前回( 麻布・小山田教諭 好奇心に寄り添う「ファッション」と「宇宙食」の本 )の「衣」と「食」に続き、今回はまず「住」に関連する本を取り上げたいと思います。
私の専門は住居学で、もともと住宅や、それを取り巻く都市空間、街をどうつくるかといったことに関心がありました。また、貧困対策や支援に取り組む卒業生の方と出会い、ホームレス支援の現状について、私自身も生徒とともに学ぶ機会がありました。
公共空間のベンチには、席を仕切る手すりが取り付けられて寝そべることができなくなったり、再開発に伴って公園からホームレスの人々が一斉に退去させられたりしています。しかし、支援をしている方たちの話を聞き、そうした整備は公共性の観点から見れば課題の残る措置でもあることを知りました。それまでは環境整備として「良いこと」だと当たり前のように思っていた自分が恥ずかしくなりました。
このことを家庭科で扱う内容に置き換えて考えてみると、今の公園は子どもたちにとっても、どこか息苦しい場所になってきているように感じます。児童公園には当たり前のように「ボール遊び禁止」の看板が掲げられ、「子どもの声がうるさい」という苦情をきっかけに公園が廃止されるというニュースも耳にしました。そのような制限や管理は、一部の人にとっては望ましい環境整備であっても、公共性を欠くのではないかと違和感を抱くようになりました。
公園は誰のための空間なのか
公園という自由で貴重な都市空間に、管理化や効率化の波が押し寄せている。そんな私が感じていたことと同じようなことを、この『 遊びと利他 』(北村匡平著/集英社)という本は見事に指摘し、まとめていました。
著者はまず、公園の変貌に注目します。現代の公園は「〜してはいけません」という禁止事項だらけ。危険性があると判断された遊具は撤去され、残された遊具にも、年齢制限や、「ブランコは20回で交代」といった回数制限が設けられる。遊具ごとに正しい遊び方が提示され、ルールに従って遊ぶことが求められる。なかには遊ぶルートまでが定められ、子どもが自由に動けない施設もあります。
この背景にあるのは、徹底した安全性への配慮だと著者は指摘します。危険や不安定な要素のない管理しやすい場所で、安全に子どもたちを遊ばせることを第一にすれば、確かにこういう形になります。遊び場の安全確保はもちろん大切ですが、それを徹底すればするほど、例えば新しい遊び方を自分たちで工夫して生み出す余地は失われていく。
著者は、他者をコントロールするのではなく、相互にポテンシャルを引き出し合うことを「利他」と呼びます。そして、利他的な関係性が子どもの自由な発想や創造性を育むのではないかという問いを出発点に、管理化や効率化の対極にある個性的な3つの子どもの遊び場でフィールドワークを実施します。
フィールドに飛び出した著者が、実際に見て、聞いて、触れて感じた遊びの本質が、ありありと描き出されていく。それがこの本の大きな魅力です。
私自身、住居や都市空間への興味から本書を手に取ったのですが、読んでみると、そこにとどまらず、遊びの空間で子どもたちの間に育まれるものが具体的に描かれていました。それはまさに家庭科の保育分野につながる内容でした。公園という切り口であれば、生徒たちも自分のこととして捉えやすいのではないか。そう考えて、保育分野の授業の際に、「こういう話があるんだよ」と本書を紹介しています。
危険を避けることは、本当に正しいのか
遊びにおいて危険性とどう向き合っていくか。危険から遠ざけるのか、それとも日常的に体験させるのか——これは『遊びと利他』の中で繰り返し問われる重要なテーマですが、学校という学びの場においてもまったく同じです。
ほとんどの公園が危険を排除する方向へ向かうなか、時代に逆行するように、子どもたちに危険を体験させる遊び場が本書には登場します。そこでは「大すべり台」に、あえて落下防止柵を設けていません。なぜなら、「ここから落ちたらやばいな」という危険に対する感覚や、端に立ったときのゾッとする感覚を持つことのほうが、柵で守ることよりも大切だと考えているからです。
