「死にたくない」「長生きしたい」……人類はこの感情を原動力に、都市をつくり、科学を発展させ、文化を築き上げてきました。そして、「死」がもたらす人生の有限性が、一人ひとりの人生の充実に大きな役割を果たしているといいます。それはいったい、どういうことなのでしょうか。哲学博士で、ケンブリッジ大学「知の未来」研究所(Leverhulme Centre for the Future of Intelligence)エグゼクティブディレクター兼シニアリサーチフェローのスティーヴン・ケイヴ氏による著書 『ケンブリッジ大学・人気哲学者の「不死」の講義』 から一部を抜粋し、ビジネスパーソンの教養となり、今をより豊かに生きるための考え方を紹介します。1回目は、「人は必ず死ぬ。しかし誰もが、自分の死を正しく想像できない」ということについて。

人類を突き動かす「永遠」への熱望

 私たち人間は、他のあらゆる生き物同様、果てしなく生を追求するよう駆り立てられている。だが、生き物のうちで唯一私たちだけが、その追求の過程で目覚ましい文化を創出して瞠目(どうもく)すべき芸術品を生み出し、豊かな宗教伝統を育み、科学の物質的業績と知的業績を積み上げてきた。そのすべては、「不死」を手に入れるための4つの道をたどることを通して成し遂げられてきた、というのが私の主張だ。

 不死への意志が文明の根本的な推進力であるという主張を初めて耳にしたら、疑いを抱く人もいるだろう。

 「そのような意志はあまりに抽象的であり、日々の活動の背後にある本能たりえないであろう。あまりに神秘的なので、サルから進化したヒトという生物の行動は説明できそうにない」というのだ。

 だが、私たちの永遠への熱望の起源は、神秘的でもなければ抽象的でもない。その正反対で、これほど自然なものはありえないだろう。私たちが未来まで生き延びようと奮闘努力するのは、人類の長い進化の遺産の、直接の結果にすぎない。

 あらゆる生命形態に唯一共通するのが、生き永らえ、子孫を残そう、つまり、未来まで存続しようとする傾向だ。どれほど大きな山でも、甘んじて浸食を許す。微細な砂粒が黙って海の波に洗われるのと何ら変わりはない。だが、どれほど小さな生き物でも、風雨や捕食者の攻撃には全力で立ち向かう。生物以外の宇宙の特徴である無秩序に陥るまいとして闘う。生き物はまさにその本質上、はなはだしい不利をものともせずに持ちこたえるための、動的なシステムなのだ。犬であろうと、ミミズであろうと、アメーバであろうと、生き物はひたすら生き続けることのために間断なく奮闘する。永続するためのこの努力こそが、生の本質だ。

 進化生物学者リチャード・ドーキンスが言うとおり、「私たちは生き残るためのマシンだが、『私たち』とは人間だけを意味するわけではない。そこには、あらゆる動物、植物、細菌、ウイルスが含まれる」のだ。これは、現代生物学では自明の理となった。何らかの形での自己保存あるいは自己複製は、「生命とは何か」という定義には必ず含まれている。

 自然選択による進化の過程は、なぜそうならざるをえないのかを教えてくれる。多様性に富んだ個体群の中では、生き延びて子孫を残すのが最も得意な生物が自らの遺伝子を次世代に伝える。身の回りに見られる猫や樹木や昆虫のどれであれ、今存在しているのは、祖先が自らと子孫を維持するのに最も長(た)けていたからにすぎない。

 したがって、生き永らえて子孫を残すことを通じて、未来まで首尾良く生き延びられるかどうかが、まさに進化の勝者と敗者の分かれ目なのだ。

 そして、私たち人類に関していえば、直感や複雑な情動や私たちの洗練された推論の過程はみな、生存という目的に、直接的あるいは間接的に貢献するために存在していることが、卓越した神経科学者のアントニオ・ダマシオによって示されている。

 生物人類学者のジェイムズ・チザムはさらに推論を進め、あらゆる価値はこのたった1つの目標から生じるとし、その目標とは、「そのために身体が存在している複雑な活動、すなわち無期限の持続」である、と述べている。

 ドイツの哲学者アルトゥール・ショーペンハウアーは、この根本的な衝動を単に「生への意志」と呼んだ。とはいえ、時間の制限はない──チザムの言うとおり、私たちが望む持続は「無期限」だ──から、むしろ、永遠の生への意志、あるいは、不死への意志と呼ぶべきだ。

