稀代の経営者、稲盛和夫氏の逝去から3年。今なお信奉者が多い稲盛氏とは何者だったのか。新刊『稲盛和夫と二宮尊徳』の著者・井上裕氏が、金澤しのぶ稲盛財団理事長を訪ね、「父・稲盛和夫」と彼が遺した財団の使命について聞いた。その第3回。「父の危機感」を継ぐ覚悟と、未来につなぐ新たな試みについて。
精神的深化を伴わない科学の発展は人類の不幸につながる
父が私財を投じて稲盛財団を設立したのは1984年、52歳の時でした。もう40年以上も前のことになります。設立翌年から始めた国際顕彰事業の「京都賞」は今年、第40回の節目を迎えることができました。これも選考委員の方々をはじめとする皆さまのおかげです。
今回の「先端技術部門」の受賞者は、数理工学者で帝京大学特任教授の甘利俊一さんという日本人です。人工知能(AI)の理論的基盤を拓く先駆的貢献と、「情報幾何学」という学術分野確立への貢献が授賞理由だったと聞いています。
「基礎科学部門」では発生生物学者のアジム・スラーニさん(英ケンブリッジ大学ガードン研究所研究ディレクター)、「思想・芸術部門」では心理学者のキャロル・ギリガンさん(米ニューヨーク大学ユニバーシティ・プロフェッサー)の受賞が決まっています。

スラーニさんは「ゲノムインプリンティング」(遺伝子が父親由来か母親由来かに応じて発現が制御される現象)の研究を通じて、生命科学の広範な分野にわたる基盤的知見の形成に貢献されたこと、ギリガンさんは女性の思考と行動の分析を通じて、従来の心理学理論の歪みと限界を指摘されたことが授賞理由になりました。ギリガンさんは「ケアの倫理」という考えを提唱しています。「ケア」の観点を女性の道徳観として劣位に置く従来の理論に異議を唱え、女らしさ、男らしさに分断されることのない共感や相互依存で生まれる他者への配慮の必要性を訴えています。
授賞式と記念講演会はそれぞれ11月10日と11日に開かれる予定です。
京都賞はこれまでに、今回を含めて3部門で126人と1団体を表彰してきました。ひと口に表彰といっても選考委員の方々は大変です。ご自分が専門とする分野から受賞者を選ぶ時もあれば、専門外から選ばなくてはならない時もある。だから、膨大な資料を読み込まなくてはいけないし、都度喧々囂々の議論になる。選考過程の厳正さを取り上げて、委員の方々から「京都賞はよくやっているね」と言われることが本当にうれしいし、誇りです。
父は生前、「人類の精神面における研究が科学に対して大きく後れをとっている」ことに強い危機感を抱いていました。精神的深化を伴わない科学の発展は人類の不幸につながると考えていたからです。

世界は今、まさにそうなっている気がしてなりません。他人を思いやる気持ちが少しでもあったらできないことが平然とやられている。それを止める人もいなくなってしまったのかと。普通、バチが当たりますよね。
京都賞では、理系2部門の受賞者の方々が口々に「京都賞は思想・芸術部門があるのが非常にいい」とおっしゃっていただけるのが、私にとっても強い励みになっています。
新しい試みに届いた、6300もの“キヅキ”の声
稲盛財団は京都賞以外でも、若手研究者への助成を拡充したり、子供に気づきを促すための「こども科学博」を開いたり、新しい試みを始めています。
「こども科学博」は、「こどもたちが不思議を見つけて、自ら深め、連鎖的に増やすことを応援する」ことをコンセプトとする「こどものキヅキ応援プロジェクト」のメインイベントです。夏休みの時期に京都で開催します。2019年に始めましたが、コロナ禍で中断。2025年で4回目を迎えます。

海外には博物館とか自然科学館とか、子供が科学に触れられる施設がたくさんありますよね。でも、京都には少ない。ちょうど私が副理事長として財団に入った2016年ごろのことです。京都賞のような出来上がった顕彰事業だけでなく、子供たちに科学の面白さをわかってもらうような仕事もしたい。財団の若い職員からそんな声があがり始めていました。
私も、それいいね、と。2019年に「こども科学博」として思い切って初めてのイベントをやりましたら、子供たちも、私たちもあまりにも楽しくて。今では職員も私ものめり込んでしまって(笑)。2022年には身の回りの不思議を見つけるウェブサイト「キヅキランド」をオープンしました。それをツールにして学校などの教育の現場でも使ってもらうようにできないかと今、考えています。
将来、すごい研究者になるであろうお子さんがここにいたとします。その子が裕福な家庭の子供であれば、親が学校以外でも、いろいろ科学に触れる場所に連れていくことは可能でしょう。でも、格差の時代。チャンスが行き届かないのは、やはりちょっと不平等だと思います。貧しさに苦しむ子供でも、学校などで普通に科学を楽しみながら学べるようにしたい、と考えるのはそのためです。
今年8月1日から3日間開いた「こども科学博2025」には、延べ6200人もの方々のご来場をいただきました。今回のテーマは「体感するからだ」です。実は知らないことだらけの自分の体について、臓器や細胞、五感の働きなど、科学の視点から不思議を発見してもらおうと、体験コーナーを設けて楽しく学んでいただきました。
子供たちからは「栄養液を細胞の上に乗せたりして楽しかった。細胞たちの個性とか役割がわかりました」「においは何のためにあるか? おそらく最初は食べ物を見つけるためだったとかわかっておもしろかった」「類人猿とヒトの比較がおもしろかった。ヒトの脳が大きいことがよくわかった」などの“キヅキ”の声が寄せられています。ご家族を含め、“キヅキ”の声は約6300にものぼりました。
6年間、財団の理事長を務めさせていただき、少し疲れたかなと思う時はあります。自分の人生、なぜこうなったのだろうと思うこともあります。実際、以前想像した人生とは全く違うことが起きているのですから。
でも、おかげさまで今、ものすごく充実した生活を送っています。どちらかというと、好奇心が旺盛なもので(笑)。今の仕事が合っているのかもしれません。父も好きな仕事をやることほど楽しいものはないと言っていましたが、私も楽しくやらせてもらっています。(談)

井上裕著、日経BP、2420円(税込み)