著者は、「危険性を遠ざければ遠ざけるほど、子どもは危険なことを体験せず、乗り越える精神も方法も身に付かない」と指摘します。園内には、「自分の責任で自由に遊ぶ」と書かれた看板が掲げられています。
この遊び場の姿勢は、はじめから禁止や管理をするのではなく生徒に自分で考えさせるという麻布のスタンスと、驚くほど一致しています。自由を与えれば、当然失敗したり、度を超えてしまったりする可能性が出てきます。それでも、リスクを取らなければ学べないこともある。最初から制限をかけることで、そのような学びを奪う方向に向かっていけないという想いは、教員も生徒も強く持っており、そこが本校のよさだと思います。
安全を守るために、あえて危険を学ぶ
『遊びと利他』では、あらかじめ危険を排除してしまうことが、かえって危険につながる可能性について述べられていました。そのことに関連してもう一冊、保育分野の授業で実際に使っている『 子どもが体験するべき50の危険なこと 』(ゲイバー・タリー、ジュリー・シュピーグラー著、金井哲夫訳/オライリー・ジャパン)を紹介します。
「9ボルト電池をなめてみよう」「電子レンジに変なものを入れてみよう」「高いところから落ちてみよう」「指を瞬間接着剤でくっつけよう」…。この本には、もし子どもがやろうとしたら「危ないからやめなさい!」と言いたくなるような危険な体験が50項目並んでいます。
著者のゲイバー・タリー氏は「はじめに」で、「安全を守るいちばんいい方法は、危険を見極める力をつけること」と述べています。こうした危険な活動を安全に行い、体験することで、子どもたちは自分の世界を広げ、力をつけていくのです。
授業で生徒たちに「危険なこと」を提案してもらう
授業では、子どもの成長や発達段階における遊びの意味など、理論的な学習を終えた後で、この本を使います。
まず、序文にある「これらを体験しないことのほうが、結局は私たち自身や私たちの社会にとって、もっと危険なことになる」という言葉を紹介してから、50の体験のうちのいくつかを例として取り上げます。
例えば、「冷凍庫でビンを破裂させよう」。必要な物や警告(安全に行うための注意点)、そして具体的なやり方を紹介していくだけで、かなり盛り上がります。
実際にグループワークとして取り組むのは、本書の最後にある50番目の体験、「なにかしよう」です。ここで、グループごとにオリジナルの「子どもが体験すべき危険なこと」を提案してもらいます。
ポイントは、子どもの心身の発達を踏まえ、好奇心や達成感を引き出せる具体的な活動を考えること。もちろん、子どもにとってスリルのある危険な体験でありながらも、基本的な安全が確保できるものでなければなりません。
出てきた提案は、「自転車で数段のゆるい階段を下りてみよう」「雪を食べてみよう」「後ろ向きで街を歩いてみよう」などです。
面白いものの、子どもを危険にさらしてしまいそうな提案もありました。一方で、「大人が付き添えば良い体験になるのでは」といった発展的な提案もあり、充実した意見交換になりました。
こういう授業をしていて思うのは、保育という分野そのものが、生徒たちにとって決して身近ではないということです。少子化やきょうだい数の減少により、子どもと触れ合う機会そのものが少なくなっていますし、非婚化・晩婚化・晩産化が進むなかで、保育の内容はまだ先の話と感じられるのでしょう。だから実感に乏しいのも無理はありません。それでも、こういった話題であれば食いついてきて、面白い議論につなげることができるのです。
知らないがために、人を傷つけないように
手にした自由を行使していくうえで欠かせないのは、他者の視点を持つことではないでしょうか。他者に迷惑をかけてしまわないか、誰かを傷つけることにならないか。そのことを考えるきっかけを与えるのも、家庭科の授業の大切な役割だと考えています。
授業では、「ちゃんと知っておこうよ」というスタンスで、彼ら自身は経験することのできない妊娠や出産、生理について、どのようなことが起こるのかを説明します。
