世界を理解するためのツールである言葉。その自由さや豊かさ、楽しさを感じさせてくれる本を前回( 豊島岡女子・降籏教諭「理系の生徒も国語嫌いにさせない」 )は紹介しました。
 続く今回は、ちょっと背伸びしてでも生徒たちに読んでもらいたいと思う哲学書を2冊紹介します。

降籏みなみ(ふりはたみなみ)。豊島岡女子学園中学校・高等学校 国語科教諭。千葉県生まれ。豊島岡女子学園中学校、高等学校を経て、東京学芸大学を卒業、同大学院修了。大学では主に『源氏物語』に触れて過ごした。趣味は合唱とピアノ。現在、中学3年生を担任
降籏みなみ(ふりはたみなみ)。豊島岡女子学園中学校・高等学校 国語科教諭。千葉県生まれ。豊島岡女子学園中学校、高等学校を経て、東京学芸大学を卒業、同大学院修了。大学では主に『源氏物語』に触れて過ごした。趣味は合唱とピアノ。現在、中学3年生を担任
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 哲学書って小説と比べるとハードルが高く、「なんでそんなに小難しく考える必要があるの?」とか「なんだか自分にはわからない、すごいことを考えているんだろうな」と遠ざけられてしまうことが多いのですが、それってもったいないと思う。
 何かが起きました、それをこう知覚しました。これをただの知覚で終わらせずに、どう解釈すればいいか、どうかみ砕くかを自分に問い、考える。そうすると、世界の見え方や物ごとの捉え方がちょっと変わってくるんですよ、最終的に答えが出なかったとしても、考え抜くことで何かが変わる。これが哲学の面白さ。この魅力をなんとか伝えたいと、いつも思っています。

 そこで、今回お薦めするのが、まず野矢茂樹さんの 『語りえぬものを語る』 (講談社)。野矢さんの本は文体が軽く、文章も非常にわかりやすく、中学生くらいを対象に平易に書かれたものも少なくありません。でも、平易に書かれたことによって伝わりきらないニュアンスもあるので、今回はちょっとレベルの高いものを選びました。

「『語りえぬものを語る』は哲学書にありがちな難解な文章ではなく、ユーモアを交えた軽やかな文体でとても読みやすいですが、内容は決して易しくありません」
「『語りえぬものを語る』は哲学書にありがちな難解な文章ではなく、ユーモアを交えた軽やかな文体でとても読みやすいですが、内容は決して易しくありません」
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 自分が見ているこの世界は、他の人からどう見えているんだろう、という哲学的な問い。そんなの同じように見えているに決まっているじゃないか、というのが普通の反応なのでしょうが、私自身は、たとえば友人と一緒に歩いていて赤信号で立ち止まったとき、私の見ている赤と友人の見ている赤は同じなのかどうか、という素朴な疑問を抱えていました。

 これに対して、自分が見ているものと他人が見ているものはまったく違う、原理的には自分以外の人間のことはまったくわからないという考え方があります。若いころの私は、これがなんだかふに落ちなくてずっとモヤモヤしていました。

授業中の雑談で生徒に野矢さんの著作を紹介すると……

 そんなときに、野矢さんの講演を聞く機会がありました。野矢さんは「他者が見る世界なんてまったくわからないという考え方があるけれど、そんなことはない。完全にわかることはできなくても、他者と共有している世界の見え方も確かに存在している」とおっしゃり、「他者に到達すること」とはそもそもどういうことなのかを解説してくださったんです。

 これを聞いて、当時大学院生で、母校であるこの学校で非常勤講師をしていた私はとても感動してしまいまして。授業中の雑談のような形で、生徒たちにその感動を伝え野矢さんの著作を紹介したんです。そしたら、次の授業のときに1人の生徒が「野矢さんの本、買って読みました」と言いに来てくれた。
 うれしかったですね。生徒に興味を持ってもらえる領域を紹介できたことにも、その領域が哲学であったことにも、教師としての手応えを感じることができました。

「哲学の領域で生徒に興味を持ってもらえたことで、大学院生であった私は教師としての手応えを感じることができました」
「哲学の領域で生徒に興味を持ってもらえたことで、大学院生であった私は教師としての手応えを感じることができました」
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 そんな個人的な思い入れがあってセレクトした『語りえぬものを語る』では、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」の結びの言葉である「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」を起点に、「語りえぬもの」の姿をあぶりだすための議論が次々と展開されます。哲学書にありがちな難解な文章ではなく、ユーモアを交えた軽やかな文体でとても読みやすいけれど、内容は決して易しくありません。

 これを読んで、「ほうっ」と膝を打つ生徒はまずいないでしょう。私自身、「なるほどね」「あ、なんかわかります」という反応を期待してこの本を持ってきたわけではなく、たぶんさっぱりわからないだろうなと思っています。
 よくわからないけれど、自分たちとはまったく違うこういう世界の見方があるんだな、ということに気づいてもらえればいい。それが、これからの人生でいろいろな出来事に出合ったときの、物ごとの受け止め方や捉え方の素地になるような気がするんです。

