第2次世界大戦で、機動戦を得意としたドイツ軍は、破竹の勢いでソ連に進撃しました。しかし、スターリングラードの市街地に突入すると、強みだった戦車の機動力を封じられ、建物の1部屋を奪い合う消耗戦へと引きずり込まれてしまいます。ソ連軍による大逆転の背景には、どんな戦略があったのでしょうか。日経ビジネス人文庫『知略の本質 戦史に学ぶ逆転と勝利』(野中郁次郎、戸部良一、河野仁、麻田雅文著)の第1章(担当:麻田雅文氏)から抜粋・編集してお届けします。
追い詰められたソ連軍
スターリングラードは、ボルガ河沿いに19キロの市街地が広がる、44万人あまりの街だった。ロシア南部でも有数の工業都市で、戦車T-34の生産拠点でもある。最高指導者の名前を冠した街だが、ソ連では戦略的に重視されていたわけではない。そのため、ここが主戦場となって、不意を突かれるかたちとなった。
1942年7月17日、ドイツ軍はスターリングラード攻撃を開始した。そして9月3日にはスターリングラードの包囲網を完成させた。スターリンは、街の北と北西から救援軍を送るよう命じたが、包囲を解くことができず、ソ連軍は撃退された。もはや街の陥落は時間の問題と思われた。立て直したのは、ある将軍だった。
猛将チュイコフ
9月10日、スターリングラード防衛を担うソ連の第62軍司令官が交代した。新司令官は、ヴァシリー・チュイコフ中将である。チュイコフは農家に生まれながら、ロシア革命後の内戦で、一兵卒から将軍にまで出世した叩き上げだ。彼は、1939年のフィンランドとの冬戦争で指揮をとって敗北した。スターリングラードで指揮をとるのは、名誉挽回のチャンスでもあった。
チュイコフが着任した9月12日の時点で、敗色は濃厚だった。すでにソ連第62軍は砲爆撃によって分断されつつあり、各師団の兵士も定数をはるかに下回っていた。兵士たちの食糧事情もきわめて悪かった。ようやく9月12日になって、ソ連軍中央食糧補給部は補給計画を出しているが、時期を逸した計画は役に立たず、兵士たちは馬をふくめ、あらゆるものを食べて飢えをしのいでいた。
急に冷え込んだ気候も、両軍を苛(さいな)む。ドイツ軍には、冬服が支給されていなかった。ここでの長期戦は想定外だったためだ。
1942年9月14日午前6時半、ドイツ軍は総攻撃を開始した。ドイツ軍は三方向から市街に突入する。この日、早くもドイツ軍は街の中心部に達した。9月22日には、チュイコフの第62軍は南北に分断され、市街地の大半もドイツ軍の手に落ちた。あとはボルガ河の船着き場を制圧して、対岸からソ連の援軍が上陸するのを阻止すればよい。ニキータ・フルシチョフをはじめとするスターリングラード方面軍の幹部は、戦闘が激化すると、スターリンに後退を乞い、街の中心部からボルガ河を隔てた対岸に移動した。しかしチュイコフは、市内の小高い場所(ママイの丘)に司令部を置き、前線での指揮を続けた。ママイの丘が陥落しても対岸に移らず、船着き場を死守しようとした。
チュイコフは、兵士たちを過酷な前線に叩き出す。ただ、自らも最前線で砲火に身をさらし、兵士たちと生死をともにしたので信頼された。戦時中に、彼はこう言っている。「ドイツの砲弾にいちいち首をすくめるくらいなら、頭をすっ飛ばされたほうがましだ。これが指揮官の心得だ。兵隊はそういうことをちゃんと見ている」(アントニー・ビーヴァー、リューバ・ヴィノグラードヴァ編『赤軍記者グロースマン 独ソ戦取材ノート1941-45』川上洸訳/白水社)
また、こうも語っている。
「ここでは、いかなる弱さも見せてはならない」「司令官は数千人の部下が死ぬのを見るが、そのことで動揺はしない。涙を見せていいのは、一人のときだけだ。最良の友がここで死んでも、巌(いわお)のように立ち続けなければ」(Hellbeck, Stalingrad)
過酷な戦場に兵士たちが耐えられたのは、スターリングラードの重要性を認識し、援軍は必ず来るという希望を共有していたからだと、チュイコフは高く評価している。現場の指揮官と部下の信頼関係の強さが、ソ連軍の最後の頼みの綱だった。

