独自の視点で物語と世相を読み解く、文芸評論家の三宅香帆さん。新著『 「夫婦」不在社会 』(講談社)ではパートナーシップに焦点を当て、現代の物語における「夫婦の不在」を指摘している(詳しくは 第1回 )。本書は、村上春樹氏の小説が多く引用されている。「村上春樹作品が描く夫婦の物語はひと味違う」と三宅さん。その真意を聞いた。
特別な存在に思っている、短編小説『眠り』
とにかく好きで、「この作品ほど『小説』というジャンルそのものを信頼させる作品を他に知らない」と言い切れるのが、1989年に発表された村上春樹さんの短編『眠り』です。漫画やドラマ、映画や音楽でも、これほどまでに「自分の心の奥底にあるものをすくい上げてくれた」と感じる作品と出合ったことはありません。だから今も小説を読んでいる――そう思えるほど、私は『眠り』を何か大切な存在だと感じています。
主人公は、ある日突然眠れなくなった歯科医の妻の「私」で、男性の語りが多い村上春樹作品においては異色のもの。「私」は30歳のある日、金縛りにあって悪夢を見て以来、一睡もできなくなるのです。プールでたくさん泳いで体を疲れさせても、ブランデーを飲んでも、目はさえるばかり。体の不調は何もなく、ただ、眠りを欲しないだけ。夫と子どもはこの異変に気付かず、「私」は眠らない日々の中でトルストイの『アンナ・カレーニナ』を読みふけり、夫の目を気にして食べるのをやめていたチョコレートを貪ります。そして、ふと「私は死ぬのだろうか」と想像し、「もし私がこのまま死ぬとしたら、私の人生というのはいったい何だったんだろう」と振り返ります。
この作品をひもとくと、家父長制の中で生きづらさを感じている妻・母としての「私」を描いた物語として読むことができます。というのも、歯科医の夫は「私」のことをうっすら見下している様子が見て取れるんです。妻の愛車を「君のロバ」と呼んだり、「私」が夫の好きなクラシック音楽がどれも同じに聞こえると言うと、「違いなんかわからなくたっていいさ」と返したり。そうした描写に、なんともまあ、と思わずにはいられません。
『眠り』は短編集『 TVピープル 』(村上春樹著、文春文庫)に収録されています。「村上春樹作品に何度もトライしているけどうまくハマれない」という人、特に女性におすすめです。
夫婦のディスコミュニケーションを描いた名作
夫婦の物語というと、『 ねじまき鳥クロニクル 』(村上春樹著、新潮文庫)も素晴らしいと思います。1994~95年にかけて刊行された3部作(文庫版は全3巻)なので、ぜひ時間のあるときに手に取ってみてください。私にとって、現代の夫婦関係を語る上で外せない作品です。
本書は、気持ちや考えを言葉にせず「黙る」ことが当たり前になっている夫婦、トオルとクミコの話です。冒頭でトオルが牛肉とピーマンのいため物を作るシーンが、好きなんですよね。クミコは「私が牛肉とピーマンのいため物が大嫌いだということを、あなたはいつまでたっても知ろうとしない」と指摘する。この、どこかで知っているイライラ・モヤモヤする風景を描くのが、村上春樹さんは本当に上手で。女性に多いと見られる何とも言語化しづらい感情も、ディテールまで現実味を伴って描くので、「よく書けるな…」とうなってしまうときがあります。
「牛肉とピーマン」は、トオルとクミコが長らく蓄積してきたものの一部にすぎず、『ねじまき鳥クロニクル』はこの夫婦のディスコミュニケーションから始まります。この気まずいやり取りの後、彼女は置き手紙を残して失踪し、妻を取り戻すために夫は行動を起こす――という物語。終盤でトオルは、クミコに「今度はどこにも逃げないよ」と告げます。夫が妻に「今度はどこにも逃げないよ」と言う物語が、日本に、他にどれだけあるでしょうか。
夫婦の問題に悩んでいる人はもちろん自分自身の体験を投影できますし、人生で後悔していることがある人、仕事と家事に追われて生活がパンク寸前の人にも読んでほしい作品です。なぜなら、私は本作を読むと、ちょっと落ち着いて自分の人生に向き合おう、という気持ちになれるから。パンク寸前の時って、自分がしたいことは何か、そもそも自分とは何か、よく分からなくなりますよね。そんな状態で、問題解決のための実用書などを読んでも何も頭に入らない気がします。答えを求めて集めた情報に、欲しい答えが見つからないということは多いですし。
他者との関係を見つめ直せる『女のいない男たち』
2014年に発表された『 女のいない男たち 』(村上春樹著、文春文庫)は、失踪や死別などで妻を失った男性主人公が多く登場する短編集です。男性側から夫婦関係を見つめ直す話が中心になりますが、きっと女性も興味深く読めて、夫婦関係や身近な人との関係について見つめ直すきっかけになると思います。もし自分が大切な人を失ったらどうするだろう…と自然と考えが巡る本です。
本書には、21年に濱口竜介監督で映画化された『ドライブ・マイ・カー』も収録されています。『ドライブ・マイ・カー』は、男性俳優の家福(かふく)が、寡黙な女性運転手のみさきを雇うところから始まります。家福は、妻との間に娘が生まれましたが、生後間もなく亡くなり、その後、妻は不倫を重ねるようになります。親友のように何でも話せる夫婦だったのに、彼女の不倫の理由は理解できないまま、死別してしまう。そんな家福が心の整理をするきっかけになるのがみさきです。娘が生きていたら同世代であるみさきの存在によって初めて、家福は過去の傷と向き合うことになるのです。
ちなみに、小説と映画でみさきの家福への“寄り添い度”が異なります。映画では、みさきは家福の傷を癒やす存在ですが、小説のみさきは淡々とした態度を貫きます。どちらも、それぞれの良さがあるんです。濱口監督の変更の意図は分からないのですが、もしかしたら時代に合わせたアップデートがあったのかもしれません。映画は印象的なショットが多くて画作りの美しさにも感動しますし、小説は、「村上春樹さんの書きたいことはこういうことなんだな」と考えながら堪能できます。ぜひ、両方の世界観に浸ってみてください。
以上の作品は、どれも夫婦の深いテーマを内包していて『 「夫婦」不在社会 』で詳しく評論していますが、小説の展開や文章表現そのものを楽しむ読み方も大いにアリです。私自身も、小説を読んだ後にいろんな評論を読み、「なるほど、そういう読み方・捉え方もできるのか」と気付くことがあるので、「深く読み取れなかった」などと肩を落とす必要はまったくないと思います。
取材・文/茅島奈緒深 構成/大松佳代(日経BOOKプラス編集) 写真/洞澤佐智子、スタジオキャスパー(書影)