 文明という営みの大半を含め、私たちの成すことのじつに多くが、「不死」への衝動によって説明できるのだ。

人は必ず死ぬ、しかし誰もが「自分の死」は受け入れられない

 私たち人間を際立たせているのは、大きくて接続性の高い脳だ。この脳も、私たちが自らを無期限に存続させるのを助けるために進化したのであり、生存のための奮闘には大いに役立つ。

 私たちは、自分自身や、未来や、さまざまな可能性を自覚しているので、適応し、精緻な計画を立てることができる。だが、自分自身に関して、恐ろしいと同時に不可解な視点を持つことにもなる。私たちの強力な知性は、私たちも身の回りの他のあらゆる生き物同様、いつの日か死なねばならないという結論に情け容赦(ようしゃ)なく至る。それにもかかわらず、その一方では、私たちの頭脳には1つだけ想像できぬものがあり、それは、死という、自分が存在しない状態そのものだ。それは文字どおり、考えられない。

 したがって、死は不可避かつ信じ難いものという印象を与える。これを私は「死のパラドックス」と呼ぶ。

 このパラドックスの両面は共に、同じ見事な認知能力から生じる。約250万年前に現生人類の直系の祖先であるホモ属が出現して以来、人間の脳の大きさは3倍になった。それに伴い、概念にまつわる一連の非常に重要な革新が起こった。

 第一に、私たちは自分を他者と別個の個体として認識している。これは、大きな脳を持つほんの一握りの種に限られた特質であり、高度な社会的相互作用に不可欠と考えられている。

 第二に、私たちは未来について詳しい考えを持っているので、あらかじめ計画を立てたり、それを変更したりできる。これもまた、他の大多数の種では見られぬ能力だ(珍しい例外の1つに、スウェーデンのフールヴィック動物園のチンパンジーの事例がある。そのチンパンジーは、日中に来園者に投げつけるための石を、夜のうちに拾い集めておいた)。

 そして第三に、私たちはあれこれ可能性を検討し、目にしてきたものを一般化しながら学習したり、論理的に考えたり、既知のものから未知のものを推測したりでき、さまざまな筋書きを思い浮かべられる。

「人間の死亡率は100%である」ということ

 生き延びる上でこうした能力が有利に働くことは明らかだ。マンモス猟の落とし穴からスーパーマーケットの供給網まで、私たちは必ず必要を満たせるように、物事を計画し、調整し、協力することができる。

 だが、こうした能力には代償も伴う。自分や未来についての概念を持ち、身の回りで目にするものに基づいて未知のものを推測したり一般化したりできるなら、仲間がライオンに殺されるのを目撃した場合には、自分もライオンに殺されうることに気づく。そのせいで、いざというときのために槍(やり)の穂先を尖(とが)らせて備えておくようなら役に立つが、不安も生まれる。死という未来の可能性を現在に呼び込む。

 そして、生きとし生けるものはすべて死を免れないことに気づく。死こそ真の敵であることを悟る。強力な頭脳を使い、鋭い槍や頑丈な門、満杯の食料貯蔵庫、病院などによって、この敵をしばらくは食い止めることができるが、同時に、すべては結局無駄で、いつの日か自分が死にうるだけではなく、確実に死ぬことがわかる。

 これこそ、20世紀のドイツの哲学者マルティン・ハイデッガーが「死に向かう存在」という有名な言葉で表現したものであり、彼はこれこそが人間の境遇にほかならないと考えた。

 したがって私たちは、強力な頭脳に恵まれているものの、同時に、死ぬだけではなく、死なねばならぬことを知るという宿命を負わされている。

「自分」という視点を抜きに「自分の死」は想像できない

 だが、第二の考え──そして、「死のパラドックス」のもう一面──は、その正反対のことを告げている。私たち自身の消滅は不可能だ、と。実際のところ私たちは、“自分が死んだらどうなるか”を想像しようとするたびに、つまずく羽目になる。現に存在していないところを思い描くことが、どうしてもできないのだ。

 やってみてほしい。自分の葬儀までは、あるいは、ひょっとすると、暗い虚空までは思い浮かべられるかもしれないが、あなたは依然としてそこに存在している──観察者として、それを思い浮かべて眺めている目として。想像するという、まさにその行為が、あなたを魔法のランプの精のように呼び出し、仮想の存在とする。