接近戦に持ち込む
街に踏みとどまるチュイコフの第62軍は、大砲も戦車も尽き、歩兵に頼るしかなかった。そこでチュイコフは、10人以下の小隊を市内の各所に配置し、ドイツ軍を迎え撃つ。
ドイツの砲爆撃で、街の中心部は瓦礫(がれき)と化していた。そこにドイツ軍は戦車を突入させ、歩兵を続かせた。電撃戦の定石(じょうせき)である。
しかし、ドイツ軍が自らつくり出した瓦礫の山は、市民のつくったバリケードとともに、戦車の行く手を阻む。さらに、あらゆる建物が破壊されて、数メートル先の見通しも利かなくなっていたため、ソ連兵が身を隠すのにうってつけだった。戦車には正面から挑んでも勝ち目はない。そのためソ連兵たちは、瓦礫の陰にひそみ、ドイツ軍の戦車を待ち構えた。
まず、おとり役の兵士が、手榴弾(しゅりゅうだん)を投げ込むか、あらかじめ埋設しておいた地雷でドイツ軍の戦車を止める。すると、建物の上階や屋上に陣取る兵士たちが、対戦車砲や対戦車銃を撃ち込んだ。当時のドイツ軍の戦車は上部の甲鉄板が薄いため、戦車のなかにまで弾や破片が貫通して、搭乗員は負傷する。戦車は主砲を真上に向けることができないから、頭上からの攻撃は弱点だった。たまらずに戦車からドイツ軍の兵士たちが這い出すと、物陰にひそんでいたソ連軍兵士たちとの白兵戦となる。ソ連軍の兵士たちが手にする武器は、至近距離での戦闘に向く拳銃や、研いだスコップだった。スコップは瓦礫の街では欠かせない工具でもあった。ただ、接近戦に持ち込む前に、ドイツ軍の戦車に見つかってしまえばソ連兵が死ぬ、捨て身の戦法だ。

「ネズミたちの戦争」
スターリンも、接近戦を追認した。10月5日に発せられた、スターリングラード方面軍司令官アンドレイ・エレメンコ大将への指令には、こうある。ドイツ軍はボルガ河の船着き場に、街の中央と南、北の3方向から迫ってくる。それを食い止めるには、「スターリングラードの、すべての家と街路を要塞にする必要がある」。
ソ連兵たちは、市内の集合住宅を即席の要塞に変えた。たとえば、ある建物では地下1階の壁に穴を開け、対戦車砲を配備する。2階や3階には機関銃が配備され、ドイツ軍が近づくと乱射した。最上階には狙撃兵と、ドイツ軍の戦車を見つけるため監視兵が陣取った。さらに、屋根裏には迫撃砲が据えられる。
こうして、生活の場は陣地に早変わりした。ソ連軍は、建物を見つけては立て籠もることを繰り返す。ドイツ軍も建物を奪おうと強襲する。その結果、1部屋まで奪い合う、壮絶な市街戦が繰り広げられる。それまで、1日に数十キロを進軍してきたドイツ軍は、寝室や台所を奪うのに1日を費やすようになった。ドイツ軍は、市街戦の罠にかかったのだ。
チュイコフは、建物の制圧方法をマニュアル化して、兵士たちに教え込む。まず、密かに建物に近づき、入り口へ手榴弾を投げ込む。そして、煙で視界がさえぎられている屋内へ突入し、軽機関銃を乱射する。奥に進み、次の部屋にも手榴弾を投げ入れ、突入する。これを、建物を占拠するまで繰り返す。現在も、各国の特殊部隊が採用している戦法だ。
一方、市外のドイツ軍は、爆撃や砲撃で市内の味方を掩護(えんご)できなかった。なぜなら、市街地を占領しつつある味方に当たってしまい、同士討ちの危険性が高かったからだ。結果として、ドイツ軍も歩兵を前面に出して戦ったので、スターリングラードの戦いは苛烈な肉弾戦となっていく。ドイツ軍の兵士たちは、瓦礫の街を這いずりまわる自分たちへの自嘲をこめ、「ネズミたちの戦争」と呼んだのだった。
独ソ戦、英独戦、インドシナ戦争、イラク戦争の4つの戦史をもとに、不利な状況から逆転するための戦局眼を解明。経営学の世界的権威である野中郁次郎氏らがまとめた野心作。有事のリーダーシップが求められる今こそ必読。
野中郁次郎、戸部良一、河野仁、麻田雅文著/日本経済新聞出版/1320円(税込み)