 先ほど私は、生徒たちにちょっとだけ背伸びをしてもらいたいと言いました。背伸びをするというのは、すんなり受け入れられるとは限らないものに触れようとすることです。今は、衝突を避け、受け入れがたいものを避けて、心地いいものにだけ囲まれて生きていくことができる時代です。だからこそ、生徒たちには中高生のこの時期に、すんなりいかない感じ、ざらつきのようなものを経験しておいてほしいなと思います。

「読書で自分たちとはまったく違うこういう世界の見方があるんだな、ということに気づいてほしい。これからの人生でいろいろな出来事に出合ったときの、物ごとの受け止め方や捉え方の素地になります」
「読書で自分たちとはまったく違うこういう世界の見方があるんだな、ということに気づいてほしい。これからの人生でいろいろな出来事に出合ったときの、物ごとの受け止め方や捉え方の素地になります」
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「歴史や悪をどう捉えるか」の知見を与えてくれる

 次にお薦めするのは20世紀を代表する政治哲学者ハンナ・アレントの 『責任と判断』 (筑摩書房)。彼女は、第2次世界大戦中にナチスの強制収容所から脱出してアメリカに亡命したドイツ系ユダヤ人。自らの体験を通してナチス・ドイツや全体主義体制を分析した世界的な名著を何冊も残しています。

「『責任と判断』も中高生には難易度は高いですが、ちょっと背伸びをしてなんとか読んでほしい」
「『責任と判断』も中高生には難易度は高いですが、ちょっと背伸びをしてなんとか読んでほしい」
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 前述した野矢さんの本が「世界の眺め方」を示してくれるものであったとすれば、アレントのこちらは「歴史や悪をどう捉えるか」の知見を与えてくれるものだと言えるでしょう。

 アレントはこの本の中で、自分で考える責任を放棄した瞬間に生まれる「凡庸な悪」の姿を明らかにしています。
 ナチス・ドイツでホロコーストを指揮する立場にあったアドルフ・アイヒマン。彼は、大罪を犯すような極悪人ではなく、自身の出世という世俗的なことにしか興味のない人物だったといいます。そんな人物がなぜ数百万人もの虐殺を指揮できたのか。アレントが指摘したのは、アイヒマンは思考しようとする意思が欠けており、上層部の命令を忠実に実行しただけで、罪悪感をまったく抱いていなかったということ。自分で考える責任を手放した結果、凡庸な人間が平然と虐殺を行うという恐ろしさ。
 さらに恐ろしいのは、「全体主義の政府が発見したことの一つに、巨大な穴を掘って、そこに歓迎できない事実と出来事を放り込んで埋めてしまうという方法があります」という指摘ではないでしょうか。過去はなかったかのように忘れ去るべきものとされてしまいかねないということ。
 一方アレントは、過去が私たちにつきまとうのは正しいことだといいます。「この世界を生きようと願う私たちにつきまとうのが過去の機能だ」と。つまり「起きたこと」を現在の私たちに突きつけてくるのが過去であり、過去は決して水に流したりできないということなのですね。

 ……こちらも難易度が高いです。でも苦しいだろうけど、ちょっと背伸びをしてなんとか読んでほしい。異物に触れるこの息苦しさや辛さが、想像もしなかった化学変化を自分にもたらしてくれるかもしれません。

自分と異なる価値観で生きる他者を理解する

 とっつきにくい分野の難しい本をあえてお薦めした理由を最後に説明したいと思います。

 生徒たちは高校を卒業すれば、それぞれ専門分野へと進んでいくことになります。だからこそ、ここで哲学や論理学に触れてほしいのです。哲学や論理学は、多くの生徒たちにとって、もう一生触れる機会がないかもしれない学問領域だから。こういう世界があるということに気づかずに生きていくのは、やはりもったいないような気がします。

 どのような道に進むのであれ、大学生や社会人になればまったく価値観の異なる人とのかかわりは避けられませんよね。自分の好きなものしか見えない世界の中で生きているわけには生きません。仲間うちで閉じていたら、どうしたって見えてこないものがあります。

 哲学や論理学は、自分と異なる価値観で生きる他者を理解するときの姿勢や構えを養ってくれるものであると私は考えています。

 だから、ちょっとだけ背伸びした読書をしてほしい! これが国語の教師としての私の願いです。

「哲学や論理学は、自分と異なる価値観で生きる他者を理解するときの姿勢や構えを養ってくれます」
「哲学や論理学は、自分と異なる価値観で生きる他者を理解するときの姿勢や構えを養ってくれます」
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取材・文/平林理恵 写真/稲垣純也