洋絵画を鑑賞するために、ローマやフィレンツェなどを2週間かけて周遊した。その後訪れたニューヨークでは、ブロードウェイの観客参加型ライブパフォーマンスを体験したり、フィンランドに行った時は、居心地のよさに「老後はフィンランド暮らしだな」とその気になったり。旅に心を奪われた記憶が、『地球の歩き方』の編集に携わる原体験となっている。
一人旅のときは気の合いそうな人がいたら声を掛けて、一緒に食事を楽しむこともあるそう。同様に、仕事で前例のないことに取り組んだり、今まで出会ったことのない人と接したりすることも、「ある種の旅のように考えて楽しんでいる」から新しい挑戦ができる。
旅先での突然のハプニングを乗り越えた経験から、逆境に動じないマインドが育ち、仕事にも役立っているという。「海外でトラブルに見舞われたとき、必ずしも誰かに助けてもらえるとは限らず、思考停止したら“詰み”ます。だから知恵を絞って、ダメモトでも動き続けなければいけない。その『何とかしようとする力』を、私は“旅人マインド”と呼んでいて、旅を重ねるにつれて鍛えられた気がします。もはや何か起きると、『おー、今回はこう来たか』と想定外の状況を味わう気持ちです」
限られた人だけが行ける、特別な孤島での滞在記
そんな由良さんの旅人マインドを形づくり、読むと旅に出たくなるという愛読書を教えてもらった。1冊目は『 トーベ・ヤンソンの夏の記憶を追いかけて 』(内山さつき著、東海教育研究所)だ。
トーベ・ヤンソンは「ムーミン」シリーズの作者として知られる芸術家で、彼女は長年、夏の時期をクルーヴハルというフィンランドの孤島で過ごした。クルーヴハルは、夏の間アーティストのために貸し出され、滞在するには申請が必要。本書は、著者の内山さつきさんが島に1週間滞在した旅のエッセーだ。「内山さんの文章が好きなんです。ものごとを捉えるまなざしが優しくて。トーベが見た風景や、そこに流れる空気まで情感豊かに伝わってきて、フィンランドが恋しくなります」
本書は単なる滞在記にとどまらない。内山さんがこの島を訪れたのは、月刊誌の編集部で忙しく働き、仕事にも少し行き詰まりを感じていたとき。「『本当は何がしたかったんだっけ』と自分との対話のようなものを通して、考えが変わっていく過程もつづられています。ムーミン好きの人にはもちろん、キャリアに悩んでいる人にもおすすめです」
旅は、決められた「型」に倣わなくていい
2冊目の『 貧乏だけど贅沢 』(沢木耕太郎著、文藝春秋)は、著者と、シンガー・ソングライターの井上陽水さんや作家の群ようこさん、俳優の故・高倉健さんらとの対談をまとめたものだ。テーマは「人はなぜ旅をするのか?」。由良さんが本書を初めて読んだのは、学生時代だった。
「沢木耕太郎さんの代表作といえば紀行小説の『 深夜特急 』(新潮文庫)ですが、対談というのは、予期せぬ問いを投げかけられることもあって、用意していた言葉が使えなかったりするもの。その分、話し手の素の部分が見えるから好きなんです。井上陽水さんは、ふらりと空港に行って、そこで初めて行き先を決めるような旅をしていたとか。旅は、100人いれば100通りのスタイルがあるものだな、としみじみ思いました。たとえツアーで行っても、見方や感じ方は人それぞれ違いますから。そう考えると、旅には正解も不正解もありませんね」
群ようこさんは本書で、ハワイの魅力について語っている。由良さんは、自身が感じるハワイの魅力と重なるものを感じてうれしくなったという。
「ハワイは、とてもメジャーな観光地ですが、訪れた人がもれなく好きになる不思議な場所です。私が初めて行ったのは学生時代で、案の定、大好きになりました。何がいいかって、風がいいんです。オアフ島の空港に降り立って、温かくてちょっと湿った風に包まれるなり、ハワイ最高!という気分になります。群さんも、ハワイの魅力について『空と海』というふうに答えていて、深く共感しました」
好きな小説の舞台を訪れる旅
小説『 ここに地終わり 海始まる 』(宮本輝著、講談社文庫)も学生時代に読んで、物語のカギになる場所を旅したという。
「物語は、長年療養生活を送る主人公の女性の元に突然、ユーラシア大陸の最西端に位置するポルトガルのロカ岬が写った絵はがきが届くことから始まります。舞台としてロカ岬が登場するわけではないのですが、この小説を読んで、無性にロカ岬に行きたくなり、大学の卒業旅行で訪れました。岬には石碑が立っていて、そこに刻まれているのがポルトガルの詩人ルイス・デ・カモンイスの叙事詩の一節、本書のタイトルでもある『ここに地終わり 海始まる』です。意味は、目の前は大西洋で、陸にいる人にとってはここが“終わり”だけれど、航海者にとってはこの海は未知なる世界への入口で、“始まり”である。この旅を終えたら、社会という大海原に飛び込んでいくんだなあと考えたことを覚えています」
一昨年、仕事でロカ岬を再訪した由良さん。『地球の歩き方』に携わって四半世紀、『地球の歩き方』の編集長に就任してからのことだった。「まさか再び訪れるとは思っていませんでしたが、経験を重ねて自分の役割も変わり、会社もコロナ禍での大きな危機を乗り越えて復活し…。岬の先端で大西洋からの強風に煽られながら、また新たな航海が始まるような、胸の高鳴りを覚えました」
憧れの旅人で尊敬する仕事人
旅行ジャーナリストの故・兼高かおるさんと言えば、テレビ番組「兼高かおる世界の旅」(TBS)を思い出す人も多いだろう。1959年から90年まで31年間も続いた長寿番組で、訪れた国は150カ国余り。その経験に基づいて書かれたのが『 わたくしが旅から学んだこと 』(兼高かおる著、小学館)だ。
「旅好きの私にとって兼高さんは学生時代から憧れの存在でしたが、社会人になって本書を読み、彼女の仕事人としてのすごさを再認識しました。番組のナレーター、ディレクター、プロデューサーなど何役も務めながら、全ての国に自分の足で訪れて自分の言葉で紹介し、各国の要人とも堂々と渡り合う。このような方は、後にも先にもなかなかいないのではないでしょうか」
兼高さんの現場主義は、由良さんも大切にしていることだ。世界のありとあらゆる国と地域をカバーしている『地球の歩き方』の制作は、外部スタッフの力を借り、編集部員はプロデューサーとして全体を統括する役割を担う。それでも由良さんは、「できるだけ自ら現地に足を運んでリサーチしたい」と話す。「私は不器用なタイプで、机に向かって考えるよりその場の空気を肌で感じたほうが、その魅力をずっと上手く伝えられるんです」。多忙な中でも時間を見つけては旅をする。
旅人の体験談を集めたことが成り立ちだという『地球の歩き方』。その精神は今も引き継がれ、現地に立っているかのような臨場感のある情報が、根強い支持につながっている(次回へつづく)。
取材・文/茅島奈緒深 構成/大松佳代(日経BOOKプラス編集) 写真/洞澤佐智子、スタジオキャスパー(『ここに地終わり 海始まる』)