私自身も経験し得ることではないので、ここはかなり慎重に説明しています。そこで、「僕たちには経験できないことだけれど、学ばなければ知ることもできない。だからこそ、知ったうえで相手の気持ちや状況を想像しなくてはいけない。無知なせいで、知らず知らずのうちに人を傷つけてしまう。それって最悪じゃないか」。そんなことを生徒たちに一生懸命伝えています。
ここで教材として使うのが、漫画『 生理ちゃん 』(小山健著/KADOKAWA)です。この作品から一話を選んで紹介していますが、シンプルに面白いので、興味を持って考えるきっかけになるのではないでしょうか。授業後にはいつも感想を書いてもらうのですが、返ってくるのは比較的サラッとしたものが多いです。彼らなりの照れもあるのだと思いますが、それでも何かを感じ取ってくれたのだなと、リアルな反応として受け止めています。高校生ですからね。
自分の持つ「当たり前」を見つめ直す
最後に、自分自身も多くの気づきを得て、さまざまなことを考えさせられながら読み進めた『 私は男でフェミニストです 』(チェ・スンボム著、金みんじょん訳/世界思想社)を紹介したいと思います。
著者は、韓国の男子高校に勤める教師です。自己紹介のくだりには、「私の職場の半径200メートル内には、すぐにでも男性ホルモンで爆発しそうな完全なる『雄』800人が生息している」「教室では、悪たれ口を叩き、力自慢に余念がないが、そこに悪意はない」とあります。このあたりを読みながら、思わず共感してしまいました。もちろん、麻布生がそうだというわけではありませんが。
大学時代の著者は、男性がフェミニズムを学ぶ意義を理解できず、「女性でもないのに、なんでフェミニズムを?」と、フェミニズムを学ぶ後輩の男子に尋ねています。すると答えは、「男だからよくわからないんです。学ばないと」でした。
この言葉が、著者の目を覚まします。
「他人のことだから無関心でいられたが、他人のことだから学ぶこともできそうだ」と考えた著者は、フェミニズムを学び、家父長制の下で抑圧されてきた母の人生を振り返るようになります。
著者にとってフェミニズムは、自らの「当たり前」を問い直し、別の視点を与えてくれるツールになったというわけです。
私自身、今の生徒たちと同じ10代の頃は、フェミニズムという言葉を知ることもなく、親や周囲からの「男の子だったらこうあるべきだ」という価値観の中で育ってきました。そして、それを当たり前のものとして受け止めていました。フェミニズムを学ぶ意義について考えるところにさえ、たどり着いていなかったのです。そうした環境で育ってきた人が、いきなり「男性は特権的な立場にあるのだ」と言われたら、戸惑うのも無理はありません。
今はフェミニズムの考え方も広く知られるようになりましたが、日々接している生徒たちの中にも、かつての私と同じように、その必要性や意義を実感できていない子はまだいるのではないでしょうか。だからこそ、伝える側の私自身も、「中高生の頃は、そんなことに何の疑問も持たず、気づいてもいなかったんだよ」と、自らの価値観が揺さぶられ、変わってきた過程を必ず話すようにしています。
個々が持つ「当たり前」を一度客観視し、それを解きほぐしていくこと。そしてまずは、彼らに聞く耳を持ってもらうこと。さらに、自分とは異なる立場にいる人の視点からも物事を考えてみようと、繰り返し伝えていく。
ジェンダー平等の考え方も、公園を誰のためのものとするかも、子どもにとっての適切な環境のあり方も、根底ではすべて通じているものだと考えます。家庭科には、こうした「自分とは違う誰かの暮らしを知り、その人の立場から考えてみる」という学びが随所にあると思っています。
取材・文/平林理恵 構成/南浦淳之(日経BOOKプラス) 写真/稲垣純也
先生たちに聞いた人生を支える一冊
連載「名門校の推薦図書」をまとめた書籍です(※麻布・小山田祐太先生の記事は収録されていません)。各校の先生が、生徒に薦めたい本や授業で扱った本、自身の愛読書について、学校の特色やエピソードとともに紹介しています。
【掲載校】開成/灘/聖光学院/渋谷幕張/広尾学園/豊島岡女子学園/フェリス女学院/国際基督教大学(ICU)高校
平林理恵著、日経BOOKプラス編/日経BP/1760円(税込)







