広尾学園で教え始めて14年、国語科の教員としてさまざまな本を生徒たちに紹介してきました。その中でも特にお薦めの、人生のどこかで必ず出合ってほしい3冊を紹介します。
1冊目は、深刻な公害問題となった水俣病の患者さんやご家族の苦悩を描いた『 新装版 苦海浄土 』(石牟礼道子著/講談社)です。
著者の石牟礼道子さんは、もともと水俣町在住で、目の前の惨状に突き動かされて水俣病患者からの聞き書きを始めます。
そうしてつづられた本書で描かれるのは、手足のまひやけいれん、言語障害、失明、狂躁(きょうそう)状態などに苦しむ人々の姿。地域の漁業が壊滅して生活は困窮し、患者本人や家族は、周囲からの差別的なまなざしにも苦しめられることに。
そんな本書の第1部は、高度成長期のまっただ中の1969年に出版されました。経済発展の負の部分をえぐり出すようなこの本が、当時どれほど衝撃をもって受け止められたのか、想像に難くありません。
といっても、この本は単に公害を告発する本ではありません。著者が「わたくし」として登場し、患者や家族を訪ねて話を聞き歩くので、ノンフィクションやルポルタージュを思わせますが、登場人物が語る言葉は、本人から聞き取った生の声をもとに小説家が紡いだ言葉にほかなりません。
言葉の力強さが、作品の大きな魅力になっている
石牟礼さんは、目を見開き、耳を澄まして、言葉を発することのできなくなった患者たちの声なき声、心の声を感じ取り、その声に言葉を与えます。社会的な差別を受け、すっかり口が重くなってしまった家族に寄り添ってその思いをすくい上げます。この営み自体がまさに文学であるといえないでしょうか。
第4章に登場する杢太郎(もくたろう)少年は、胎児性水俣病のため、言葉を発せず、排せつさえも自分ですることができません。そんな杢太郎少年のことを、少年の祖父は「それでも目はみえ、耳は人一倍ほげて、魂は底の知れんごて深うござす」と言う。杢太郎少年は、一度も家族に逆らったことがなく「ただただ、家のもんに心配かけんごと気い使うて、仏さんのごて笑うとりますがな」と続けるのです。
小説家のつづるこの言葉の力強さ。暮らしに根差した方言の響き。文学の持つ力が伝わってきますよね。それがこの作品の大きな魅力になっていると思います。
公害問題は中学入試でもよく出題されるので、生徒たちはみな公害についても水俣病についても一通りの知識は持っています。でも知識として知っていることと、魂のこもった本書の言葉を読むこととはまったく違う。分かったつもりにならないで、人生のどこかでこの本に出合い、ひもといてくれたらうれしいです。
生徒たちには、日本の三大文学は『源氏物語』『おくのほそ道』『苦海浄土』と話しています。実は前の2つは流動的で、時と場合によっては他の作品に入れ替わったりします。要は『苦海浄土』を記憶にとどめてもらいたいのです。
今、読むことができなくても、卒業後どこかでこの本を目にしたり情報に触れたりしたときに、「中高時代の現代文の先生が何か言ってたな」と思い出すきっかけになれば、と思うのです。
先生たちに聞いた人生を支える一冊
あの名門校の先生は、これから大人へと成長していく、中学生・高校生たちにどんな本を薦めているのでしょうか?生徒たちに薦めたい本、授業で扱った本、自分が好きな本を紹介しながら学校の特色や、本にまつわるエピソードまでをとことん語ります。
【掲載校】広尾学園/開成/灘/渋谷幕張/聖光学院/豊島岡女子学園/フェリス女学院/国際基督教大学(ICU)高校
平林理恵著、日経BOOKプラス編/日経BP/1760円(税込)
「いのち」について倫理的に考えることが求められる
例えば治る見込みのない病気にかかり、痛み止めがまったく効かないとき、その苦しみから逃れるために安楽死を選ぶことがどうしてできないのか。例えば精子バンクから優秀で魅力的なドナーの精子を選びたがるデザイナー・ベビー願望はどこに問題があるのか。例えば結合双生児の分離手術を行う際、1人を助けるためにもう1人を殺してもよいのか…。