 したがって、思考する主体としての私たち自身に、死を現実のものにすることはできない。私たちの秀でた想像力が適切に機能しない。想像をしている者が、その想像をしている本人の不在を懸命に想像しようとしてもうまくいかないのだ。

 「私たち自身の死を想像することはまったくもって不可能だ。そうしようとするたびに、じつは自分が傍観者として相変わらず存在していることが見て取れるから」と、ジークムント・フロイトは1915年に書いている。彼はここから、次のように結論した。「心の底では、自分が死ぬと信じている人は誰もいない……[なぜなら]無意識の中では、私たちの誰もが、自分は不死だと確信している」からだ。

 あるいは、イングランドのロマン派の詩人エドワード・ヤングが言うとおり、「万人が、誰も死を免れないと思っている。自分自身を除けば、だが」。

 現代の認知心理学は、この古来の直感に科学的な説明を与える。私たちが新しい事実や可能性を受け入れるかどうかは、それを想像できるかどうかに左右されるという。自分自身の死というのは、意識の終わりを伴うので、意識がないというのはどのようなものかを意識的になぞることはできない。

「死のパラドックス」を抱えながら生きる

 というわけで、私たちはパラドックスを抱えている。未来に目を凝らすと、永遠に生きたいという願望が満たされるように思える。いつの日か自分が存在しなくなることなど、考えられないように感じられるからだ。だから、私たちは自分の不死を信じている。

 それでも同時に、毒ヘビから雪崩(なだれ)まで、自分の存在に対する無数の潜在的脅威を痛切に感じており、そこかしこで他の生き物が否応(いやおう)なく命を落とすところを目にする。だから、私たちは自分の死の必然性を信じている。私たちの過度に発達した知的能力が、お前は永遠だ、お前は永遠ではない、死は事実だ、死は不可能だ、と相反することを告げているように思える。

 ジグムント・バウマンの言葉を借りると、「死の概念は矛盾を孕(はら)んでいる。そして、そうであり続ける運命にある」となる。私たちの不滅性と、死の必然性の両方が、同等の力を持って私たちの心の中に現れてくるのだから。

 この「死のパラドックス」がどのように発生するかは、自分を客観的に眺めるか、主観的に眺めるかと考えれば、説明がつく──だが、説明がつくのと解決するのとは話が別だ。このパラドックスは、私たちの最終的な運命についての、2つの相容れぬ、それでいて強力な直感から成る。私たちはそのような緊張関係を抱えたまま生きてはいけないし、生きてはいない。そのような状態は、恐怖と希望の間の、継続的で身がすくむような苦闘となるだろう。

 だが、大半の人はそのような生き方はしない。人間の境遇の中核にある矛盾に身がすくむようなことは、通常ない。それは、存在にまつわるこの窮境を理解するのに役立つ物語を創り出したからで、それらの物語が「不死のシナリオ」であることは言うまでもない。

 「誰もが死ぬ。したがって、私も死ぬに違いない。だがこれは想像できないので、私たちは不死を創出し、その所産が文明である」(ブライアン・アップルヤード)

 進歩そのものが、無期限の生を求める私たちの抑え難い欲望の産物なのだ。

(写真:Anastasios71/shutterstock.com)
(写真:Anastasios71/shutterstock.com)

(訳:柴田裕之)

日経ビジネス電子版 2022年1月18日付の記事を転載]

なぜ人類は、驚異的なスピードで発展を遂げてきたのか。
科学はやがて、死を克服できるのか。
文化・芸術から医学や遺伝子工学まで最新の知見を編み上げて、人類史の壮大な謎に迫る。

●人類の進歩・発展はすべて「4つの不死探求の道」の途上にある
●秦の始皇帝が目指した「永遠の命」
●富士山麓に住まうという仙人が見せた夢
●2度もノーベル賞を受賞した学者を虜(とりこ)にした「不死の栄養素」
●フランケンシュタインの物語が示すこと
●キリスト教はなぜ、加速度的に広まっていったのか
●ダライ・ラマ14世と輪廻(りんね)転生
●科学の力で「不老不死」は実現可能なのか
●それでも現状で、死は絶対に避けられない。ならばどう生きるべきなのか

たった一度きりの人生、より豊かに生きるために──
今こそ読みたい「知恵」の物語