2冊目に紹介したいのは、そうした問題を考えるための場を与えてくれる『 はじめて学ぶ生命倫理 』(小林亜津子著/筑摩書房)です。
医療技術の進歩に伴って治療方針や自分の死の迎え方など、「いのち」に関する医療を自分で選ぶ機会が増えてきています。そんななかで私たちは自分の「いのち」の始まりと終わりを巡るさまざまな問題に向き合わなくてはいけなくなりました。「いのち」について倫理的に考えることが求められる時代になっているのです。
科学や医学はエビデンスや客観性が求められるので、明確な唯一の答えが出せそうな領域に思えるのですが、実はそうではありません。
この本は、簡単に白黒つけることのできない、しかし、人間が避けて通ることはできない大切な問題を取り上げて、読者に問いかけ、自分で考えることを促します。
人工妊娠中絶を巡る「いのちはいつ『人』になるのか」という問い。
海に浮かぶ重量オーバーの救命ボートから誰かを放り出さなければならない場面で、「誰がいのちの優先順位を決めるのか」という問い。
扱っている問題の1つ1つは深く考えさせられるものですが、語り口が平易で、『ブラック・ジャック』や『GTO』などの漫画も引き合いに出して解説が進むので、誰もが自分の問題として捉えることができます。
クラスメートと一緒に考え、対話する時間も大切
私はこの本を高校1年生の授業の中で紹介し、みんなで考える時間を設けています。また、本校には医学部や理系学部を目指す人のための医進・サイエンスコースが設置されていることもあり、医療従事者を目指す生徒も少なくありません。「医学部小論文」の授業をする際に、書く前に考える素材として、この本の中のテーマを取り上げることがよくあります。
本書のあとがきで、著者は「倫理的に考えるということは、究極的な解答を見つけるというよりはむしろ、『何が正しいのか』という『正しさの探究』をしていくこと」と述べています。
教室の中で生徒たちがクラスメートと同じ問題について一緒に考え対話する時間を、これからも大切にしていきたいと思います。
21世紀を生きる私たちが見つめなければならない歴史的事実
3冊目は、歴史に学ぶことの意義を示してくれる本『 ヒトラーとナチ・ドイツ 』(石田勇治著/講談社)を選びました。
日本史であれ、世界史であれ、生徒たちは高校3年までにたくさんの知識を頭に詰め込みます。卒業後は、現実に起きていることを前に何をどう考え、いかに行動すべきか、その思考と行動を支えるものとして、学んできた歴史の知識を生かしてほしいと考えています。そんな思いを込めて、卒業生たちに贈るブックリストの中にも必ず収めている1冊です。
本書では、ごく普通の青年だったヒトラーがどのようにしてドイツの独裁者となり、ナチ体制下のドイツで何が引き起こされたのかが最新の研究を踏まえて明かされていきます。
民主的な文明国であったはずのドイツでなぜヒトラーの独裁政権が生まれたのか、どうしてホロコーストを止められなかったのか。これらは21世紀を生きる私たちが見つめなければならない歴史的事実でしょう。
ヒトラーがずば抜けた演説能力の持ち主であり、ナチ党が集会活動での演説を通して支持を広げていったことはよく知られています。加えてこの本には、全国に活動を広げるために弁士養成学校をつくり、通信添削とスクーリングで弁士を鍛え上げたことまで書かれています。
そんなプロパガンダが功を奏し、人々はヒトラーとナチ党に引きつけられていく。やがてそれは、レイシズムや優生思想を背景に、ホロコーストへとつながっていくという、その恐ろしさ。
今の世の中、排外的な風潮が広がり、社会から寛容さが失われつつあるといわれています。その先にあるものは何なのか。『苦海浄土』も『はじめて学ぶ生命倫理』も、この『ヒトラーとナチ・ドイツ』も、これからの社会の担い手として活躍していくことになる生徒たちに大切なことを示してくれるのではないでしょうか。
取材・文/平林理恵 構成/南浦淳之(日経BOOKプラス) 写真/鈴木愛子







